日本文化論への 一視点

歴史環境考古学事始・安田 喜憲著抜粋)

   森と日本文化

 自らの属している文化の特色を知る為には、その文化の辿ってきた長い歴史を知ることが重要である。しかし、多くの現代人は、自らの属している文化の特色を意識することは少ない。自分を含めた戦後世代にとっては、日本文化の存在そのものを認識することさえ無くなってきている。それは戦後の一貫した西洋化の教育と日常生活の国際化の産物であると言える。しかし、国際社会に生きる今日ほど、日本人が自らのよって立つところの文化の特性を認識することの必要性に迫られている時代は他にない。

 日本人は、数万年にわたって、日本列島の恵まれた自然環境の中で、世界にも類を見ない自然と密接な関わりをもつ文化を築き挙げてきた。その文化的伝統は、日本列島固有の地理的風土によって決定され、とりわけ豊な森林資源の中で培われてきた。日本文化が世界の他の文化に比べて特色的である点は、森の文化ということである。日本は、これまでの世界中の高い文化を発展させたどの地域よりも、豊な森の恵みに育まれてきた。森は日本の自然の代名詞であり、日本文化は森の文化であった。

 森の姿が大きく変化するたびに、日本文化にも画期があった。世界各地の古代文明の成立・発展・衰退には、自然環境の変化とは無関係のところで引き起こされている場合が多い。そこでは、民族の移動とか文化の伝播といった要素が強く作用している。

 日本の古代文化は自然の変化と密接な関わりを持っている。日本の古代文化ほど自然環境の変化と密接な関わりを持った変化・発展してきた文化は、他に類を見ないといってよい。しかもこうした自然環境との関わりが稲作文化の伝播する2300年前まで一万年以上も続いたことを考えると、日本文化の深層には自然環境と密接な関わりを持つ文化的特性があると言わざるを得ない。とりわけ縄文文化の成立・発展・衰退の図式は、日本列島の自然環境の変遷と密接に結びついている。そこには、自然との調和の文化という名に相応しい文化的変遷の図式がある。

 大陸から伝播した弥生文化の開幕期には、森の変化は見られない。この時代には、日本人のコメと魚中心の食生活が確立し、高血圧の多発など日本人特有の体質が形成され始める時代にあたっている。そして、この時代を自然と人間の関わりあいの歴史から見ると、受動的な関わりから、能動的な関わりに変化した時代、言葉を変えれば、自然と人間の調和的な関わりの破壊の第一歩と見ることができる。砂漠化の第一歩とも言われている。又、ある人は、日本人の空間的感覚も、この時代を境にして垂直思考から水平思考に移ったと考えられる。こうした変化は、人類の自然への干渉の程度、とりわけ森林破壊の程度によって大きく決定付けられたと見て良い。弥生時代に入ってからの稲作の導入によって、視界を遮る森が破壊され、水平にどこまでも続く沖積平野が人々の主要な居住舞台となったことが大きく関与しているのではないか。これまでの文化的革新は日本列島固有の風土の変化と、そこに住む人々との関わりあいの中から生み出されてきた、いわば、内からの熟成的性格の強いものであった。これに対し、弥生時代の開幕は、明らかに大陸文化の影響によるものであり、外的影響による文化的革新であった。

 弥生時代開幕以前の日本文化の発展は、森の変化を無視しては論じ得ないことが分かる。そして、日本文化の基底に大きく関わっている日本人の自然観・人生観或いは空間感覚などは、この森の姿が大きく変わるごとに、可也変化したことが考えられる。鳥浜貝塚で見たように、周囲の森の様子が変わるごとに、土器型式も変化した。このことは、森の変化が日本人の造型的感覚にも大きく関わっていることを物語っているのではないか。

   森と地方文化

 日本文化は多様な地方文化の寄せ集まりの上に発展した文化であり、それ故に幾多の困難に遭遇しても、雑種的生命力の強さから巧みに成長を遂げてきた。そして、その地方文化を生み出したのは、何よりも多様性に富んだ日本の風土であり、それを代表するものは郷土の森であった。

 日本の地方色は、大きく東日本と西日本にわかれた。東・西両地域の境界線は、太平洋岸では東海地方の大井川に求められた。 この東・西の地方色は既に後期旧石器時代に出現しており、その原因は、この時代に東日本と西日本の対照的な森の分布が成立したことにあった。こうした東・西の対立的地方色は、その後の日本歴史の中で、あたかもシーソーゲームのように、時には東が、又時には西が文化的中心地となって日本文化を変化・発展させてきた。

