寒冷化の環境激変は列島の地形をも大きく変えていた。6000年前をピークに内陸深く入り込んでいた海は徐々に遠のいた。これを「海退」という。海退によって4000年前頃には可也の谷が埋まり、それまでとは異なる平野という環境が生まれつつあった。
その環境に適応しての新たな食料獲得の技術と知識を磨いていく。
東京から荒川を挟んですぐのところにある埼玉県川口市赤山。1984年、東京外郭環状道路、いわゆる外環道の建設に伴う発掘で貴重な発見があった。それは材木を長さ約9m、幅約2・4mほどの長方形に組み上げた施設だった。施設はさらに五つに仕切られ、人が立った状態で横並びになって何らかの作業ができるような構造になっていた。周辺から見つかった遺物からその施設が何だったのか推定できた。見つかった遺物とは大量のトチ(トチノキ)の実の種皮。ここは巨大なトチの実のアク抜き施設だった。
トチは実が大きく、クリの倍以上のカロリーがある反面、アク抜きにいくつもの工程を要し、一週間から十日程度の時間がかかる。外環道建設現場から発見されたのは、その手間暇のかかるトチの実のアク抜き作業を大量に行えるよう工夫した施設だった。木枠を組む技術、複雑なアク抜きを可能にした知恵など、縄文時代を通して培われてきた森の知恵の集大成ともいえるものだった。
環境がそれほど厳しくなく、クリの大規模な管理栽培が行われていた頃、食料の多くはクリによってまかなわれ、トチの実は食料としてはあまりメジャーなものではなかった。しかし、環境が悪化し、新たな食料資源の開発が必要となったとき、人々が着目したのがトチの実だった。
又その頃、冷涼で湿潤を好むトチノキが縄文人の周りで増加するという偶然も重なった。彼らはトチの実のアク抜き術を開発し、大規模な水場施設を建設して大量に処理することで、新たな食料資源の獲得に成功した。
川口市教育委員会の金箱文雄氏は、このアク抜き施設の発掘に当たった経験から、凡そ3000年前の縄文人の食料獲得戦略にそれまでの時代とは異なった社会の姿が反映しているという。
「アク抜き作業場はこの近隣の三つのムラが共同で管理していたようです。アク抜きを行うためだけに三つのムラの人達は集まり、共同でトチのコザワシを作り、ムラへと持ち帰った」
トチのアク抜き施設が作られた頃、ムラのあり方はそれまでとは大きく変わってきたようだ。それまでのムラは三内丸山のようにムラの中に全ての施設を持ち、多くの人々が一緒に住むような、いわば拡大型の巨大集落だった。
それが4000年前の危機を経て、ムラは分散し、小さなムラが点在するようになった。小さなムラには生活に必要な施設がすべて完備されているわけではない。又大規模な共同作業をするにも人が足りない。そこで人々は大規模に行ったほうが効率のよい作業の施設を、いくつかのムラで共同管理し、作業もムラびとが総出し共同で行うことで生産性を向上させていたとかんがえられる。
こうしたムラの分散と作業場の共同管理については、別の面から考えれば、ムラの大規模化が難しかったために選択された処置だと見ることもできる。
当時、トチのアク抜きをはじめ、川沿いではユリ根やカタクリなどの根菜類から澱粉をとることも行われ、水辺の利用頻度が急速に高まっていた。しかし、海退によって形成される過程にあった水辺(低地)は、まだまだ利用できる空間は限られていた。
当時、川口の赤山周辺の台地と低地の比率は6対4だったという。その台地の上には三つのムラがある。この三つのムラがそれぞれ同じように水辺を取り込んだムラづくりをしょうとすると、水辺の空間は相対的に少ないわけだから、いずれ軋轢が生じることになるだろう。そうしたムラ同士の軋轢を回壁しながら、なおかつ食糧生産活動に必要な水辺を有効利用するために、共同作業場という選択がなされたと見ることもできる。
ムラとムラとの共同作業を経て、ムラを超えた集団が生まれ、社会システムが整い、それが地域社会を生み出していったのではないかと、金箱氏は考えている。
それは来るべき農耕社会に十分対応できる社会の成熟度だったといっていいだろう。
時代はさらに下り、列島に水田稲作が伝わったとき、この新しい食料生産技術はすんなりと受け入れられ、急速に列島各地に浸透していった。水田稲作には川から引き込む灌漑水路が必須うだった。しかし、水の流れを制御して一ヶ所に引き込むという技術は、すでに縄文人が持っていた技術を応用すれば難なくこなすことができるものだった。
トチの実のアク抜き施設に使われていた流水の引き込む技術との差はそれほど大きくなかったといえる。そして水田稲作のように、田植えから草刈りなど、収穫にいたるまでの手間暇かかる作業を共同で行うだけの社会システムが縄文時代に既に培われていたことが、稲作の急速な普及の背景にはあった。
縄文の知恵は形を変え、列島の新たな文化のなかに溶け込み、受け継がれていったのだ。
その後の日本列島は、列島の「北」と「南」と「中」の大きく分けて三つの地域でそれぞれに異なる道をたどるようになる。
縄文時代には狩猟採集を中心に、一部栽培を取り入れるスタイルではほぼ一様だった日本列島の人々の暮らしに、多様なスタイルが生まれていく。北海道と北東北の一部は縄文時代以来の森の生活で十分に暮らせるだけの食料に恵まれ、縄文を受け継ぐ文化が花開く。南西諸島では豊かな海の幸とイモ類を中心とした焼畑農耕を基本にした独自の生活スタイルが築き上げられる。
そして本州、四国、九州では水田稲作を主な生業とした「クニ」が造られ、次第に一つに纏め上げられていくのである。