拡大し続ける縄文社会ー2 石に魅せられた縄文人

 日本海側を中心に、当時大流行していた耳飾り。その材料となる石は、舞鶴周辺では手に入らない石です。富山周辺など北陸が産地の蛇紋岩だったのです。

 縄文時代は蛇紋岩が良く使われている。(磨製石斧・石斧加工工場・境A遺跡

 富山湾沿岸の蛇紋岩の加工ムラでは磨製石斧のほかに?状耳飾りのような装飾品も加工して流通させていた。

 それが舞鶴にもたらされたと考えられる。大型丸木舟は北陸との交易船だった可能性が非常に高いといえる。

 さらに丸木舟の時代を下って縄文中期(5000〜4000年前)には、舞鶴周辺で北陸との頻繁なつながりを示す遺物がより一層多く確認できるようになる。北陸系の土器、コハク(琥珀)製の玉、そして蛇紋岩製の装飾品と磨製石斧も運ばれてきている。そしてさらに北陸とのつながりを決定的に示す遺物も発見されている。それは美しい緑色に輝く石、ヒスイだった。

コハク(琥珀) Amber 樹脂の化石で、黄、黄褐、褐赤色の半透明または透明なもの。不規則な塊でみつかり、中に、昆虫、クモ、ムカデなど小動物のきわめて保存状態のよい化石をふくんでいる。化学成分や物理的性質は産出する場所によって多少違いがある。樹脂光沢をもち、装飾品としてつかわれるほか、昆虫のはいったコハクは、「虫入りコハク」として置物などに加工される。摩擦によって香りを発し、帯電する。

おもにロシアやポーランドのバルト海沿岸が世界の大産地で、ほかにドミニカ、シチリア島、ルーマニアなどに産する。日本では、千葉県、岩手県などに産する。比重が小さいので、海水にうき、はるか遠くの海岸にうちあげられることがある。ヨーロッパでは、古くからペンダントなどの装飾品として利用された。日本では、古墳時代に勾玉(まがたま)や棗玉(なつめだま)に加工された。

硬度23。比重1.041.10

コハクにとじこめられたユスリカ

古代の昆虫の化石を研究することによって、有史以前の生物について知ることができる。写真のユスリカは、生きている間に樹脂の中にとじこめられたのだろう。植物の樹脂がしだいにかたまり化石化してコハク(琥珀)となる。このようにして、完全な形で昆虫などの小動物が保存されることがある。

ヒスイ(翡翠) Jade エメラルドとともに5月の誕生石。一般に緑色系統の宝石で、古くから東洋で珍重されてきた。翡翠という漢字は、鳥のカワセミを意味する。翡はカワセミのオス、翠はカワセミのメス、また緑色の意で、ヒスイの色合いがカワセミの羽に似ていることからもちいられた。はやくから、とくに中国を中心に愛用されたが、日本でも新潟県糸魚川(いといがわ)市にヒスイの加工遺跡が存在し、勾玉(まがたま)などを制作していたことがわかっている。

ひろい意味では、ヒスイには硬玉と軟玉があるが、宝石でふつうヒスイという場合は硬玉をさす。硬玉はヒスイ輝石( 輝石)、軟玉は角閃石の一種を主体とする。軟玉はネフライトの名前でよばれることが多い。

世界的に有名な産地は、ミャンマーである。「中国のヒスイ」といわれるものがあるが、中国にヒスイは産出せず、すべてここから採掘されたものである。日本では、新潟県、兵庫県、鳥取県、長崎県、高知県などに産出する。カボション・カット( 宝石)にして加工されることが多い。エメラルドのような色で半透明の最上のヒスイは、「琅?(ろうかん)」とよばれる。安価な白色ヒスイを染色したものも、市場に多くでまわっている。

