21世紀の知恵 自然と共に生きるために

「日本冒険」下、梅原 猛著

   自然を破壊する進歩史観

   日本文化の深層を探る研究に大いに期待しているが、そのようなブナ林をどうして守るかという実践的課題と研究とが結びついた運動こそが自然保護運動だと思われる。ブナ林文化が、世界で最も古く高度に発展した狩猟採集文化の名残をとどめているとしても、何故現在ブナ林を守る必要があるか、という理論が要求されていると思います。

 これからの人間は、今現在においていかに生きるべきかを考えることが一番

大事な問題だからです。そのいかに生きるべきかという問いの中にで、ブナ林を守ると言うことは一体どういう意味をもつのか、それについて私の考えをお話したい。

 恐らく、自然保護運動に従事している方たちに対する一番大きな反対理論は、生産力理論だと思います。自然保護というけれども、それでは我々は生きて行け内。自然を壊して宅地を開発し、農地や工場にする、それが生産力を上げることになるし、生産力を上げることによって、我々は生きていける。その生産理論から見れば、自然保護というのは実に困った運動です。

 この生産理論の一つが大きなネックになっているのです。特に今の日本のように生産力はかつてのような勢いで伸びない時代に於いては、自然保護など言っておれないという考え方が忍びよってくるでしょう。

 もう一つやはり自然保護運動を妨げるのに、「進歩」の考え方です。確かにブナ林文化というのは日本の基層文化かも知れない、しかし、それはもう遠い遠い昔の文化ではないか。人類は狩猟採集生活から一歩超えて稲作農耕生活に入り、今や工業生活の時代に入っているではないか。それは人類の進歩に逆行するではないか。

 この生産力理論と進歩信仰というのが、自然保護運動のネックになっているのだと思います。進歩史観、今や根本的に反省を迫られる時代に入っている。「生産力信仰と進歩史観のネックを撥ね退けよう」と私は言いたい。それには人類史上にたいする広く深い考察が必要だと思われるからです。

    甦る狩猟採集文化の精神

 確かにこうした自我中心を捨て生産力を向上させるものの、日本も今もう一つの病は、人間中心の文明の病にかかっています。しかし、この病を治す力を日本は持っていると思います。それは狩猟採集文化という非常に古く発展した文化を日本はもっているのです。日本人はその内に狩猟採集文化の精神を受け継いでいるのです。これがヨーロッパと違うところです。ヨーロッパ大陸において、牧畜農業文化はうんと発展しました。巨大な国家を造り文字文明を造り出す、巨大な文明が盛んになっている頃、日本では狩猟採集文化のルネッサンスとも言うべき頃にあたります。日本に於いては農耕牧畜文化を受け付けない、頑固に受け付けなかったのです。これは日本文化の大問題です。何故日本で牧畜が殆ど行なわれなかったか、なぜ農耕がこんなに遅れたのか、このことは日本及び日本文化を考える上で、私は大問題だと思います。その理由はともかく、この牧畜農耕文化が遅れた、つまり狩猟採集文化が長い間続いたと言うことが、重要なことです。

 農耕文化は急速な広がりを見せ、弥生時代以来、日本文化の主流になって

いたわけですが、それはあくまでも日本文化の一つの表層なのです。しかしその表層には縄文文化がある。この縄文文化・狩猟採集文化の考え方が、日本の農耕文化の考え方に非常に強く影響していると私は思うのです。

 狩猟採集文化がその深層に残っていて、表層の農耕文化を変質せしめた。だから、日本の農耕文化は、人間中心の農耕文化ではないと私は思います。つまり人間が自然を支配するという考え方ではなく、やはり人間は自然とどこかで結ばれている、一体であるという、そういう考え方が日本の農耕文化の基層にあると私は思っている。その意味で、日本文化には、人類の発展の為には必要だったかもしれない、牧畜農耕文化が生み出した人類についての過大幻想、人間の傲慢さをのがれる思想が含まれているのではないかと思います。

 今後の人類が人間中心主義を字が肥大の病とともに捨て去らねばならないとしたら、どういう哲学が必要なのか、また、その哲学をどうして日本の伝統の中から生み出していくか、ということについて考えてみたい。まず今後の人類にとって、二つの原理が必要ではないかと思っています。

