歴史的人類の進化
200,000年前 - 50,000年前
アフリカでホモ・サピエンス(新人)が進化
現代人のDNAの解析結果から、全世界の現代人の共通祖先は、20万〜10万年前ごろのアフリカにいたことがわかっている。現代人と同一の骨格形態をしめす人類をホモ・サピエンスとよぶとすると、最古のホモ・サピエンスの化石は、エチオピアの16万年前の地層からみつかっているものである。一方、20万〜5万年前のアフリカの遺跡からは、現代人に通じるような行動の痕跡(こんせき)が読みとれる。たとえば、狩猟具が洗練され、骨や角や象牙(ぞうげ)をふくむあらゆる自然の道具素材が利用されるようになり、よりむずかしい魚の漁がはじまるなど、技術面での進歩の証拠がみとめられる。ネックレスやビーズなどの装身具がつくられるようになったほか、赤色顔料をつかって物を着色したり、絵を描いたり、彫刻をしたりといった行為も、本格的にはじまった。これらのことから、私たちの共通祖先は、20万〜5万年前の間にアフリカで進化したと考えられる。将来、さらに調査がすすむことにより、この年代の幅はもっと狭まる可能性がある。
50,000年前
ホモ・サピエンス(新人)がオーストラリア大陸へ進出
現代のアボリジニの祖先たちは、おそらく5万年前ごろに、何らかの舟をつかって海をこえ、オーストラリア大陸とニューギニア島にすみついたと考えられている。初期の移民は、おもに海産物に依存する集団であったと思われるが、その後、熱帯雨林から、オーストラリア内陸の乾燥地帯、タスマニアの周氷河地帯にいたるまでの多様な地域へ、比較的短期間のうちに広がったようだ。オーストラリアへの移住は、その年代と渡来した集団の数をめぐっての論争があるが、まだ決着はついていない。一部の研究者は、渡来の年代は7万年前ごろまでさかのぼり、渡来した集団も2つあったと考えている。
40,000年前 - 30,000年前
ホモ・サピエンス(新人)が日本列島へ進出
酸性土壌のため骨の保存のわるい日本列島では、人骨化石の出土例は少ない。現在までに発見されている、3万2000〜1万2000年前(縄文時代以前)の人骨は、港川遺跡出土の全身骨格(1万8000年前)をのぞくと、どれも断片的であるが、形態的にはホモ・サピエンスのものと考えてよい。なお年代は不確定だが、石器の証拠も考えあわせると、日本列島へのホモ・サピエンスの渡来は、4万〜3万年前の間におこったようである。なお、ホモ・サピエンスが東アジア地域へ最初に進出した年代については、まだわかっていない。
30,000年前
ネアンデルタール人が絶滅
ヨーロッパにおいて、ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)が消滅した。アフリカ起源のホモ・サピエンス(新人)であるクロマニョン人との競合の結果と思われるが、絶滅の実態についてはよくわかっていない。人口の多いクロマニョン人と混血し、吸収されてしまった可能性もある。ネアンデルタール人が行動面でホモ・サピエンスよりおとっていたことは事実だろうが、その違いが大きかったのか、それともわずかなものであったのかについては、論争がある。東ユーラシアでも、同様な旧人や原人の絶滅があったが、化石や遺跡の証拠が極端に少ないため、その年代と実態については、ネアンデルタール人の場合よりさらに不明な点が多い。
25,000年前 - 24,000年前
岩宿遺跡で石器文化
群馬県みどり市の岩宿遺跡は、日本の旧石器文化の存在をはじめて証明した遺跡として知られる。もっとも古い岩宿T文化層からは局部磨製石斧や初期のナイフ形石器類が出土、これらは後期旧石器時代にあたる2万5000〜2万4000年前のものであった。
23,000年前
ホモ・サピエンス(新人)がシベリアへ本格的進出
氷期による寒冷化がすすむ中、まずシベリア南部のバイカル湖周辺に、ホモ・サピエンスが本格的に定着するようになった。ホモ・サピエンスは、厳寒の自然環境を克服するために、身体を進化させたのでなく、衣服や住居、食糧の貯蔵法など、文化的な解決法をあみだしていた。その後、1万5000年前ごろまでに、ホモ・サピエンスは北極海沿岸へ達し、一部はアラスカへとわたっていったようである。
20,000年前
アボリジニの洞窟壁画
古代のオーストラリア先住民(アボリジニ)の岩壁画(岩面美術)はオーストラリア全土に広く分布しているが、サウスオーストラリア州西部のコーナルダ洞窟で発見された刻画は、約2万年前までさかのぼることができる。アボリジニの岩壁画は、北部のものはウォンジナ(降雨の神)などの描写をともなう自然主義的な彩画が多く、南部では幾何学的な線画が多い。アボリジニの岩壁画では、外からみえない身体内部までも描写する「X線描法」がもちいられることがある。
