ムラの結束を強めたマツリ
凡そ4500年前、三内丸山は最盛期を迎えた。交易によって手に入れた物資と、計画性を持ったクリの管理栽培によって繁栄は築かれた。住居の数も増え、様々な施設が計画的に配置されていた。
三内丸山の繁栄を考えるときに、もうひとつの側面を意識しないわけには行かなかった。それはつまりマツリである。
三内丸山の北、南、西の三ヶ所に高さ2mほどに盛り上がった人工の丘があり、「盛土」と呼ばれている。土砂や土器、石器などの廃棄物が長期間にわたって堆積したものだ。土器形式の分析から1000年以上かけて造られたことがわかる。この内南の盛土からは数多くの土偶も発見された。三内丸山遺跡では、これまでに1500点以上の土偶が発見されているが、その8割がこの盛土から出土している。
ちなみに1500点というのは一つの遺跡で発見された土偶の数としては日本一である。
不思議なことに殆どの土偶は一部が欠けた状態で見つかっている。土偶の用途については諸説あるが、子孫繁栄や大地の豊饒を祈るためのもの、病気治癒などの願掛けのためのものと見られる。その土偶が盛土から数多く見つかった事実は、盛土が何らかの「祈り」にかかわる場であったことを示している。
大量に見つかった土器片も、自然に壊れたというよりは明らかに故意に壊したものと思われ、中には殆ど使われた形跡のないものまでが割られている。しかも大量の土器や土偶は敷き詰められ、その上は土砂で覆われていた。土偶以外にも盛土からはお供え用の手のひらに乗るような小さな土器や装身具も見つかり、さらには繁栄の象徴ともいえる交易品、ヒスイの首飾りも見つかっていた。三内丸山遺跡対策室の岡田康博氏は盛土でマツリが行われていた可能性が高いという。
文化庁で日本の遺跡発掘調査を統括する主任文化財調査官の岡村道雄氏は、三内丸山のマツリに「送り」の儀礼を見る。「送り」とはモノが壊れたときや役目が終わったときにそのまま廃棄するのではなく、モノを「あの世」へ送る行為だ。三内丸山の盛土に敷き詰められた土器や土偶もこの「送り」のマツリの結果だという。
岡村氏は「彼らは物には生命が宿っていて、この世での役割が終わるとカミの世界に帰り、また再びカミの命でこの世に遣わされると信じていた。従って、供え物を添え、火を炊いて感謝の念を込めてカミの世に送り、カミに現世はよかったと報告してもらい、再来してくれることを祈った。、、、、縄文人は、現代人がゴミとして遠ざけるものを、汚いもの、邪魔な物、遠くに捨て去る物とは考えず、逆に自分たちに恵みを与えてくれた物として感謝を込めて送った。」
三内丸山の崩壊
4000年前の三内丸山
集落が始まりとともに急増したクリの花粉は終末期に急速に減少し、その後はブナやコナラ、トチノキなどの自然林の構成に変わる。人工のクリ林に支えられてきた三内丸山に何らかの事態が起こったのは確かだ。
集落の最盛期、三内丸山の台地は見渡す限りのクリ林だった。そして人々はクリに大いに依存しいていた。そこに生態系が乱れるほどの急激な環境変化が起こり、クリ林もダメージを受けた。
岡田康博氏は、三内丸山消滅の原因としてクリ管理システムへのダメージを挙げる。そのシステムが巨大化すればするほどそのショックが大きいのではないかというのだ。クリ林という人為的な森に食料を依存する傾向が強くなるほど、何かあったときに他の食料資源への切り替えがうまくいかず、社会により一層の動揺が起きたのではないかという。
三内丸山の人々はもともと海や森の資源をうまく組み合わせて暮らしていた。しかし、クリという単一の食料への依存を高めすぎた結果、従来持っていた食料獲得の多様性が失われてしまったというのだ。
縄文時代前期から中期にかけては三内丸山に限らず、東日本の広い範囲でクリの管理栽培が行われていたと考えられる。
三内丸山と同じように集落の周りに高い比率でクリ花粉が発見される遺跡が多いことからわかる。そして、そのいずれの場所でも4000年前の危機を乗り越えることができずに社会が衰退している。
東京大学教授の今村啓弥氏は縄文文化を「各種有用植物の栽培において、食糧生産の一歩を開始し、クリ林の育成という独特の方法において社会的に大きな意味のある食料生産の段階に達した」として世界の文化のなかでも独自の文化とする一方で、次のようにその限界を指摘する。
「しかし、それは又一面において自然の営みに半分乗っかる形での生産であり、自然の変化自体には逆らえなかった点においても限界があった」
この「自然の変化」とはおよそ4000年前の寒冷化を指している。
2000年秋、三内丸山の発掘現場から掘立柱建物の柱が掘り出された。その目木材はクリの木だった。三内丸山では有名になった六本柱を含め、クリが建築材としても大いに利用されていた。その掘立柱建物もまさにそうだった。掘り出したクリの木は切断され年輪分析が行われた。年輪の数は74本。樹齢74年で切り倒されて木柱に使われたことを示している。計測によるとクリの木の初期生長は極めてよく、現代の雑木林で得たクリの生長データーと比べてもトップクラスの早い成長だった。
しかし、その後、60年後を過ぎると急速に成長が悪くなり年輪幅が極端に狭くなる。何らかの異常があったと考えられる。この木柱が伐採された年代は三内丸山の繁栄が既にピークを迎え、下降線をたどろうとしていたときのことだった。
三内丸山を崩壊へと導く急激な寒冷化が襲うのはそれからまだ先のことだが、クリの木の生長が悪くなったことは、何らかの自然環境の変化を物語っている。
凡そ4000年前、三内丸山のムラは完全に消えた。人々は巨大なムラを作ることを止め、分散して小さい資源を有効に利用する生き方に変えた。この場所に人々の生活の痕跡が次に確認できるのは平安時代になってからである。