貝塚の時代ー3 縄文時代の漁労文化 危機的な状況の乱獲から持続的利用へ! 東京湾東岸の大型貝塚群

 縄文海進がピークを過ぎた縄文前期末から中期中頃(約5000〜4500年前)、海水準は1〜2mほど低下し(縄文中期の小海退)、奥東京湾は急速に

縮小していった。その後縄文中期後半から後期後半(約4500〜3500年前)にかけて海面は再び安定期に入り、大河川の河口域では流れ出した土砂が三角州を発達させ、沿岸各所には波や潮流が運んだ砂が堆積して砂州が形成された。こうして湾岸には広々とした干潟の景観が拡大していった。

 このような環境の変化を受けて、縄文中期には東岸域(現在の千葉県側)の貝塚に大きな変化が現れる。すなわち、前期には見られなかった大型貝塚の出現である。中期の代表的な大型貝塚である千葉市有吉北貝塚や加曾利北貝塚では分厚い貝層が集落を取り巻くように堆積しており、前期の貝塚とは桁違いの威容を示している。こうした大型貝塚の出現は、貝類が生活に不可欠の食料源となり、長期間にわたって継続的な漁獲がなされるようになったことを示している。

  こうした漁獲量の飛躍的な増加によって、干潟の貝類資源が深刻なダメージを受けていたことが近年の研究で明らかになってきた。

  有吉北貝塚や加曾利北貝塚から出土したハマグリの大きさ(殻高)を見ると、20〜35oほどのミニサイズのハマグリが大部分を占めている。ハマグリを成熟し繁殖能力を持つようになる大きさは30mm前後であり、現代の漁業では資源保護のためこれより小さい貝を捕ることを禁じているのが普通だが、中期の貝塚から出土するハマグリの多くはそうした未成熟の貝によって占められていたのである。

  これはまさに乱獲と呼ぶべき事態であり、当時の貝類資源が人間の過剰捕獲にさらさせて、危機的な状況を迎えていた事態を生々しく伝えている。

  現代の狩猟採集社会には、資源の保全を促す観念や習慣の発達が広く認められるが、東京湾東岸の中期縄文人たちはそうした意識に乏しかったらしい。しかしながら、こうした「環境に優しくない縄文人たち」は次の縄文後期に入ると大きく方向転換していくことになる。

  縄文後期後半(約4000〜3500年前)には、貝塚はさらに増加して湾岸一帯にくまなく分布するようになる。

  貝層の規模も拡大傾向を示し、大型貝塚が一般化する。こうした変化は貝類の漁獲量が中期よりもさらに増加したことを表している。ところが後期貝塚のハマグリは、こうした漁獲量の増加に反するように大型化していくのである。

  加曾利南・多部田の各貝塚は中期貝塚に後続する後期前半の貝塚だが、ハマグリは殻高30〜40mmの貝を主体としており、中期貝塚に比べ明らかに大きい。これは、中期における著しい漁獲圧力が後期に入ると急速に緩和されていったことを意味している。

 漁獲量の増加と捕獲圧の低下という一見相反する現象の背景には、一面では干潟に更なる拡大と貝塚の資源量の増加という環境面での変化があったものと思われる。

 後期貝塚ではいずれも成熟の目安である30mmのラインを境として、これより小さい貝の個数が急減している。これは人々が未成熟の貝を意図的に漁獲対象から外していたことを意味している。

 当時の人々にヨッテハマグリの繁殖生態についてどれだけ正確な知識をもっていたかはわからないが、結果的にこの方法によってハマグリの資源状況は大幅に改善されたに違いない。恐らく、長年の試行錯誤のなかで、こうした幼貝を獲らずに残すことが、資源の維持と漁獲の増産につながることを経験的に学んでいったのであろう。

  縄文後期に大型貝塚が多数形成された背景には、こうした資源を保全し持続的な生産を可能とする仕組みの発達があったと考えられる。

  縄文後期の東京湾では、貝類採集だけではなくクロダイ・スズキやアジ・イワシなどを対象とした内湾漁業も活発化する。縄文後期は、この地域において人々が海洋資源への依存度を高めた時代でると同時に、人間と資源との間にバランスのとれた関係が成立した時代でもあった。

(樋泉 岳二・早稲田大学人間科学部非常勤講師)

加曽利貝塚 かそりかいづか 千葉市桜木町にある縄文時代の貝塚。都川に面した標高約30mの台地上にあり、環状で160m × 145mの北貝塚と、馬蹄形で185m × 155mの南貝塚が眼鏡状につながる特異な形態である。

   1924(大正13)に東京帝国大学の発掘調査がおこなわれ、64(昭和39)以降は何度か破壊の危機もあったが、現在は保存され国の史跡となっている。遺跡の面積は約16m2ある。約140軒の竪穴(たてあな)住居跡は貝塚の外側にも広がり、前期から晩期までたてられつづけている。このうち軒数がもっとも多いのは中期の90軒で、貝塚形成の中心も中期であった。

  貝塚からは大量の土器が出土し、これらの研究から、関東地方の縄文中期を代表する加曽利E式、後期を代表する加曽利B式とよばれる標式土器が設定された。石器類や特殊な遺物も多く出土し、石鏃、打製および磨製石器、打製および磨製石斧、釣針などの生業に関係する道具類をはじめ、石皿、凹石、貝刃などの調理具、石棒、石剣、土偶、独鈷(どっこ)石などの祭祀(さいし)具、耳飾りや貝輪などの装身具と、多種類の遺物がみつかっている。

  貝層の厚さは23mもあり、総量は東京都の中里貝塚とならび日本一の規模と思われる。貝はハマグリやアサリなど東京湾内産が中心で、ここまで約8kmの距離を丸木舟などで採集にいったと考えられている。大量の貝殻があることから、貝をほして加工し、これを黒曜石などとの交易品目としたとする説も生んだ。クロダイやクジラ、イノシシやシカなどの動物遺存体も出土しており、当時の食料資源を考えるうえで重要である。

  また、貝層内には67体の人骨と、6頭の犬が埋葬されており、貝塚が埋葬場であったことも確認させた遺跡である。

加曽利貝塚の貝層

加曽利貝塚は、千葉市桜木町の台地上にある日本最大級の貝塚である。これは縄文時代中期の北貝塚の貝層断面。ハマグリやアサリが23mの厚さに堆積(たいせき)している。Encarta Encyclopedia千葉市立加曽利貝塚博物館

加曽利貝塚出土の縄文土器

加曽利貝塚は、千葉市にある縄文時代の日本最大級の貝塚である。これは関東の縄文時代後期を代表する加曽利B式土器のセット。南貝塚のB地点から数多く出土した。Encarta Encyclopedia千葉市立加曽利貝塚博物館

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