15,000年前 - 11,000年前
ホモ・サピエンス(新人)がアメリカ大陸へ進出
ホモ・サピエンスの北アメリカへの移住は、ヨーロッパからでなく、シベリア経由で達成された。氷期に海面が低下したときに、現在のベーリング海峡が陸化していたことは、マンモスなどの動物がシベリアと北アメリカとの間を往来していたことからもわかる。ホモ・サピエンスがアラスカに到達したのは1万5000年前ごろ、そして北米から南米各地に広がったのは、1万2000〜1万1000年前にかけてだったと考えられている。大陸への南下がおくれたのは、1万2000年前ごろまで、カナダ地域に巨大な氷床が発達していたためである。
14,000年前 - 12,000年前
日本列島で細石刃文化隆盛
3万年ほど前からつづいていたナイフ形石器にかわり、北海道や西日本で細石刃(さいせきじん)とよばれる細石器がつくられるようになった。木や骨に溝をほり、そこに黒曜石などでつくった小さくするどい石刃を一列にさしこみ、大きな刃をもつ鎌(かま)や槍の穂先などにしたのである。このような高度な替え刃式の組み合わせ道具の登場は石器文化の円熟期をしめす。とくに北海道では、大陸からの影響をうけて成立した湧別技法(ゆうべつぎほう)のほか、多様な細石刃製作技法がみられる。細石刃文化は、1万3000年前ごろには日本各地に広がっていった。
13,000年前 - 12,000年前
日本最初の土器
日本最古といわれる土器は、長崎県の福井洞窟から細石刃(さいせきじん)とともにみつかった隆起線文土器や、同県の泉福寺洞窟出土の豆粒文土器(とうりゅうもんどき)などが有名である。豆粒文は土器表面に粘土の小粒をはりつけたもので、粘土ひもをはりつけた隆起線文の一種という説もある。これら隆起線文系土器が前1万1000年ごろにはじまる縄文時代草創期の土器の中でもっとも古いものとされ、本州各地でみつかっている。しかし近年、無文土器などで隆起線文土器より古い土器の存在も明らかになりつつある。
青森県蟹田町の大平山元T(おおだいやまもといち)遺跡から出土した薄い線刻をもつ土器片は最新の科学的年代測定法で前1万4500年のものとされ、土器文化の始まりがさらに3000年以上もさかのぼる可能性が指摘されている。
13,000年前 - 前400年頃
縄文時代
日本列島では、旧石器時代につづいて1万3000年前ごろから土器がつくられるようになり、縄文文化がはじまった。食物の煮炊きや保存につかえる土器の使用は、当時の人々の生活を大きくかえ、生活文化の一大転換となった。縄文人たちの多くは日当たりのよい台地上の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)にすみ、主として狩猟や漁労、採集によって生活をしていた。
最近十数年の研究の進展から、彼らの生活は狩猟や採集以外にも原始的な農耕やクリ林の管理栽培、活発な交易などをおこない、また高度な漆工芸や大型建築物など多様な生活技術を駆使して環境変化に適応していたことがわかってきた。集落もこれまで考えられていたものより、はるかに大規模で長期間にわたるものが次々にみつかっている。
また縄文時代前期の地層からイネやムギの存在をしめすプラントオパールが検出されるなど、原始的な穀物生産の可能性をひめた証拠もみつかっており、縄文時代の生活・文化といった全体像について再評価がすすめられている。青森県の大平山元T遺跡(おおだいやまもといちいせき)から出土した土器片が、最新の科学的年代測定法で前1万4500年(1万6500年前)ごろのものとされるなど、縄文時代のはじまりもさらに古くなる可能性がある。
12,000年前 - 前7000年頃
世界各地で細石器文化隆盛
地域によって時間差があるが、このころ西アジアやヨーロッパ、北アフリカなどで細石器が盛んにつかわれた。細石器の使用は中石器時代の文化の大きな特徴である。日本の細石器(細石刃)文化が発展したのは1万4000年前〜1万2000年前ごろで、これより少しはやい。
12,000年前
中石器時代始まる
前1万年ごろに気候の温暖化とともに氷河が後退しはじめ、生活環境がいちじるしくかわったことから中石器時代がはじまった。旧石器時代から新石器時代への過渡期的時代で、おもにヨーロッパでつかわれてきた用語である。この時代の大きな特徴は、三角形や台形といった幾何学形細石器が数多く使用されることで、北西ヨーロッパの森林地帯では前7000年ごろにフリント製鏃(やじり)の弓矢なども発達したが、依然として狩猟採集生活がおこなわれている。そのため、文化的に旧石器時代とあまり変わりがなく、旧石器時代の終末期としてこの用語を使用しない学者も多い。
