三内丸山遺跡からは人々のゴミ捨て場が発見されている。低湿地であったため、当時の食べ物のカスが分解されずにそのまま残されていた。
まず魚介類が多い。イワシ、ブリ、アジ、サバ、ヒラメ、マダイ、マグロ、さらにシャコやイカなど50種類以上の魚の骨が見つかっている。全長1mにもなるマダイの大きな骨も出土した。ムラから見える陸奥湾は穏やかで漁に適している。津軽海峡を通り抜ける対馬暖流、そして太平洋側からは寒流の親潮も津軽海峡には流れ込んでいた。
暖流、寒流それぞれの魚介類が陸奥湾に入ってきて、種類も豊富だった。三内丸山の人々は、好んで魚介類を食べていたようだ。さらに秋になれば集落の脇を流れる沖館川にサケが上ってきたであろうから、海の幸、川の幸に支えられた食糧事情は相当に豊かなものだったと想像できる。保存技術も縄文時代の初めには確立していたと考えられるから、大量に乾物も作られ、流通する分も含めて大量に蓄えられていたことだろう。
さらに縄文時代の基本食料である木の実も重要な食料だった。
クリの管理栽培で発展したムラ
国立歴史民俗博物館助教授の辻誠一郎氏は、三内丸山遺跡の発掘当初から現場に足繁く通い、遺跡のあらゆる場所で地層のサンプルを丹念に集めた。
三内丸山で見られる植物の花粉の分析状況を、時間軸に沿ってグラフにしてみる。するとそこにはあまり対照的な二つの曲線が描きだされた。一方はコナラ・ブナ、もう一方はクリである。
三内丸山に人々が暮らし始める前、台地の殆どがコナラやブナの原生林だった。それが人々が住み始めた凡そ5500年前になるとコナラやブナの花粉が急激に減少し、代わってクリの花粉が急増する。そしてその後、殆どがクリの花粉になる。このことはコナラやブナの原生林で覆われていた三内丸山の台地が、人々の居住を境にして急速にクリが大半を占める森に変貌したことを示している。
然界でクリの純林はありえないと辻氏はいう。クリは明るく開けた土地を好むが、自然界は競争が激しく、クリがまとまって生えることなど許さない。そんな環境がもしあれば、すぐにでも他の植物が進入して芽を出し、雑木林になってしまう。
ところが三内丸山では、台地がクリだけと考えられるような状態が長期間にわたり続いている。これは自然界では異常事態だ。また一方で、コナラやブナの森が激減するのも自然界では考えにくく、何らかの人為的な要因がないと説明できないという。これも又、自然界のこととしては異常事態といえる。
三内丸山では入植した人々がコナラやブナの原生林を切り開き、そこをクリ林に作り替え、長期にわたって維持・管理していた。三内丸山の人々の目の前に広がる風景は、整然としたクリ林が続く人工的な空間だった。
辻氏はさらに分析を進め、三内丸山の創成期にあたる地層からブナなどの炭を検出した。このことから三内丸山の台地に入植した人達はクリ林造成の際に、原生林に火を入れる行為を行っていたのではないかと考えている。ただ、人々はこのとき初めて火入れを思いついたわけではない。その知恵ははるか以前からあったのではないかという。
彼らは森を襲う山火事を見ていた。山火事の後、焼き尽くされた土地には明るい場所を好むクリがいち早く生え、食料をもたらしてくれた。こうした経験が知識となり、次第に人為的に火を放つようになったと考えられる。
三内丸山の人々は自らの手で作り上げた人工のクリ林を維持管理し食料を確保に成功した。三内丸山遺跡からはその莫大な量のクリを大量貯蔵する施設も発見されている。大型貯蔵穴である。
貯蔵穴とは地面に穴を掘り、そこに土器や籠に入れた木の実を収納するスペースで、直径1m以上、深さ2m以上にもなり、密集して作られている。三内丸山を含む東北地方北部では特に大きく、その形は理科の実験で使う三角フラスコのように穴の底の部分が広くなっている。人々ははしごなどをかけて穴に下り、収穫した大量のクリを詰めた土器を並べていたことだろう。
三内丸山では台地の縁に100個以上の大型貯蔵穴が密集しており、年間を通じて計画的に貯蔵していたことも考えられる。しっかりした計画性をもって継続的にクリの管理栽培・貯蔵が行われたからこそ、三内丸山の千数百年に及ぶ繁栄は支えられたのだった。
三内丸山の精神社会と崩壊
4000年前の三内丸山
集落の始まりとともに急増したクリの花粉は終末期に急速に減少し、その後はブナやコナラ、トチノキなどの自然林の構成に変わる。人工のクリ林に支えられてきた三内丸山に何らかの事態が起こったのは確かだ。
集落の最盛期、三内丸山の台地は見渡す限りのクリ林だった。そして人々はクリに大いに依存していた。そこに生態系が乱れるほどの急激な環境変化が起こり、クリ林もダメージを受けた。
岡田博康氏は、三内丸山消滅の原因としてクリ管理システムへのダメージを挙げる。そのシステムが巨大化すればするほどそのショックが大きいのではないかと言うのである。クリ林という人為的な森に食料を依存する傾向が強くなるほど、何かあったときに他の食料資源への切り替えがうまくいかず、社会により一層の動揺が起きたのではないかという。
縄文時代前期から中期にかけては三内丸山に限らず、東日本の広い範囲でクリの管理栽培が行われていたと考えられる。三内丸山と同じように集落の周りに高い比率でクリ花粉が発見される遺跡が多いことからわかる。そしてそのいずれの場所でも4000年前の危機を乗り越えることができずに社会が衰退している。
東京大学教授の今村啓二氏は縄文文化を「各種有用植物の栽培において、食料生活の第一歩を開始し、クリ林の育成という独特の方法にいて社会的に大きな意味のある食料生産の段階に達した」として世界の文化のなかでも独自の文化とする一方で、次のようにその限界を指摘する。「しかし、それは又一面において自然の営みに半分乗っかるかたちでの生産であり、自然の変化自体には逆らえなかった点においても限界があった」。
この「自然の変化」とはおよそ4000年前の寒冷化を指摘している。