拡大し続ける縄文社会ー1 海を駆けめぐる縄文人 アクセス解析

  縄文時代モノも人も活発に動いていた

 日本人の祖先はどこからやってきて、どのような営みを経て、日本列島に根付いていったのか。

 氷河期、シベリアでマンモスなどの大型動物を追い求めていた私たちの祖先は、凡そ二万年前の最寒冷期、獲物を求めて陸続きだったシベリア、サハリンをたどって日本列島にやってきた。

 一方、南からは海で生きる知恵を携えた人々が、黒潮の流れに乗って日本列島にやってきた。北から、そして南からやってきた人々がもたらした知恵がこの日本列島で融け合い、縄文文化が花開いた。

 列島に腰をおろした彼らは、海を渡る技術をさらに洗練させ、今度は列島各地に張り巡らされる丸木舟航路のネットワークを築き上げていく。

 その中に、もっぱら列島を動き回る交易民もいたに違いない。

 「 縄文時代に商人がいた」

 縄文時代の人々の動きについて国立民族学博物館教授の小山修三氏は「縄文時代に商人がいた」と言う刺激的な表現をあえて使い、その活発な活動振りの本質に迫ろうとしている。

 縄文時代を示す言葉に「狩猟採集」「自給自足」という言葉があった。小さなムラで細々と生きる縄文人の姿が浮かぶ。

 しかし、最近の発掘成果を見ると、縄文人をそのような小さな世界に閉じ込めておくことがナンセンスになってきている。

 縄文時代モノも人も活発に動いていた。

  日本海に大交易ルートあり

 京都府舞鶴市。小樽への定期便が発着する港、第二次世界大戦後は旧満州(現・中国東北部)やシベリアからの引き揚げ者の上陸した港、日本海有数の港町。

 縄文時代にも港として栄えていたことが明らかになった。(浦入遺跡)

 1998年、日本海に突き出した大浦半島浦入湾で舞鶴火力発電所の建設に伴う発掘が行われ、凡そ5500年前の大型丸木舟が発見された。

  舟は地下50cmの砂地の層に舳先を南の海側に向けて埋まった状態だったという。丸木舟をどけるとそこからは当時の海岸線が現れた。

 丸木舟の発見は二つの点で注目された。

 まず、その大きさ。前半部が欠けていながら残存長は5m、幅は最大で1m、深さ約20cm。船底の厚みは約7cmだった。復元すれば全長8〜10mで縄文時代の丸木舟では最大級のものと推測された。その大きさから10人は乗船可能だといわれ、船底が厚く、喫水が深いことは大きな波にも耐えられるつくりであることを示していた。

 もう一点、注目されたのは発掘現場の位置だ。発掘現場は舞鶴市でも最も日本海に突き出した大浦半島の浦入湾にある。外洋につながる若狭湾はすぐそこだ。湾は砂嘴(さし・堤防のように延びた砂礫)に守られているため、外海が荒れているときにも穏やかで古代より風待ちや潮待ちの港として利用されていたという。

 大型丸木舟であること、外海がすぐそばにあること、この二つの点からこの丸木舟は縄文人たちが外洋航海に使っていたものであることは間違いないと多くの考古学者が太鼓判を押した。

 これまでに発見された縄文時代の丸木舟は湖や河川で使われるような船底の浅いタイプのものが殆どだったからである。縄文人の海洋交易を決定づける貴重な資料となったのである。

 丸木舟のつくりを見てみると、胴は直径2mのスギ材を割り、中をくり抜いている。その際に焼いた石を入れては焼き焦がし、削りやすくする工夫をしていた。その証拠に船底には数ヶ所、焼けた石の跡が丸く残っている。さらに船体の表面も焦がした跡で念入りに整えている。防水効果を高めるためではないかと思われる。

 すべてにおいて外洋に出ることを目的としたこの丸木舟に、縄文人はいったい何を積み、そしてどこを目指したのであろうか。丸木舟発見現場から500mほど離れた当時のムラの跡から重要な手がかりを得られた。

 「石に魅せられた縄文人」は次に!