 狩猟採集経済に生活の基盤があった旧石器時代と縄文時代には、いずれも東日本の比重が高かった。それは、東日本に生育していた後期旧石器時代の草原と亜寒帯針葉樹林、縄文時代の落葉広葉樹林が、狩猟採集社会には有利な条件をもたらしたからに他ならない。

 日本歴史の中で、西日本が文化的中心となったのは、水田稲作農業伝播以降のことであり、それはたかが2300年前のことで、現在もその延長線上にある。それは照葉樹林の生育する気候・風土が稲作の栽培に適していたからである。照葉樹林帯が日本文化の中心となったのは、意外に新しい。西日本に文化的重心が関わってからの世界に住む我々にとっては、東北の辺境の国であり、文明の光は南方からやってきた。故郷は北にあり、都会から故郷に帰る流行歌は、何れも北国である。しかし、縄文時代には、文化の中心地は東日本のナラ林地帯にあり、照葉樹林に覆われた陰鬱な森の彼方は、むしろ辺境の地であった。それは単に日本列島のみではなく、中国大陸においても同じであった。

 寒冷期の後期旧石器時代には、亜寒帯針葉樹林と針広混合林・落葉広葉樹林が東・西に強いコントラストを示し、これに対応するかのように東日本には縦剥ぎの石刃文化が、西日本には横剥ぎの国府型ナイフ文化が成立し、日本列島は大きく、東・西の地方色に染め分けられていた。

 日本の地方文化は、変化に富んだ日本列島の風土の中で、数千年にわたって熟成され、封建社会の成立まで受け継がれていると言ってよい。中国や朝鮮に中央集権国家が誕生し、専制君主によって支配されたのに対し、日本はヨーロッパ諸国と類似した封建制が誕生する。東アジア諸国の中で日本列島のみに封建制度が誕生する素地は、既にそれ以前の数千年にわたる日本歴史の中に、伝統的に予言されていたといってよい。そして、封建制は、地方文化を生育し、郷土の森を守った。

 ところが、二十世紀に入って、こうした封建制を体験した国家は、いち早く工業化の歩みを始めた。経済大国日本の地域開発の先鋒は工場であった。まず工場を配置し、それを核として地域開発のプランが立てられた。しかし、工場は地方に一時的な冨をもたらしたが、地域の核となり得ず、ましてや地方文化の育成にはほど遠いものであった。その結果は、地方の自然を蝕み、公害を引き起こし、人々の心を荒廃させた。そして、梅棹教授のいう第一地域の未来が大きく問われ始めた。人々は競って大都市へ集まり、現代の専制国家とでも言うべき大都市型の中央集権国家が出現した。地方は大都市の搾取の対象となり、富は大都市へ集中し、地方文化は次第に影をひそめていった。日本列島は大都市型中央集権国家体制の下で、次第に平板な国へと変わって行った。そして、人々は、数千年にわたって日本文化を根底から支えてきた地方文化を忘れ去り、里山の風景は人々の心に中から消え去ってしまった。

  石油ショック以降、

 石油ショック以降、高度経済成長が頭打ちとなり、大都市での生活の矛盾が激化する中で、再び人々は地方へと目を向け始めた。   しかし、現実には日本列島の中を新幹線と高速道路が走り、地方文化圏を串刺しにして中央に直結している。こうした状況の下では、なかなか経済の地方分化は難しい。そして、地域開発の先鋒として工場をもってくるやり方には、大きな誤りがあることを、私たちは公害列島日本の汚名で、身をもって体験した。

 地方文化の育成を主眼に置き、多様な日本列島の風土に応じた地方色を生かした開発ではないか。数千年にわたる日本列島固有の自然と人間の関わりあいの歴史を振り返った時、日本歴史を貫くものは多様な風土に適応した地方色であり、バラェティーに富んだ自然と人間の関わりあいの姿であった。今日のような大都市国家型の中央集権の体制は、日本列島の風土とそこに生活する日本人の生活感覚には適していない。むしろ、今人々が目指そうとしている地方色の育成こそが、数千年の日本列島固有の自然と人間の関わりの歴史から見て、日本人の生活感覚にマッチしているように思われる。

