氷河期の最寒冷期にシベリアからサハリン、北海道と陸続きにたどったわれわれの祖先が、さらに本州へと足を伸ばそうとしたときに立ちはだかった海が津軽海峡。氷河期でも陸続きにならなかったほどの深い海峡は、その後の日本列島の海洋環境変化でも重要な役割を果たす。
8000年前に対馬暖流が日本海を北上した。暖流は、北海道の西を通り最盛期にはサハリンまで達するルートと、もう一つ分岐して津軽海峡を通って太平洋に流れ出るルートが生まれた。
海流に乗って交易を行う縄文人の活動に大きな影響を与えた。
津軽海峡周辺は北海道側の松前半島、亀田半島、そして青森側の津軽半島、下北半島と四つの半島が角を突き合わせるかのように突き出している。
そしてその間には波穏やかな内湾が形成されている。
丸木舟航海には都合がよい。その青森側の二つの半島の奥に陸奥湾があり、さらに奥の陸地に高台に縄文の巨大なムラ、三内丸山が位置している。
三内丸山が栄えた頃、日本海には丸木舟を利用した交易ネットワークが生まれていた。
残念ながら、三内丸山では丸木舟は見つかっていない。しかし、交易を物語る遺物が三内丸山には十分に揃っていた。
三内丸山以外の場所から運び込まれた物資は数多い。ナイフや槍の材料として欠かせなかった黒曜石は、北海道や佐渡、長野からもたらされている。さらにコハクは岩手県久慈周辺から、接着剤として使われたアスファルトは秋田県から運ばれている。そして、ヒスイも勿論あった。
ヒスイ交易と三内丸山
三内丸山のヒスイは、遺跡公園に隣接する展示室でいつでも見ることができる。中でも耳飾りはヒスイ特有の美しい緑を見せ付ける。縄文人がとりこになったのも無理は無い。
富山と新潟の県境付近でしか手に入らないため、交易品として運ばれたと考えられる。
ヒスイの出土分布を見てみると、三内丸山をはじめとする津軽海峡一帯で数多く出土している。ところが、山形や秋田の遺跡からはあまり発見されない。このことから北陸と津軽海峡地域が直接丸木舟の交易ネットワークで結ばれ、ヒスイが運ばれていたと考えられる。
三内丸山からはヒスイの原石や加工途中の未完成品が多く見つかっている。このことも北陸との密接な関係を物語る。
つまり、ヒスイのような硬い石を装飾品に加工するには熟練が必要になる。技術の担い手が北陸からやってきたのか、それとも三内丸山の出身者が北陸で修業を積んだか、その点は想像の域を出ないが、北陸との密接な関係なくしては説明がつかない。
又、三内丸山をはじめ東北北部のヒスイは独特の丸い形をしていて、原産地にその形はないという興味深い事実がある。三内丸山でヒスイの加工が行われ、周辺に広がったと考えると都合がよい。三内丸山はヒスイの交易、加工、分配を取り仕切る中核のムラだったとも推測できる。
まだ疑問が残る。北陸と三内丸山の間の距離にして凡そ500キロ。その距離を乗り越えてまで二つの地域が結びつくメリットは何だったのだろうか。ヒスイと交換するに値するモノが三内丸山にはあったのだろうか。三内丸山から北陸に動いたモノは果たして何か。
三内丸山遺跡の発掘に当初から関わっている三内丸山遺跡対策室の岡田博康氏はその理由を二つ挙げる。
一つは、形として残らないものが取引された可能性。後世の東北地方の物産の例を挙げ、アザラシの毛皮やコンブなど。
もう一つは、海流の向きによって航海法が違ったのではないか。つまり、北陸から三内丸山に来るのは対馬暖流に乗って一直線だが、帰りは沿岸を半島から半島へという具合に途中寄港しながら帰ったのではないか。各寄港地ごとにその都度「モノ」と交換していくと、三内丸山の「モノ」は北陸に届かず見つからない、という。
三内丸山の繁栄には相当に豊かな物資があったと考えなければならない。そうなると食品や衣料品など消えて無くなるものが取引されていたのかも知れない。
交易と情報、縄文社会は我々が想像する以上に情報化の進んだ社会だったのかもしれない。