ヒスイ輝石の純粋なものは化学組成NaAlSi2O6。硬度6.57。比重3.33.5。無色だが、アルミニウムの位置にクロムがはいると緑色になる。微量の鉄やチタンなどがまじると、あわい青色や紫色をしめす。繊維状の結晶が密にからみあって塊状になり、そのためきわめて強靭(きょうじん)でこわれにくく、硬度の数字以上にかたく感じられる。高い圧力をうけてできた変成岩中にのみ産する。

ネフライトは、緑閃石という鉱物の繊維状結晶が密にあつまってできている。硬玉にくらべてやわらかく、加工しやすい。産出量も多く安価なので、大小さまざまな彫刻工芸品として利用される。色はやや暗いくすんだ緑色で、硬玉より脂ぎった感じがする。化学組成Ca2(Mg,Fe)5Si8O22(OH)2、少量のナトリウムなどをふくむ。硬度56。比重3.0。ヒスイ輝石と同じように変成岩中に産する。アラスカ、メキシコ、ニュージーランド、トゥルケスタン、日本など、造山帯地域が産地である。

 縄文人は、石に相当なこだわりを持っていたらしいことが、ヒスイを知れば知るほど確信に近いものになってくる。

 ヒスイは硬玉とも呼ばれ、日本列島にある石の中でもっとも硬い石。その産地は新潟県糸魚川市から富山県朝日町周辺に限られる。ヒスイや蛇紋岩は原産地のムラで装飾品や磨製石斧に加工され、日本海を行き来していたのだ。

 中でもヒスイの装飾品は縄文人の憧れの的となっていた。蛇紋岩との違いはその希少性、さらに高い硬度ということもあるが、やはりその輝きが一番だったのだろう。ヒスイは光を通すと緑に妖しく輝く。その神秘性が威信材として珍重されたと考えられる。

 縄文時代のヒスイの装飾品が日本列島全域、北は北海道礼文島から南は沖縄本島までの広い範囲で発見されている。

 装飾品となるような質の高いヒスイは、日本列島では北陸の一部にしか産出しない。縄文時代、原産地・北陸を中心に日本列島南北3000キロに及ぶヒスイ大交易ルートが出来上がっていたのだ。そしてその広範囲の交流を支えたのが海上ルートを行く丸木舟だった。

 日本海を列島に沿って北上する対馬暖流は、潮の流れさえ捉えられれば、想像以上に早く遠くまで運んでくれる海のハイウエーのようなものだった。

 こうした日本海交易の実態を浮かびあがらせる遺跡が近年、次々に発見されている。その一つが、1992年から青森市で発掘が行われている三内丸山遺跡である。

 縄文時代よりはるか昔、黒潮に乗って南からやってきた人たちの航海技術や冒険心は、この列島の人たちの中に脈々と受け継がれていた。それを思えば日本海に舟を出すことはそれほど困難ではなかったに違いない。

渡辺 利明 NHK教育番組ディレクター

考古学の新発見・玉器の世界

   新石器時代後期(中国国宝展・朝日新聞発行)

   人類が金属の利用法を知らず、もっぱら石製の道具を使っていた時代を石器時代と呼ぶ。そして今から一万年前、即ち西暦紀元前8.000年頃を境とし、それ以前を旧石器時代、それ以後を新石器時代と呼ぶのが普通である。中国の新石器時代には土器の製作技術が発達したが、新石器時代後期(前3.500〜前2.000年頃)になると、精緻な文様を刻んだ玉器が作られるようになった。金属のない時代であるから、玉器の製作には相当の労力を要したであろう。多数の玉器を納めた墓も見つかっており、玉器が地位の象徴であったことが窺える。

    中国考古学の新発見(東京国立博物館文化財部列品課長・谷 豊信)

   玉は古来、中国人が愛好し、珍重してきた宝石である。歴史書にも玉が重視されていたことを示す記事が多く残されている。戦国時代に、秦国が趙国に対し、秦の15城と趙が宝としていた玉壁を交換しようと持ちかけた話が伝えられている。秦は実は玉壁を騙し取ろうともくろんでいたのだが、趙の臣の活躍により壁は無事に趙に戻り、壁が完全な形で戻ったことから「完璧」という語が生まれた。又漢王朝では、総理大臣や外国の王の印は金製、大臣クラスの印が銀製、それ以下の役人の印は銅製と定められていたが、皇帝の印は玉製であった。中国時代の皇帝は玉を愛好し、玉が皇帝を指す代名詞となった。