しかし、始まりに地域による時差があるものの、ヨーロッパからオリエント地域では中石器文化的な特徴がかなりはっきりとみられ、農耕と定住、家畜飼育、土器や磨製石器製作といった新石器時代の文化の特徴が中石器時代終末期にみられる。その終わり、すなわち新石器時代の始まりも地域によってかなりの違いがある。オリエントでは前8000年ごろであるが、ヨーロッパではギリシャなどはやいところで前6000〜前5000年ごろ、デンマークやスカンディナビア半島などおそいところでは前3000年ごろまで中石器時代がつづいた。
前8000年頃
メソポタミアで新石器時代始まる
石器時代の最終末期である新石器時代の特徴は、食糧生産(農耕)と定住、家畜飼育、土器や磨製石器製作であり、とくに食糧生産が重要である。パレスティナを中心にみられる中石器時代のナトゥーフ文化では前1万年ごろに集落ともいえる定住地をいとなんでおり、この地域では前9000年以降、ヒツジやヤギなどの家畜化もみられる。しかし、これらはまだ採集経済のため新石器文化とはいえない。前8500〜前8000年ごろ、ヨルダンのエリコやシリアでムギなど穀類の生産がはじまり、前8000〜前7000年ごろに農耕文化が肥沃(ひよく)なメソポタミアに広がったと考えられている。人類最初の新石器時代のはじまりである。メソポタミアでの土器の出現は前7000年以降であるため、これらの文化は先土器新石器文化とよばれている。
前8000年頃
マンモスの絶滅
更新世(氷河期)のおわりには、急激な気候の変化や人類による狩猟が原因で、アメリカ大陸やユーラシアの各地で多くの哺乳類が絶滅した。そのなかには1万年前に絶滅したマンモスのように大型哺乳類もふくまれていた。更新世末期の大型哺乳類の絶滅でよく知られているのは、ほかにケサイやオオナマケモノ(メガテリウム)などである。ケサイは北アジアからヨーロッパにいた体長3mもの毛深いサイで約2万年前に絶滅。南アメリカにいた巨大なオオナマケモノは、頭胴長が6mにも達するゾウに匹敵する大きさで、地上でくらしていた。ちなみに北アメリカで先住民の狩猟によりマストドンが絶滅したのは約8000年前のことである。
前8000年頃
メソポタミアで新石器時代始まる
石器時代の最終末期である新石器時代の特徴は、食糧生産(農耕)と定住、家畜飼育、土器や磨製石器製作であり、とくに食糧生産が重要である。パレスティナを中心にみられる中石器時代のナトゥーフ文化では前1万年ごろに集落ともいえる定住地をいとなんでおり、この地域では前9000年以降、ヒツジやヤギなどの家畜化もみられる。しかし、これらはまだ採集経済のため新石器文化とはいえない。前8500〜前8000年ごろ、ヨルダンのエリコやシリアでムギなど穀類の生産がはじまり、前8000〜前7000年ごろに農耕文化が肥沃(ひよく)なメソポタミアに広がったと考えられている。人類最初の新石器時代のはじまりである。メソポタミアでの土器の出現は前7000年以降であるため、これらの文化は先土器新石器文化とよばれている。
前6000年頃
タッシリナジェールの岩壁画
タッシリナジェールはアルジェリア南東部にある山脈で、数万点にのぼる先史時代の岩壁画(岩面美術)で知られる。もっとも古いのは中石器時代のものだが、つづく「狩猟民の時代」の彩画や刻画は前6000〜前4000のもので、野生動物や人物の姿がみえる。タッシリナジェールの岩壁画は、この後も紀元前後まで描かれた
前6000年頃 - 前5000年頃
メソアメリカで植物栽培始まる
メソアメリカでは前6000〜前5000年ごろにヒョウタンやアボカドなどのごく初歩的な植物栽培がはじまっていたと考えられている。最初はほとんど放置に近いものでも、やがて前3500年ごろまでにはメソアメリカ原産の植物として現在知られる原生種のトウモロコシやインゲンマメ、トウガラシ、カボチャなどの栽培が広く中央アメリカから南アメリカ北部でおこなわれるようになった。
前5600年頃 - 前5300年頃
メソポタミアで灌漑農業始まる
中央メソポタミアで、灌漑(かんがい)農業を基盤とするはじめての村落文化が発展(サーマッラー文化)。穀物やマメ類の成長に必要な水をはこぶ水路などの灌漑施設がつくられ、コムギやオオムギ、エンドウなどが栽培されていた。乾燥地帯にもかかわらず、作付面積あたりの収穫量は大きく増加した。
前5500年頃
黄河文明の黎明期