 一つは、人間というものは宇宙の生命体の一つの流れに過ぎないと言うこと。我々の命は全ての宇宙の命とつながっている、この連環の中で、その共存の中で人間は生きている、このような自覚が、今後の人類の哲学の根底に無くてはならないと言うことです。人間を全ての生命から孤立させ、全ての生命を支配する特権を人間に与える、こういう理想は、今後の人類の生存にとって大変不利益な有害な結果をもたらしていくのではないか。まず人間は、宇宙における自分の位置を自覚する、つまり人間は、宇宙に生きとし生ける全てのものと同じであるという意識を持たねばならない。

 実は、人間も宇宙における生命体の一つに過ぎないと言うことは、近代科学が明らかにした事実であります。今日、近代科学は生命の発生、生物進化の筋道を大体明らかにした。即ち、地球ができて生物が発生する。植物ができ動物ができる。幾つかの段階を経て、哺乳類が誕生し人類が進化してきた。このような宇宙の大きな生命の流れの全体像を明らかにし、人間はただ動植物とつながっているだけでなく、この宇宙の大きな生命の流れの一環であるということを明らかにしたわけです。そういう科学的な事実を前にしては、人間だけが全てを支配する権利を持っているなどと言う考え方は吹っ飛んでしまうだろう。またこのことは日本の神道や仏教のもっていた世界観が、ギリシャ哲学やキリスト教のもっていた世界観よりずっと、近代科学が明らかにした事実に近い、人間存在の真相に近いということを明らかにしたわけである。

 日本の神道や仏教が根底に持っている世界観とは何か。それは縄文時代の狩猟採集社会の世界観です。この縄文時代の世界観がどこに残っているのか、

それは、アイヌや沖縄にその原型を見ることが出来ると思っています。

 まず、アイヌの世界観を取ってみると、人間に動物に本質的な区別はないのです。動物も植物も天の世界では人間と同じ姿格好をして、人間と同じ生活をしている。動物も植物もたまたま人間の世界に現れたときに、熊は熊になり、木は木になるに過ぎないという。これは大変面白い、興味深い考え方です。本来皆平等なのです。人間同士の平等どころか、人間と熊、人間と木とも平等だ。

とすれば何ゆえ人間の世界にきた時に、熊は熊の格好をし、木は木の格好をするのか。それについてアイヌの人たちは彼等はこの世に仮装して現れてくるのだという。何のために仮装して現れてくるのかというと、それは人間に「土産」を持ってきたのだといいます。これをアイヌ語では「ミアンゲ」と言いますが、その意味は「身をあげる」ということ。つまり熊も木も、人間のところに来るのに「土産」を持ってきたわけです。だから我々は、その熊や木の好意に応えてその身をいただく。

 だからアイヌは一本に木を切るのも、ちゃんと祈りを捧げる。それで、木の霊を天に送り返す。このような祭りは、勿論豊穣の祭ともつながっておるわけです。こういう祭祀を、どうも人類は狩猟採集時代には、あまねく行なっていたのではないか、特に日本では、こういう観念が浸透し、様々な祭祀が実に精密に施行されていたのではないかと思うのです。

 こういう観念が既にあって、やがて農耕文化が入ってきた。農耕文化が入ってくることと、仏教とはどこかで関係するような気がする。ともかく、この仏教の平等思想が日本で受け入れられた。これがインドで受け入れられなかったのは何故かというと、インドではカースト制が強く、平等思想が浸透しなかったからです。日本に於いても弥生時代になると、身分制社会になっていくわけですが、やがてその身分制を、律令国家を造った聖徳太子が逆に仏教によってこわした。これは大変面白い現象だと思いますが、その仏教の根本思想は何かというと、平等思想なのです。

 確かに仏教は平等を説くわけですが、これが日本に来ると、人間ばかりか動物まで平等になる。仏教と言うと「山川草木悉皆成仏」という言葉を思い出しますが、これは日本で出来た思想で、仏教本来の思想ではない。釈迦の教えでは、仏になれるのは人間に限る、しかも人間の中でもかなりのエリートに限るのです。仏というのは一切の欲望を離れて悟りの境地に入るのですから、それが出来るのは人間だけです。しかも人間でも、優れた仏性をもった人間に限るというのが本来の仏教の考え方です。その仏教の考え方が日本にくると、一切衆生、生けるもの皆平等で仏さんなれるとなる。一口に仏教と言っても色々と論争があるわけで、簡単に言い尽くせませんが、この考え方は最終的に生き

ついたのが、浄土真宗でしょう。「南無阿弥陀仏」と唱えれば誰でも極楽浄土へいける。こんな優しい、無茶な理論は本来の仏教には無いのです。でも、この理論が日本に定着したわけです。

