自然との調和の文化

   自然との調和の文化――縄文時代

 日本の縄文文化は、明確な農耕活動を伴わず、ましてや都市化の片鱗さえ見られない。同じ頃、四大河川の流域に栄えた古代文明とは比較にならない。しかし、これらの四大文明、自然の略奪と破壊を根底に持つ農耕活動と大型家畜を生産の基盤としており、ついには滅亡の一途を辿った。そうして、自然をも復帰できない死の砂漠に変えてしまった。

 これに対し、日本の縄文文化は、狩猟採集経済に基盤を置き、自然との調和の中に、自然を破壊しつくすことなく、7000年以上にわたる文化を維持し、世界にも類のない華麗な土器を作りだし、石器・骨角器・木器など、極限にまで達した文化を作り上げた。それは自然との調和の中に発展した文化という名に値するだけ、十分に成熟した文化である。

 又、縄文文化の成立・発展・衰退の図式は、大変明瞭であり、しかもその間に」幾度かの自然環境の変化があった。従って、文化の発展・衰退を、自然環境の変遷との関わりにおいて捉えることのできる絶好の研究対象といえる。

 縄文時代の自然環境と人類の関わりを見てみる。

 数十万年にわたって石器のみの文化の中にあった人々が、突然、粘土をこね、焼成して土器を作り始める。それは人類の文化史の中で、極めて画期的な出来事であった。

 最古の土器は寒冷な氷河時代から温暖な後氷河へ移行する過度期に出現した。その移行期は晩氷期と呼ばれ、今から約一万三千年前に始まった。其の時代は、一時的な気候の温暖化で特徴付けられ、これまで優先していた亜寒帯の針葉樹林に変わって、カバノキ属・ハシバミ属・ブナ属・コナラ亜属・ニレ属などの落葉広葉樹林が拡大した。

 それは又、草原が縮小し、森が拡大することを意味していた。最古の土器出現の時代は、一万二千四百年〜一万二千七百年前であった。このことは、尾瀬沼で、明らかになった晩氷期の気候の温暖化の開始期とこれに伴う落葉広葉樹林の拡大期が、土器出現の時代とほぼ一致することを示している。

 とりわけ西日本の九州の低地では、この気候の温暖化に伴う落葉広葉樹林の拡大は、海抜1400m中部山岳の尾瀬沼より遥かに大きかった。最古の土器が誕生した長崎県周辺には、コナラ・クリなどの暖温帯落葉広葉樹林が生育していた。落葉広葉樹林の拡大は、人々にドングリやクリ・トチなどの木の実を食料とすることの重要性を教えたことであろう。毎年秋になると落葉して、木の実を一杯に付ける落葉広葉樹の森の中で生活を始めた時、人々は土器をつくることを考えだしたのではないか。更にこの時代に入ると、旧石器時代の人々の重要な食料資源となっていた大型哺乳動物が、人口の増加と乱獲により次第に減少していた。

 ヨーロッパでは、この減少に拍車をかけたのが、この晩氷期の気候の温暖化であったと考えられる。とりわけ氷河時代の大哺乳動物の多くは、アレレードの温暖期に絶滅したと考えられている。温暖化に伴う落葉広葉樹林の拡大と草原の減少はこうした動物たちの生活の場を奪ってしまった。

 日本列島ではこの時代に入ると、積雪量が増大した。この積雪量の増加によって、大型の哺乳動物は冬の間、十分な食料を確保できなくなった。日本列島ではこの冬期の積雪量の増大が、大型哺乳動物の絶滅を早めた一つの要因と考えられる。こうした晩氷期の気候の温暖化に伴う落葉広葉樹林の拡大と大型哺乳動物の減少の中で、必然的に植物性食料の重要性が増した。人々は木の実を集めそれを加工し貯蔵するために容器として土器を作り始めたと見ることができないだろうか。

 これまで、土器の誕生は西アジアで見られるように、農耕活動と密接に結びついて発生したと考えられてきた。しかし、日本列島においては、最古の土器は、落葉広葉樹林の拡大と密接なかかわりがあるように思われる。植物性食料への依存度の増大に伴って、土器が出現したとみられるのである。

 この意味において、日本の土器文化は、コナラ・クリ・ブナ・トチノキ・シデ・ニレなどの落葉広葉樹林の中に、誕生の起源を求めることができる。マンモスやナイマン象・野牛などの大型哺乳動物の狩猟文化が、亜寒帯針葉樹林とその周辺の草原に密接に結びつき、北方からの伝統を強く残す文化であったのに対し、この土器文化は、落葉広葉樹林と結びつき、南方からの伝統を強く持つ文化であったといえよう。

