日本文化の根底をなす 縄文の世界観


「日本冒険」下、梅原 猛著

  日本の宗教を語るとき、仏教と共に神道を語らねばならないが、「神道」という言葉は後に仏教に対して作られた言葉である。

 日本の思想文化を、仏教を中心において考察しょうとしていた。それは、私の学問の立場が書物や文献を重視する立場であり、従って莫大な経典を持っている仏教やキリスト教は優れた世界宗教であるが、殆ど経典らしいものをもたない神道は、とるにたりない原始宗教であると考えていた。

 私が仏教の研究を超えて日本古代の歴史や文学の研究に移ったとき、やはりとうてい仏教とは思えない思想に漂着せざるを得なかった。私の法隆寺論や人磨論の背景に「怨霊」といった考えがある。法隆寺は聖徳太子の鎮魂のために建てられ、「万葉集」も人磨の鎮魂と関係しているという説である。

 私が証明したように、法隆寺が太子鎮魂のために建てられた寺であるとしたら、日本の仏教は、聖徳太子の死後からずっと怨霊の鎮魂ということを大きな仕事としてきたことになるが、それは本来仏教の行事ではなかった。それはむしろ、神道のやっていた仕事を仏教が代わって行なったにすぎない。そういう重要な仕事を仏教が代わってすることによって、仏教は日本に定着することが出来たのである。又、儀式とか、年忌や盆や彼岸の行事などの死者供養(仏教移入以前の死者供養は、実は仏教中心の祭儀の裏で、今も民間信仰として脈々と行き続ける。例えば、「三十三回忌・・・三十三年の法事が済むと人は“神”になるという。それで位牌は川に流され、死者即ち祖霊の住まいは仏壇から神棚に移る・・・という事例がある。「ホトケ」という語も「仏」ではなく卆搭婆や位牌を指す地方がある。「ホトケ」の語源は、神に供える供え物を入れる器にあるという。京では、先祖へ供える供え物を入れる真鍮器を「お仏器さん」といって異常に大切にする。代々同じ器が用いられる。その家の女主のみが扱う。

器は祭具であった。器は神の宿る場所なのである。またホーカイさんという精霊を大切に供養する。ホーカイは「法界」の字をあてるが、ホカヒ(乞食)からきているのであろう。“もの”乞う“ひと”はかって“神”であった。精霊を大切に供養すると言うのは、日本の古いふるい信仰である。)の仕事も、仏教本来の行事ではない。それも、土着の宗教が仏教渡来以前、何百年・何千年もやっていた仕事を、新たに輸入された仏教が、土着宗教に代わり、土着宗教以上の権威でもって行なったに過ぎないのである。

 こう考えてきて、私は、神道と呼ばれる土着宗教を、再考せざるをえなくなったのである。しかし、7、8世紀の日本社会の研究から、普通日本で神道と考えられる祓い(はらい)、禊(みそぎ)の神道は、記紀の語るように必ずしも悠久の昔から行なわれたものではなく、道教の影響によってこの律令時代につくられた、少なくとも多分に思想的改造されたものであり、それは律冷制のイデオロギー的表現に過ぎないものと見ざるを得なくなったのである。つまり、一方では、神道と呼ばれる土着宗教を重視せざるをえない立場にたちながら、記紀に従えばとうの昔から日本の固有宗教であったように思われる祓い、禊の神道は、7,8世紀の律令体制建設の過程でつくられた可能性が多いことを認めざるをえなかった。

 私は、アイヌにごく最近まで残っていて、今は殆ど断絶した宗教儀式や、沖縄にまだ現在残っている宗教儀式の中に、この最も古い日本の宗教が残っているのではないかと思う。それは日本文化の基層に位する縄文人の宗教、縄文人の世界観を解明する重要な手がかりを与える。人間の理性の万能を信じ、無限の自然支配によって人間に幸福が訪れると言う進歩史観に、早くから疑問を持っていた。

 アイヌの宗教を知るに及んで、おぼろげながら日本文化の根底に存在する宗教や世界観が見え始めた。恐らく、日本人が縄文時代以来もち続けてきた宗教的世界観が秘められているのであろう。そして縄文文化が、世界史的に見て、高度に発展した狩猟採集文明であるとすれば、それは人類が実に長い間続けてきた狩猟採集文化のエキスというべき宗教であると考えなければならない。