    森林の破壊と日本の現代と未来

 中国や朝鮮半島或いはインドにも、恐らく、物凄い森というものは存在しないであろう。こうした国々では、早くから人間による森林の破壊が進み、自然は姿を変えていた。中国の詩の中にも自然が歌われることがあっても、それは人事の添え物に過ぎない、と中野美代子氏(辺境の風景)は記している。こうした自然への感心の薄さは、身近なところに既に鬱蒼とした森がなかったことによると見て良い。それだけ中国やインドの自然は、古くから荒廃していた。ちなみに、現在の中国の森林面積は国土の5%であり、日本の68%に比べて如何に少ないかが分かる。

 東洋の中国やインドに留まらず、もう一つの文明の発祥地の西アジアや地中海沿岸についても言える。ギリシャでは既に5000年前からオリーブ栽培による森林破壊が始まり、身近な周辺から森は姿を消していた。

 しかも悲しいことに、これらの古代文明の発祥地は、いづれもいったん森林が破壊されると、その後に森林が再生しにくい乾燥地に位置していた。そして、自らの文明を維持するためには、森を保護しなければならないことが明らかになるまでは、科学が進歩していなかった。人々が森のない風景の異様さに気づいた時、もはや自然は回復しない状態にまで落ち込んでいた。

 こうした古代文明とほぼ時を同じくして開花した日本の縄文文化は、文明と呼ばれるほどの華やかな輝きに満ちたものではなかった。  しかし、そこでは自然と人間の調和した文化が維持され、人類による自然環境の破壊を後年まで食い止めた。もし西アジアや中国と同様に、縄文文化が当初から農耕活動を有していたら、今日我々が見るような文化的発展は無かったかも知れない。

 そして、気候の温暖・湿潤で森の生育に適していたことも、日本列島に森の文化を誕生させる大きな要因となった。世界の古代文明が何れも農耕社会を基盤に置き、自然を破壊する中で、一万年近くにわたって高度の文化を維持したという点で、現在の環境問題の危機に直面した我々には、極めて示唆的な文化なのである。

 日本列島に本格的に農耕が伝播するのは、中国やインドに比べて、数千年以上も遅れたということは、その後の日本の歴史にとっては、極めて幸いなことであった。  人類の自然破壊は少なく、森は保護された。そして、それが近世の封建社会を生み出す大きな原動力となった。

 更に細かく見ると、 農耕伝播に関して同じ辺境の地にあった、西ヨーロッパと日本では、根本的に異なるものがあった。当初から家畜を伴った農耕形式をとり、なだらかな丘陵地帯が居住地となったヨーロッパでは、農耕の導入は一方的な森林の消滅を意味し、完全な森林破壊の段階が出現した。稲作伝播に際しては家畜が欠如し、居住地が沖積平野に限られ、温暖・湿潤な日本では、平地林は破壊されつくしたが、周辺の山地や丘陵には、再び二次林が回復してきた。  この違いが、日本人とヨーロッパ人の自然観・人生観に大きな相違をもたらした。

   日本は世界に類を見ない公害列島を生み出した。

 農耕伝播以降、ヨーロッパでは森は消滅の一途を辿り、もはや保護の対象でしかあり得なかった。そこでは、自然は保護するものという思想が早くから生まれた。これに対し、日本では、農耕伝播以降も、周辺の林地は里山としての人々の生活に不可欠なものとして結びついていた。森は人々に生活の糧を与えてくれる貴重な資源であり、神の宿るところであった。人々にとって、自然は保護しなければならないものではなく、日々の生活と一体となってあるものであった。

 ヨーロッパと日本が、二十世紀に入って、工業化社会に突入した。森の資源の必要のない工業社会での生活に突入した時、人々は全く非情とも言うべき態度で森を見放し破壊し始めた。そして、日本は世界に類を見ない公害列島を生み出した。工業化・都市化による自然破壊が人々の生活を蝕み始めた時、初めてヨーロッパから自然保護の思想が導入された。

 既に、ヨーロッパでは、農耕社会に入った時、自然保護の思想が芽生えたのに対し、日本は工業社会に入って初めて保護の考え方が一般化した。家畜と農耕による自然の破壊と、工業化・都市化による破壊の程度がどのようなものかは、明らかである。工業化・都市化による自然の破壊は、森を破壊するのみではなく、森の再生を不能にするまで土壌や大気、それに水をも汚染する。そして、人々の健康までも蝕む。 家畜を欠き、水田稲作農業に生産の手段があり、温暖・湿潤な風土に恵まれたばかりに、近代の工業化によって自然が破壊されるまで、自然保護の重要性に気づかなかった我々は、悲劇の民族に成り果てるのであろうか。そうあってはならない。(「環境考古学事始」安田 喜憲著抜粋)

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