   今日、中国で質の高い玉として愛好されているのは、硬玉と軟玉である。硬玉とはヒスイの類で、磨くとよく光る。一方、軟玉は、相対的に柔らかく、磨くと穏やかな艶を持ち温かみと潤いを感じさせる。

   漢時代の人々が何を玉としていたかを探る手掛りが、西暦100年頃に作られた「説文解字」という字書に、「玉は石の美しいもの」と定義した後、「潤いがあって温かい感じがある」と述べている。まさに軟玉に相応しい。

   事実、考古資料を見ると、漢時代はもとより、新石器時代以来、軟玉が愛好されていたことは明らかである。人々の玉の鑑定眼は高く、質の高い軟玉の入手に努力していたものと思われる。

   中国古代の玉の産地はどこか、そして今日最も有名な玉の産地である新疆ウイグル地区のホータンの玉が本格的に使用されるようになったか、という点は多くの人が注目しているが、確かな答えはまだない。

   玉が愛好されたのは、単に宝石として美しいということだけではなかった。玉には死者を再生させたり、遺体の腐敗を防ぐ特殊な効力があると信じられたようである。4世紀に書かれた「包朴子」は、人間には目、耳、鼻、口、前陰、後陰の計9つの穴があり、これを「金玉」でふさげば死体は腐らないと記している。

   この思想を極限まで突き詰めたのが、遺体を玉で完全に覆ってしまう玉衣である。1994年から95年にかけて発掘された徐州獅子山楚王陵の玉衣のような、全身を完全に覆ってしまう玉衣は、今のところ漢時代にしかなく、南越王墓(広東省)を除けば領地を持つ皇族の墓でしか見つかっていない。

   漢時代の皇帝陵の中心部はまだ調査されていないが、歴史書によると皇帝も金婁玉衣用いたようである。1世紀に世が乱れたとき、前漢の皇帝陵があばかれたが、玉衣を用いて埋葬されたものは、生きているように死体が保存されていたという。現代の知識からすると到底信じられない話であるが、当時の人々が考える玉衣の効能を示すものである。

   玉を多数所有する人物が現れるのは、新石器時代後期である。当時の玉器は宗教的色彩が強く、強い霊力をもつものと考えられたようである。そしてその所有者も宗教的指導者の色彩が濃かったと考えられる。

   新石器時代後期には、城壁を巡らした集落が登場し、武器も発達した。集団間の摩擦が強まり、戦争も行なわれたようである。宗教的指導者が軍事指導者ともなり、王権というべき権力が生まれつつあった。こうしたなかで、人々の関心は玉に集中し、神のため、指導者のために、素晴らしい玉器を作り出したのである。新石器時代の玉器は、美術愛好家だけでなく、歴史の謎を解く鍵として歴史研究者からも注目されている。特に1987年に調査された凌家灘遺跡では、玉人、玉龍、玉鳥など、特徴ある玉器が多数出土し、研究に新たな一石を投じた。(別記玉器写真集)

   なお、玉を鑑賞するとき注意を要するのは、玉は変色・変質することがあるということである。新出土の玉器には、表面は白いが、欠けた部分の割れ目に青みを帯びた透明感のある滑らかな部分が見えることがある。又、中国の考古学者によると、新出土の玉器は素手で触ると黒く変色するという。また出土後、表面が次第に風化して、白い粉になって崩れていくこともある。今日見る玉器の姿は必ずしも古代人が尊んだ姿とは限らないわけである。 研究が進み、玉器の本来の色を再現できるようになって欲しいものである。(抜粋)

古代中国文明=玉器の世界@、 A、 B    

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