古墳時代から大和政権 | 飛鳥時代 | 推古天皇 |
聖徳太子 | 酒船石遺跡 | 明日香村 |
県内最古の遺跡は、奈良市の高塚遺跡と天理市の鈴原遺跡で、旧石器時代の出土品がみられた。縄文時代の遺跡は木津川水系に大川遺跡、吉野川水系に宮滝・丹治遺跡と、川沿いに点在する。古墳は、5世紀に巨大な前方後円墳がつくられ、その大半は奈良盆地にある。大和朝廷が強大な力をほこった時期で、高市郡明日香村の高松塚古墳がよく知られる。1972年(昭和47)に発掘され、石室内には大陸の影響をうけたとみられる服装の人物や動物の壁画が色鮮やかにのこる。
大和朝廷は、持統天皇の代に大和三山にかこまれた地に中国を模した都城藤原京を建設し、それまでの中心地の飛鳥浄御原(きよみはら)から、都をこの地にうつした。この地に白鳳文化が花開いた(→ 飛鳥時代)。さらに、奈良盆地北部の交通の要衝に、藤原不比等が中心になって新しい都城づくりがすすめられた。710年(和銅3)、元明天皇は藤原京の3倍の規模を擁する平城京に遷都した。平城京は古代統一国家の首都として人口20万人をかかえ、聖武天皇の時代(724〜749在位)に頂点をむかえる。東大寺で大仏開眼をし、各地に国分寺、国分尼寺の建立をすすめ、唐風文化をとりいれた天平文化が花開いた。しかし、政争は激しさをまし、794年(延暦13)には平安遷都がおこなわれて平城京は荒廃した。
以後、のこった南都七大寺(東大寺、興福寺、元興寺、薬師寺、大安寺、西大寺・法隆寺)に門前町ができてさかえた。興福寺は藤原氏の氏寺として力をもち、さらに神仏習合の考え方をもとに春日大社の実権をもにぎり、広大な春日・興福寺領を背景に朝廷に対しても影響力をもっていた。
1180年(治承4)、反平氏の姿勢を強める興福寺に対して、清盛は重衡に命じ、興福寺をはじめとする南都を焼き討ちしたが、復興は翌年にはじまり、寺社を中心として門前町・奈良がふたたびさかえた。
南上空からみた平城宮跡
平城京の北端中央に位置する宮域は、約120haあり、政治や国家的儀式がおこなわれる大極殿や朝堂院、天皇の住まいである内裏、諸官庁などがあつまっていた。国の特別史跡に指定されている。
高松塚古墳の壁画 高市郡明日香村でみつかった高松塚古墳石室内の西壁にあった4人の女子像。同じ西壁の入り口側にも4人の男子像が描かれていた。東西の壁に男女4人ずつ合計16人の人物像があった。服装や、もっているさしば(左)と如意(中央)などの持ち物類は、当時の高句麗や唐の古墳壁画と類似するところも多い。7世紀末〜8世紀初頭。