縄文文化を考える

  縄文時代の進展には、幾つかの画期があった。

 第一は、土器を製作して食物の煮炊きに用いることによって、食料対象物が拡大されたことである。これによって旧石器時代の経済から縄文経済への展望が約束されたのであった。

 第二は、早期における貝塚形成の開始である。食料が陸上のみから、海水産資源にも及び更に食料対象が拡大されたことである。

 第三は、前期か少なくとも中期に定着したアク抜き技術の獲得である。食用化の技術開発として重要である

 第四は、可食植物の一部管理選択の定着である。

 第五は、イノシシの飼育の定着。

 第六は、呪術・儀礼に関わるところのいわゆる第二の道具の出現である。中期以降とくに顕著となり、これによって第一の道具(労働用具)の機能が臨界点まで極められるための確信が得られたのであった。

 第七は、食料の対象物をはじめとし、各対象物をとりまく他の自然の要素との関係に対する正確な知識の蓄積によって、食料獲得が遺漏なく行われていたことである。

  このことによって、全ての行動の年間スケジュールが計画的にリレーされる縄文カレンダーの完成へとつながってゆくのである。

(小林 達雄「総論―縄文経済」抜粋)

  狩猟については、津軽海峡を横切るブラキストン線(本州と北海道との間で動物分布が異なるため引かれた境界線)の南北で狩猟対象物が異なる。

本州ではニホンジカ・イノシシを主に、山岳部ではツキノワグマ・カモシカがそれに加わる。これに対し北海道ではイノシシ・カモシカは生息せず、エゾシカを主にヒグマが加わる。しかし、ブラキストン線は津軽海峡を横切っており、この程度の動物相の差は文化圏の境界にはならないという事実もある。

(渡辺誠「縄文時代の知識」より)

 

 上図、Tは亜寒帯針葉樹林、U・V・X・Yは温帯の落葉広葉樹林帯、

W・Z・[は温帯の照葉樹林帯。この中でもX・Yは、積雪量の違いから、同じ中部地方でも植生に差があり、この文化圏も異なっている。

Yは八ヶ岳山麓を舞台にした藤森栄一を主とする縄文中期農耕論の活発に展開された地域。

 縄文文化の地域差が、自然の多様性と対応していることを強調している。渡辺氏「縄文時代前期・中期の地域文化は、後期から晩期にかけて、次第にT、 U〜Y、Z〜\の三群にまとまるようになるが、その地域性は弥生時代以降にも長く温存される」と。

 縄文時代の地域文化は、その後には北海道と東北文化と西南日本の山群に区分され、その地域文化の特性は、稲作農耕が導入されて以後の弥生時代以降にも継承されていることを指摘している。

(佐々木高明「縄文文化と日本人」より)