隠れ里に、 飛鳥あり

   家並にしても、昔から離れる事ができない趣を保っている、暮らしの顔。三つの谷にある尾曽(おおそ)・畑・入谷(にゆうたに)の三つの集落は文字通り「飛鳥の隠れ里」になっている。

   尾曽の里

   飛鳥のシンボル「石舞台」から東へ約2`、その名も美しいが、流れも綺麗な冬野川沿いをのぼると「もうこんの森」と呼ぶ「気都倭既神社」がある。祭神は大国主命の娘らしい。斬られた入鹿の首が、多武峰へ逃れていく鎌足を追っかけた(民話)神社の背後の追分道を右へとると、尾曽になる。約1`に大樹を目印にして土塀を巡らしてある。付近の突き出た台地に、農家が点々と五軒しかない。城壁そっくりの石垣の上に豪壮な農家がある。この家も廃城のように静まりかえっている。この辺り、飛鳥が眼下に広がる。

  飛鳥の里は、丘と丘の重なりと言うのが良く分る。その背後に、二上・葛城の山並みが大手を広げたように立ちはだかっている。夕べが迫ると、二上山辺りを真赤に染める落陽はアッと言うまである。残影が流雲の緑を金色にする。

   畝傍山が黒い鳥のよう。かくれ里に「飛鳥があった」。

   入谷の里(稲淵の里・栢の森)(にゅうだにのさと、いなぶちのさと、かやのもり)

  石舞台から南の道が芋峠へ出る古代の吉野道にあたる。持統女帝はじめ歴代の帝や、宮廷の女人まで吉野離宮への往還を重ねた。吉野と飛鳥の交易の道にもなった。飛鳥川沿いに登ると、最初の集落が大化改新のアジトになった稲淵。石垣と土塀造りが肩寄せ合っている。 隋から帰った学者南淵請安を中心に、中大兄皇子、鎌足が、蘇我氏打倒を図った夜間熟がこの里にあった。稲淵を中心にして、飛鳥川下流に渡してある勧請縄が目に付く。男性を形どったのが川の中ほどにブランブランしている。稲淵の集落が無くなる上流の曲がり角辺りに女性の形どった勧請縄がある。中ほどに丸いのがこれまた揺れているが、下流ほどリアルでないから分りにくい。

   次の集落が栢の森、芋峠の入り口になる。道標の通り登ると、入谷である。入谷も又羊腸2`を描いて、どこえ目を移しても桃源郷である。曲がり角の台地や斜面に農家が総計28軒。

 飛鳥には女神が散っている。それも遠慮したように。例えば、さきの「もうこんの森」、女陰の勧請縄の向い側の神名も長いが、石段も長い「飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社」(かみにいますうすたきひめのみこと)、そして、この入谷の頂上にも大仁保(おおにほ)神社の女神など。入谷の面白い話は共同浴場である。むかし、といっても近い昔、湯が沸くとホラ貝で知らせる。ホラ貝を吹いた所をカイフキ場、風呂のあったところをフロン谷、といまでも地名で呼ばれている。それほど水が少なく、大切にしていた。

    畑・冬野の里。

   石舞台から冬野川を登ると、初めての集落が細川。大和棟、土塀を連ねるこの集落も一葉の絵である。石仏の道しるべがある橋を渡って、いきなり急坂を登る道が畑・冬野へ通じる。畑集落までの4`は、九十九(つづら)折りの道だけに、歩くにつれて眼下の飛鳥風景画めまぐるしく変化する。疲れを忘れてしまう。集落は600mの高さにある。ここからは吉野連峰が、その山容から山名が解るほど爽やかに見える。畑から400m登ると飛鳥政権の犠牲になった悲運の王子、良助親王の稜脇に三戸だけの冬野集落がある。昔の旅籠も残っている。大和から吉野へ出る峠であった。