 私はアイヌや沖縄に残っている宗教的世界観に含まれる二つの思想に感動するのである。一つは人間中心の世界観ではないことである。

 もう一度人類文明を根本的に反省しなければならないが、それには、もう一度、人類が長い間続けていた狩猟採集時代の世界観を想起する必要がある。

 この人間を動物と一体として見る世界感と共に、私はアイヌや沖縄の宗教において、とくに感激するのは、論廻の思想というより、永劫の回帰といってもよい考え方が存在していることである。それは恐らく天体の運動についての人類の疑問から生じたに違いない。太陽は朝方に東から昇って夕方に西に沈む。そして次の日にはまた東から昇る。古代人は太陽の生と死と考えたのは極自然のことであろう。太陽は、永遠に生と死を繰り返す。月もまた同じこと。一月一月生死を繰り返し、女はそれによって月ごとに血を流し、それが原始人にとって大きな不思議であった出産につながる。また年も太陽の生死であろう。夏は太陽の力が強くなり、冬は弱くなる。そして冬とともに木は葉を落とし、昆虫や鳥は姿をけす。

 このような永遠の生死の繰り返しが世界の姿であるとすれば、死んだ魂は人が死ぬや、この屍から離れ、天に帰り、そして又この世にあらわれるのではないであろうか。アイヌに於いても沖縄に於いても、強い天への信仰がある。天は神のいますところ。われわれの魂はそこからきて、そこへ帰るのである。

 こういう宗教において、葬儀が最も重要な宗教的儀式となることは明らかである。何故なら人間が死ねば、まずこの霊を無事に出来るだけ早く天に送らねばならない。無事に早く天へ送ったら、その魂はまた無事に出来るだけ早く地上に帰ってくることが出来る。沖縄においてつい最近まであった風葬はそうい

う思想を秘めている。人間の魂は死ねば鳥のように早くあの世へ行かねばならぬ。特に聖なる女の霊は鳥となって天に行き、また帰ってきてこの世の守り神となるのである。

 こういう思想の中には、地上の国が素晴らしい国であると考えがある。早く地上に帰ってきたい、それには早くから行かねばならない。こういう考え方がアイヌや沖縄の宗教の中に表れている世界観であると思われるが、この考え方が素晴らしいと思う。そこには勿論、霊の世界に対する強い畏敬の心があり、死後行くべきもう一つの世界への強い確信がある。

 しかしこのもう一つの世界には天国と地獄がないのである。人間は、殆ど全ての人間は、遅かれ早かれ天へ行き、またこの国へ帰ってくるのである。ここでの不幸は、罪の制裁が待っている地獄へ行くことではなく、霊がこの世に止められて天へ行けず、従って生まれ変わることが出来ないことなのである。ここに、この世と違った、この世より高い世界である天は存在しているが、地獄・極楽は存在しないのである。

 私は恐らくこういう世界観が最も古い世界観であり、地獄・極楽という考え方は恐らく農耕牧畜社会が生まれ、厳しい身分社会が生じてから後に生まれたのではないかと思う。この地獄・極楽という考え方には、ニーチェといったように、弱者の復讐心が隠されているように思われる。

 人類はこういう本来全ての人間が行くはずであった天の世界を特定な人間の行くところとし、それに対して他の人間の行くところである地獄を想定することにより、死の世界を人間の我意で汚したように思われる。そして其れと共に、永久に続く魂の回帰運動の歴史を、最後の審判がある一回きりの終末を持つ動きに変えてしまった。そこで、歴史は最後の審判に向う直線として把握される。

こういう歴史観がキリスト教の歴史観であり、それが又近代人の基本的な世界観を形成している進歩思想の世界観であることは、すでに多くの思想家によって指摘されている。

 私はアイヌや沖縄に残る世界観に、かつて狩猟採集時代の人間が共通にもち、またこれからの人類にどうしても必要な世界観を見るのである。これは今後の人類に大きな意味を持つ世界観であり、またそういう世界観は、日本人の世界観の根底に存在すると思う。日本の仏教が、釈迦仏教が持っていたような選ばれた人間の孤独な悟りという性格をすて、成仏の範囲を僧ばかりか俗人一般に広げ、更に「山川草木悉成仏」と言うように、動植物や山川にまでその範囲を拡大したのも、また日本の仏教が葬式を最も重視し、年忌とか盆や彼岸の行事をその最も重要な行事としたのも、アイヌや沖縄にはっきり見られる、そういう日本の基層的世界観と関係があるように思われる。

「日本冒険」下、梅原 猛著