現代の人類は海と深くかかわり、多くの人々が海からの恵みを受けて暮らしている。とりわけ小さな島国に暮らす私たち日本人のとって、海は文化と風土を語る際には欠かすことのできない要素である。
しかしながら、人類が海の幸を本格的に利用し始めたのは、たかだか一万年前のことであり、500万年に及ぶ人類史全体からみれば、実にごく最近の出来事にすぎない。
一万年前以前の更新世(旧石器時代)に人類が魚や貝などの海産物を食用とした痕跡は、極めて少ない。
約四万年前以降の後期旧石器時代には海上交通の存在を示す証拠が現れ、又、ヨーロッパ内陸部やナイル川下流域では河川での漁業が盛んとなるが、海産物が利用された痕跡は殆ど発見されていない。
ところが、約一万年前以降の完新世に入ると、世界各地の沿岸域で海産物利用の発達を示す証拠が一斉に現れる。すなわち貝塚の出現である。
完新世 かんしんせい 新生代第四紀を更新世と完新世にわけたときの後のほうの時代。約1万年前以降、現在までをさす。沖積世、現世ともいう。7000〜2000年前ごろは世界的に現在よりあたたかい時期があり、融氷がいちじるしいため、海水準が高くなり、平野部に深く海が侵入した時代があった(日本では縄文海進という)。人類の歴史上では中石器時代〜新石器時代(→ 石器時代)から現代まで、考古学上の編年では始まりがほぼ縄文時代の草創期に相当する。
日本の第四紀地層 日本でも日本アルプスや北海道日高山脈には氷河が発達していた証拠として、浸食谷がのこっている。第四紀には、日本列島ではげしい地殻変動がおこった。現在の山脈、盆地、火山、海底地形などは、ほとんどが第四紀にあった変動の影響を大きくうけている。この原因についてはよくわかっていないが、日本列島に東西方向の強い圧縮力がはたらくようになったためであるといわれている。
大陸と日本列島が陸続き 現在から、約2万年前の最終氷期の最寒期には、海面は全世界で120m以上も低下しており、日本列島も、津軽海峡の一部、宗谷海峡、瀬戸内海の大部分などが陸続きで、アジア大陸ともつながり、現在の日本海は、ほとんど塩湖だったと推定されている。このとき、多くの動物が渡来し、日本の生物相に大きな影響をあたえた。約1万年前からの完新世になって、平均気温が高くなり、海面が上昇し、現在の海陸分布ができあがった。→ ナウマン
こうした現象の背景には地球規模での気候の大変動が絡んでいる。約二万年前の地球は最終氷期の真っ只中にあり、人々は小集団で移動生活を営みながらマンモスなどの大型草食獣を捕獲して生活していた。彼らの暮らしは狩猟と肉食に強く依存していたため、他の食料資源はせいぜい副食として利用されたに過ぎなかったらしい。
ところがその後、地球の気候は温暖化へと急転し、大型草食獣は植生の変化や人類の狩猟に耐えきれずに次々と姿を消していった。この激変によって主要な生活の糧を失った人類は、窮地を凌ぐためそれまであまり好まなかった様々な食料資源を利用せざるを得なくなった。
その一つはクリ・ドングリやイモ類などの植物食であり、もう一つが魚介類をはじめとする海産物である。人類が海産資源を利用し始めたのは、未知の世界への冒険心といった前向きの理由からというよりも、むしろ切羽詰った状況を切り抜けるための、やむを得ぬ選択であったと考えたほうがよさそうである。
完新世において人類の海洋適応が一斉に開花した背景には、氷期の終焉に伴う海洋環境の大変動があったことも見逃せない。
最終氷期の最盛期には南北極地周辺の氷床に膨大な量の水分が蓄積されたため、海水量は大幅に減少して海面は現在より100m以上も低下していた。この時代の海岸線は陸棚の外縁近くまで退き、出入りの少ない滑らかな線を描いていた。海岸の大部分は外海の荒波に直接洗われていたため、海は人類を容易には寄せ付けない厳しい存在であった。
しかし気候が温暖化に転じると氷床は一気に解け始め、海面は急速に上昇していった。「後氷期海進」の始まりである。海は沿岸の低地を水没させながら陸域に向けて進入し、やがて各地に浅い入江や内海が形成された。
日本列島においても、陸奥湾、東京湾、伊勢・三河湾、瀬戸内海、有明海など、代表的な内湾の殆どがこの時期に出現している。これらの内湾は、外海に比べ穏やかで人間が進出しやすい海であると同時に、多くの生物を育む豊饒の海でもあった。