渡辺 利明 NHK教育番組ディレクター

  長江流域の人々が日本に渡来していた   

 メソポタミア文明やエジプト文明を誕生させた気候変動期は、日本の縄文時代の中期にあたり、縄文文化にも画期的な新しい進展があったに違いないということ。その指摘は、青森の三内丸山遺跡の発見によって実証された。

 長江文明と同様、三内丸山遺跡も巨大な木造の遺構を持っているが、金属器や文字が発見されていない。

 メソポタミア文明をはじめとする四大古代文明は、乾燥と湿潤のはざ間にある地域から興った文明である。メソポタミア文明を生んだチグリス川、ユーフラテス川の下流域にはナツメヤシやポプラなどの森があるが、河畔を離れると乾燥した草原地帯が広がっていた。エジプト文明を生んだナイル川でも森は河畔の一部に存在するだけで、一歩離れればそこは砂漠であった。

 それに対して、長江文明や縄文文明は、湿った森の中で誕生している。森の中からは文明は誕生しないという定説は覆された。

 中国の長江文明と日本の縄文文明の間に交流があったのか。長江流域の人々が日本に渡来したことはあったに違いない。縄文時代前期・中期に代表される高度な文化は、長江文明から大きな影響を受けた可能性が高い。例えば、三内丸山遺跡や縄文時代前期の鳥浜貝塚から発見された鹿角斧は、長江流域の河姆渡遺跡から見つかったものと驚くほど似ている。そのルーツが淅江省の河姆渡遺跡にまで繋がっているのではないかと思えるほどそっくりなのである。

 更に、三内丸山遺跡や鳥浜貝塚からは漆やヒョウタン、豆類などが発見されている。河姆渡遺跡でも漆を使用し、ヒョウタンや豆類の栽培が行なわれていた。これらのことを考え合わせると、縄文時代の日本は長江文明から何らかの影響を既に受けていたと考える方が自然だといえよう。

   何故、縄文時代に稲作が広まらなかったか

 縄文時代の日本列島に、既に長江文明の影響が及んでいた。長江文明は稲作を基盤とした文明である。もし、長江文明が日本に入ってきたのであれば、縄文時代に稲作が広まってもいいはずだ。しかし、実際には、日本で稲作が広く普及したのは弥生時代に入ってからである。

 では何故縄文時代に稲作が広まらず、狩猟・漁撈・採集生活を続けていたのだろうか。それには主に三つの理由が考えられる。

 第一に、長江流域からやってきた人の数が少なかったということが挙げられる。そのために、稲作が広く普及することがなかった。

 第二、稲作農耕を営まなくても、縄文文明は豊かな暮らしをしていたからだと思われる。三内丸山遺跡の地層から採取した花粉を分析したところ、クリの花粉が異常なまでに高い出現率を示した。通常、クリ花粉がこれほど高い出現率を示すことはあり得ないので、これは明らかに縄文人たちが意識的にクリを栽培・管理していたことを表している。三内丸山遺跡の周辺にはクリ畑が広がり、縄文人たちはそれを主食としていたと考えた。更に、三内丸山遺跡の縄文人たちは、クリと共に豊富な海産資源を手に入れていた。このクリと海産資源が、三内丸山遺跡の豊かな暮らしを支えていたのである。

 こうした狩猟・漁撈・採集生活で豊かな暮らしを行なってきた縄文人にとって、手間のかかる稲作農耕を行なう必要性はなかった。イネを栽培するには灌漑をして水田を開き、苗を植え、水を入れ、刈り取りをするという複雑な作業を行なわなければならない。それよりも、クリや海産資源を採取する方が、余程効率的であったのであろう。そのため、縄文人たちは稲作の定着を自ら拒否したのではないか。

 第三に、縄文文化が森を大切にし、循環・再生を基本とする穏やかな社会であったことである。三内丸山遺跡からは集団労働リーダーが存在した痕跡も認められるが、墓の副葬品に顕著な違いがないことから貧富の差がなかったと思われる。全ての人々が豊かさを享受することが出来たのであろう。ところが、初期農耕社会で生産量は低く収穫も不安定で全ての人々が豊かさを受け取ることは出来ない社会を縄文人は拒否したのではないかと思われる。

 また、長江文明の城頭山遺跡からは、稲作の豊穣の儀礼のための生贄と思われる人骨が発見されているが、三内丸山遺跡からは生贄の人骨は見つかっていない。皆が平等に豊かさを享受し、穏やかな暮らしをしていた縄文人たちは、初期農耕社会が持つこのような不平等社会や残虐性を避けたかったのではないだろうか。

河姆渡遺跡と縄文文明・環日本海文化

(「古代日本のルーツ」安田喜憲)

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