   雪と人間のたたかい

 冬の雪は、日本海側を白い沈黙の世界に変える。晩氷期以降、日本海側では積雪量が増加し、後氷期には本格化した。このことは、植物のみでなく、大型哺乳動物にも大きな影響を与えた。後期旧石器時代から中石器時代の遺跡の分布を見ると、現在の豪雪地帯にあたる秋田県・山形県・新潟県の内陸部に、多くの遺跡が立地する。又北陸地方や渡島半島の日本海側にも多い。ところが、縄文時代早期に入ると、こうした日本海側の多雪地帯からは、遺跡数が減少する。その傾向は縄文時代前期までつづく。このことは、縄文時代早期以降、多雪化のため、日本海側は住み難くなったことを示しているのではないか。この多雪地帯に人類の居住地が拡大するのは、縄文時代中期に入ってからである。中期には、多雪環境の下で生活し得る適応形態が完成したと見ることができる。このように、後期旧石器時代以降の東日本と西日本という、東・西に対立する地方色に加えて、縄文時代早期以降には、日本海側と太平洋側という地方色が出現し、これが現在まで、表日本・裏日本の差という形で受け継がれていると言える。

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 縄文文化の起源とは、上記には、土器出現期における文化要素の変遷と自然環境の変遷を対比して示している。

 文化要素の変遷は、爪形文系土器と撚糸文系土器の中間に位置する多縄文系土器の時代に、一つの転換期がある。即ち、竪穴住居がこの時代以来出現し、これまで洞穴や岩陰に住んでいた人々が、台地や丘陵麓の開けた所に住み始めたことを物語る。有舌尖頭器や細石刃など、旧石器時代の伝統を強く残す石器が消滅し、石鏃が優位を占めるようになる。又、新しい生産用具として釣針が出現し、漁労活動の開始を示している。植物採集の用具には大きな変化はない。

土器は形態が多様化し、個体数が増加し、縄文土器を特色づける縄目の文様が明白となる。更に、土版や顔料などの装飾品も出現してくる。

 このことは、縄文文化が、東日本の太平洋岸を中心として、漁撈的性格の強い文化として出発したことを示している。 縄文時代の開始を、その背景となる生産活動を重視する視点に立つならば、漁撈活動が明白な姿をとって現れる撚糸文系土器の時代以降ということになる。しかし、多縄文系土器の時代まで遡る可能性が大きい。

 隆線文系土器の出現する時代は、12.700年前、撚糸文系土器は9.450年前であった。この中期に位置する多縄文系土器の出現する時代は一万五百年前〜一万年前と考えたれている。この時代は丁度氷河期が終わり、新たな後氷期が始まる更新世と完新世の境界年代にあたっている。隆線文系土器や爪形文系土器は、氷河時代の面影を色濃く残した晩氷期の環境の下で誕生した。これに対し、撚糸文系土器は、温暖な後氷期の環境の下で生まれた。人類を取り囲む自然環境の背景にも、大きな違いが見られる。

 したがって、隆線文系・爪形文系の土器文化の段階は、その後の撚糸文系の土器文化とは、一線を画し、異なった文化として取り扱うのが適当である。縄文文化の誕生は、一万二百年前に引き起こされた氷河時代の終末を告げる気候の温暖化と共に始まり、それは漁撈活動を伴う海洋的性格の強い文化として出発した。

 青い海が見える。その海原の向こうには、かつて遠い祖先たちが行ったことのある島があるという。彼らの祖先たちは、陸の道を歩いてその島に到達したという。そこには木の実がたわわに実り、シカやイノシシが群れている。よし、その島に行ってみょう。若者は丸木舟を漕ぎ出した。気候の温暖化によって海面が上昇し、かつての陸地は海底に没してしまった。しかし、人々の記憶や言い伝えには、かつて陸続きであった島のことが、何時までも残っていたのかもしれない。それを頼りに、人類は海原へ乗り出した。海を媒介にした大きな歴史の変動がそこにあった。完新世の開始は、人類が海と密接な関わりをもった海洋文化を発展させる時代の始まりである。四方を海に囲まれた日本列島は、この海面の上昇の影響を最も強く受けた文化を発展させた。

 それが縄文文化ではなかったか。(「環境考古学事始」安田先生 抜粋)

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