新たな食料資源の開拓を迫れれていた人類にとって、こうした安全で豊かな海の出現はまさに渡りに船であっただろう。
かくして約一万年前以降になると、完新世の温暖な生態系に適応した新しいタイプの狩猟採集文化が世界各地で登場してくる。人々は狩猟・植物採集・漁労といった様々な活動を居住地の自然環境に応じて組み合わせ、多種多様な食料をタコ足的に利用する食生活のパターンを確立していった。
とりわけ海洋資源の積極的な利用の開始は、農耕の開始と並んで完新世を特徴づける人類史上の画期的イベントであり、以後、人類は海洋適応を劇的に発達させていくことになる。
縄文文化はこうした完新世型狩猟採集文化の典型例であるとともに、世界で最も古くから海洋資源を利用し始め、また極めて多様で活発な海洋適応を達成したグループの一つなのである。
縄文人と海との関わりの深さは、おびただしい数の貝塚に端的に現れている。縄文時代は貝塚の時代でもあった。縄文貝塚は列島各地の沿岸部や河川の下流域に広く分布しており、これまでに数千ヶ所が発見されている。中でも東京湾沿岸部を含む関東地方は、その過半数を擁する世界でも有数の貝塚密集地域である。
東京湾沿岸の縄文貝塚に関する考古学的研究は、E・S・モースによる大森貝塚の発掘以来100年以上の歴史をもつ。
最古の漁労民・夏島貝塚
縄文時代初頭に属する最古級の貝塚出土品の一括。本貝塚は年代測定の結果(紀元前7290年±500年)、群馬県岩宿遺跡とともに縄文時代の古さを決定する上で重要な役割を果たした。本貝塚で発見された、土器・石器・骨角製品類は、縄文時代開始期の生活相を知る上で最も基本となる学術資料である。
約二万年前の最終氷期の海面は現在より100m以上も低下していた。東京湾の水深は最大でも100mほどなので、この時代にはその全域が陸地となっており、中央には、多摩川、荒川、江戸川(旧利根川)などが合流してできた大河川によって広大な谷が形成されていた。
やがて後氷期海進が始まると、この谷に海水が進入し、次第に東京湾の原形が形づくられていった。後氷期海進は約一万年前の一時的な海面低下期を境として前後二期に分けられており、日本では前半期を「七号地海進」、後半期を「縄文海進」と呼んでいる。日本列島において貝塚の形成が始まるのは縄文海進の開始直後、縄文時代早期前葉のことだが、この時期に属する貝塚は極少なく、関東地方で数例が確認されているにすぎない。
東京湾の湾口近くに位置する神奈川県横須賀市の夏島貝塚はそうした日本最古の貝塚の一つであり、又縄文文化の海洋適応の先駆的性格を示す遺跡として著名である。
夏島貝塚の貝層はカキ殻などから成り、その厚さは最大1m以上に達した。この遺跡を残した人々が貝を盛んに食していたこと、貝の採集が長期間にわたって継続的に続けられたこと、さらには貝塚を残した人々が既に定住的な生活を送っていたことを示している。
貝層からはクロダイ・スズキ・ボラ・コチなど東京湾を代表する内湾性魚類に加え、典型的な外洋性の回遊魚であるマグロ・カツオなどの魚骨が多数出土しており、さらに日本最古とは思えない見事な出来栄えの釣り針も発見された。こうした多彩な魚骨や精巧な漁具は、当時の人々が既に可也高度な海洋適応の技術を備え、内湾から外洋に至る広い海域で、活発な漁労活動を繰り広げていたことを物語っている。
こうしてみると、夏島貝塚の漁業が、その古さに反して非常に洗練された様相を呈していることに疑問を感じ、又高度な漁業技術が存在していたにも関わらず、同時代の貝塚が他に殆ど発見されていないのも不思議である。
この問題については、当時の海面が現在より可也低かったこと(一万年前でマイナス40m付近)を考えなければならない。つまり、夏島貝塚と同時代またはより古い時期の貝塚が存在していたとしても、それらは既に海底や沖積層下に埋もれている可能性が強いのである。
実際に愛知県知多半島の先端部に位置する先狩貝塚(かずかり)では、現海面下10mのレベルから縄文早期中頃(8300年前)の埋没貝塚が発見されている。
中部山岳地帯に位置する長野県湯倉洞穴では、夏島貝塚より古い縄文時代草創期の地層で少数ながらエイの骨や海産貝類が出土している。
これらの証拠からみて、列島における海洋漁業の起源は縄文時代の最初期にまで遡る可能性が高い。しかし、その起源地はどこなのか、またそのプロセスはどのようなものであったかについては依然謎に包まれている。