農耕と牧畜の起源

「森のこころと文明」安田 喜憲著抜粋)


    農耕と牧畜の起源

 森と水の国に住む日本人は、食べ物に囲まれて生活していると言っても良いだろう。これに対して、草原は、自分で何とか食べ物を獲得する手段を探さないことには、そしてそれを貯蔵しないことには生きていけない過酷な所なのである。

 農耕の開始とは、過酷な風土の中で、人類がぎりぎりのところで開発した技術革新であった。自らが生き残るためには他人を搾取し殺すこともやむを得なかった。

 狩猟採集生活をしていた人間は、縄張りを持つことなく、個人所有や富の貯蔵という行為はなく、獲物は皆で分かち合う。ところが、日本でも農耕と牧畜を開始し、物を貯蔵し、所有するようになってから、縄張りを持つようになったと指摘される。

 即ち、生活の場の自己限定であり、近縁の種との無用の競争を回壁するのが、すみわけなのである。ところが、富の貯蔵や所有を前提とした人間社会の拡散は、すみわけではなく競争の原理を強化し、異なった集団間の摩擦を生み、時には激しい殺略の場さえ現出する。

   森の文化の原点

 西アジアの大草原の中で、人類が農耕を開始した時、東アジアの日本列島に人類は、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹の森の狩猟・漁猟採集民としての生活を開始した。一万三千年前以降、日本列島の気候は温暖・湿潤化した。北緯40度以南の日本海側の多雪地帯を中心として、ブナ花粉が増加する。ブナは日本海側の多雪気候に適応した植物である。ブナの花粉の増加は、積雪量の増加を示唆している。

 日本海側の各地では一万二千年前以降、地すべりや洪水が多発するようになり、降雪量・降水量の増大を裏付けている。降雪量の増加は大型哺乳動物には決定的なダメージを与えた。雪に覆われた草原では、冬の食料を獲得することが困難になった。夏には森がゲリラのように拡大して、生息地の草原を圧縮していった。この気候の変動期に、日本列島の人類は大型哺乳動物に代わって、サケ、マスなどの内陸の湖沼や河川に生息する魚類と温帯の落葉広葉樹の森のドングリ類に新たな食料資源を求める生活を開始する。それが縄文時代である。

 このように大型哺乳動物が姿を消してた大草原の中で、途方にくれて立ち尽くしていた西アジアの人々とは異なり、日本列島の森の中では食べ物が豊富だった。四季折々に豊な自然の恵みがあった。そうした森の中では、物を貯蔵し、他人の物を収穫する必要がなかった。それ故所有の概念は強化されず、社会的不平等も顕在化しなかったのである。富の蓄積の上に立った強大な権力者も誕生せず、支配と搾取・殺略とはあまり関係のない社会が長らく持続した。それが縄文時代であった。

   東の森と西の森の分かれ道

 一万三千年前、個人の所有が発達し、富を貯蔵し、権力者を生み、巨大な神殿や王宮を建造する階級支配と、 個人の所有が発達せず、富の貯蔵もあまり発達しない、権力者や貧富の差がなく、巨大な建築物を持たない平等主義に立脚した文明の、 大きな分かれ道であった。

 前者の風土的背景は森の草原のはざ間、後者の風土的背景は森であった。我々が文明という名の下に長い間あこがれを抱いてきたのは、前者の階級支配の文明である。一部の支配者のためにのみ作られた壮麗な神殿や宮殿、或いは装飾品が人々を魅了したからに他ならない。これまでの文明概念にもとづくかぎり、文明は森と草原のはざ間から誕生したということになる。

 しかし、森の中の縄文文化を文明とは何故呼べないのであろうか。森の中の穏やかで平和な平等主義に立脚した文化を野蛮・未開の名でさげすんできたところに、現代文明の抱えた大きな闇の部分が横たわっているのである。

   東の森と西の森

 一万三千年前、森の拡大を開始した。その森の主役はブナ科中でもコナラ属(カシとナラ)だった。ここでは、カシとナラをまとめてオークと呼ぶ。(下記の図)

 ヒマラヤを境として東のオークの森と西のオークの森はユーラシア大陸を鉢巻のように取り巻いている。このオークの森の分布するところが、古代以来、農耕文明の発展したところに大略相当している。

 オークの森は東と西では性格が異なっている。モンスーンアジアのオークの森には、葉が大きく、表面がテカテカとつやのある照葉ガシが分布する。これに対し、冬雨地帯の地中海沿岸のオークの森を代表するのは、葉が小さくてゴワゴワし硬葉ガシである。このカシの森の北、より海抜高度の高い所には落葉のナラが分布する。

 西の硬葉ガシの森の中では麦作農耕が誕生し、東の照葉ガシの森の中では稲作農耕が誕生した。

 これまで文明は西のオークの森の独占物だった。メソポタミア文明、地中海文明は、いずれも硬葉ガシの森の中で誕生している。

 

 世界のオーク(ブナ科のカシ・ナラ)の分布

 これに対し、東の照葉ガシの森やナラの森は、文明の誕生とは無縁のような、何時も遅れた地域のイメージが付きまとってきた。カラリと乾燥した西のオーク森と草原のはざ間こそが、文明の発祥地であり、人類文明の牽引車であった。

じめじめしたうっとうしい東のオークの森では、人間の理性は輝くことなく、文明とは無縁の大地であるかのごとくみなされてきた。これまでの人類史においては、事実、人類の誕生も、農耕の開始も、都市文明の誕生も、近代科学技術の革命も、全て西のオークの森の中で発祥した。

 しかし、近年、中国の考古学者の進展によって、稲作農耕の起源は一万年以上前まで遡りうるし、その稲作に立脚した都市文明の誕生も5000年以上前にまで遡ることが明らかになり、にわかに東のオークの森の文明が注目を浴びるようになった。これまで遅れた地域と見なされてきた東のオークの森の中では、実は稲作農耕に立脚した都市文明が長江中・下流域で既に5000年前から発展していたのである。

 西のオークの森は、農耕の誕生以来、ことごとく破壊しつくされた。東のオークの森も大きなダメージは受けたが、まだ東南アジアや日本には森が残っている。地球環境問題の危機に直面し、激しい森の破壊の中で人類の未来への警告が発せられる現代、人口爆発の中、異なる文化と宗教をもった民族がこの小さな地球の中で肩を寄せ合って生き延びなければならない時、東のオークの森の中の文明が、再び注目を浴び始めたのである。

 人類史においては、一方的に西のオークの森が勝利したのではない。西の森と東の森の文明が各時代の要請に応じて拮抗を繰り返しながら今日に至ったのである。

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