 それは何故か。狩猟採集社会の観念が日本にはずっと生き続けていたからです。日本というのは面白い国です。人間も動物も全て天に行ける、仏になれる。仏になるのは簡単なのです。日本では死んだことを「お陀仏した」という。また役に立たないものを「お釈迦になった」という。こんなことをインドの仏教徒が聞くと怒ります。ところが、日本では平気で使っている。それは生きとし生きるものは全て神になる仏になれるという思想です。

 私はやはり今後人類は、こういう考え方を再認識しなければならないと思います。日本は、幸か不幸か農耕牧畜文明の波に乗り遅れた。牧畜文明は殆ど拒否してきた。日本人の体質に合わない。このことがやはり、人間中心ではなく、生きとし生けるもの皆平等という思想を育てた。そういう世界観が今後の人類の持つべく世界観だろうと思うのです。そこで我々はもう一度「ミアンゲ」の哲学を思い起こすべきなのです。そこから人間は、この宇宙の中でどういう位置付けをもつべきかを問う。それが今後の人類の思想の基本的な原理にならなければいけないということが、まず一ついえることです。

 もう一つは死と再生の循環思想です。これを生み出したの母胎はキリスト教の思想である。キリスト教においても死んで神の国、天国に行くと考えます。

キリスト教の特徴は、一回限りの歴史を考えると言うことです。つまりイエス・キリストは天を支配するエホバの神の子としてこの世に生まれ、また天に帰っていく。そのイエスがやがて予言どうりにこの世に復活し――キリスト教信仰の中心は、このイエスの復活にあります――そこで裁判を行なって、イエスを信じるものと迫害したものに分ける。キリスト教を信じた人は永遠の天国へ、迫害した人々は地獄へ落とされるという考え方です。つまりただ一回限りのこの世の革命と言うことを考える。この世の歴史は、この世から神の国へとただ一直線に進んでいくものだと。神の国が必ずきて、その時に、この世に生きているものばかりではなく、死んだもの全て裁かれるというわけです。その最後の審判の時が何時なのか、については色々議論があります。

 では人間の魂は死んだら何処へ行くのか。古代からの日本人の信仰では、霊はお山に行くという。お山で浄められるわけです。そこで人々は霊がお山から帰ってこないように、年忌を行ないます。日本人が年忌を大事にするのは、お山にいる霊をだんだん上へ、天に近づくように送りと言う意味が込められているからです。それで三十三回忌をすると、もう大丈夫、天に着いた。それで天に着いた霊は今度は何をするかというと、時々子孫の処に帰ってくる。それが

お盆とお彼岸です。

 このような循環の思想が直線的な進歩の思想より大事であると思います。

    21世紀の智恵――自然と共に生きるために

 今や人類は、大変大きな哲学的な課題に直面している。現代の人類文明を支配してきた原理を根本的に問い直さなくてはならない。現代の文明を支配してきたのはヨーロッパ文明です。ヨーロッパ文明の中心的思想が人間中心主義と自我の肥大主義です。これらの二つの思想はどこかでつながっています。

 自我肥大にヨーロッパは悩んでいますが、それによって人類が滅びるわけではありませんから、まだ軽い病です。それよりもっとひどいのは人間中心主義の病です。これは今一つの森を壊したとしても、目に見えて危険が迫るわけではないからと言って平然としていられるようなことではなく、やがて人類の生存に関わる大問題となるだろうと思います。

 幸なことに、日本の文明は、この二つの思想を克服できる原理を持っています。自我の肥大主義に落ちる事が無かった故に、日本はヨーロッパに比べて、高い生産力を上げることが出来ました。

 もっと大きな文明の目標を掲げなくてはならないと思います。今人類を襲っているもう一つの危機は、人間中心主義の文明がもたらした危機を克服しなければならない。その原理を、日本の文明は潜在的にもっているのです。即ち。自然と人間の生命は一体であるという世界観、こういう考え方を見直すべきだと思います。

 一本の木を切ることは、人間が自分の身体を切るのと同じです。数万本のブナの木を切ることは、数万人の人間を殺すのと同じ意味を持っているのです。同じ痛みをもっているのです。やはり命は育てていかなければいけません。この小さな日本列島のそのまた片隅で、ある意味ではヨーロッパ文明の大きな流れから取り残されたかのように狩猟採集文化が残り、形を変えて発展しました。この文明の伝統を、今や人類のために生かさなければならないときがくる、というふうに私は思います。

「日本冒険」下、梅原 猛著