黄河流域は、寒冷ながらも農耕に適した黄土層にめぐまれ、早くから農業が発達した。河南省の裴李崗遺跡(はいりこういせき)や河北省の磁山遺跡(じざんいせき)などによれば、新石器時代早期、前5000年ごろの黄河中流域ではすでに豚、ヒツジなどの家畜の飼育やアワの栽培がおこなわれ、質はあまり高くないが、さまざまな土器がつくられていた。この中流域はその後、仰韶文化(ぎょうしょう)、竜山文化をへて国家の形成へとすすみ、中国歴史の中心舞台となる。
前5000年頃 - 前3000年頃
河姆渡文化
長江下流域に中国新石器時代早期の河姆渡(かぼと)文化が発達した。チョーチアン省(浙江省)の河姆渡遺跡を代表とする文化で、紀元前5000年ころには定住して稲作をおこなっていた。大量の炭化した籾(もみ)や農具などが出土している。また犬や豚も飼育されていた。
前5000年頃
沖縄貝塚時代始まる
沖縄では、本土の縄文時代〜平安時代にあたる新石器時代を独自に貝塚時代とよぶ。島嶼性(とうしょせい)が強く、貝塚が多いことなどからである。7000年前ごろにはじまる渡具知東原遺跡(とぐちあがりばるいせき)などからは縄文時代前期に相当する遺物がみつかっており、かなり縄文文化の影響がみられ、九州から縄文人が移住してきたとも考えられる。また前2世紀ごろには土器など弥生文化も入ってきているが、豊かな自然条件のもとでほぼ12世紀初頭まで本格的な農耕はほとんどおこなわれなかった。
前5000年頃
長江文明の黎明期
長江流域には、黄河文明とはことなる独自の文明が発達した。温暖湿潤な気候にめぐまれて、中・下流域では前5000年には稲の栽培がおこなわれていた。とりわけ下流域の河姆渡遺跡(かぼといせき)からは、円柱や方柱など高床式建物の建築材が大量に発見され、また籾(もみ)や稲穀、農具なども出土した。その後、長江では中流域において城壁でかこまれた都市をもつ前3000年ごろの石家河文化(せっかがぶんか)が生まれ、また同時期以降、上流の四川盆地(しせんぼんち)では、大城壁都市をきずくまでに成長する三星堆文化(さんせいたいぶんか)が花開く。
前4800年頃 - 前2700年頃
仰韶文化(彩陶文化)
中国の黄河流域にさかえた新石器時代前半期の農耕文化は、最初に発掘された遺跡名から仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)とよばれる。この文化の基本は紅陶にあり、モンゴロイドと思われる原中国人(プロト・チャイニーズ)がこの文化をになったとされる。遺跡は河岸の台地に多く、住居・窯(かま)・共同墓地などがある。集落には環濠をめぐらし、中央に広場をつくって、集会場らしい大型住居を中心にして住居群がたてられていた。
前4500年頃
メソポタミアで犂による農耕開始
南部メソポタミアではウバイド文化後期ごろに犂(すき)が発明され、家畜化されたウシをつかっての犂耕(りこう)がおこなわれるようになった。このころには、灌漑(かんがい)農業も発展しており、生産力が飛躍的に増大した。家畜は脱穀や播種(はしゅ)にも使役されて、牧畜と農耕を基軸とする有畜農業が一般化していった。
前4000年頃
縄文海進
約1万年前から海進がはじまり、6000年前にその最盛期をむかえた。最盛期には海面が、現在より約2m高かったことが判明している。関東平野の貝塚遺跡の分布をみると、海が平野の奥まで入ってきたことをしめしている。
前4000年頃
西ヨーロッパに巨石文化があらわれる
新石器〜青銅器時代初頭の西ヨーロッパに巨石文化があらわれた。各地にのこる遺跡のうち、著名なものにブルターニュ地方(フランス)のカルナック列石、ソールズベリー平野(イギリス)のストーンヘンジがある。前4000年までさかのぼるとされるカルナック列石については神殿説と墓地説が、前3000〜前1000年ころとされるストーンヘンジについても、今日なお墓場説、祭祀(さいし)説、天文台説などがあり、定説はない。
前4000年頃 - 前3000年頃
エジプトで数字の使用始まる
数字や記数法がいつからつかわれたかは、正確にははっきりしない。しかしこの頃、エジプトやバビロニアで使用された10進法や60進法による数の記録がのこっている。また、これとは別に、マヤ文明でも20進法による記数法がおこなわれていた。現在つかわれているアラビア数字(インド数字)による記数法がヨーロッパまで普及するのは、13〜14世紀のことである。
前3500年頃 - 前2700年頃
黄河下流域に新石器文化発達
黄河下流域に中国新石器時代後半期の大?口文化(だいぶんこうぶんか)が発達した。この文化は竜山文化以前の文化で、シャントン省(山東省)南部からチアンスー省(江蘇省)北部に広がり、大?口遺跡に代表される。中期以降に豚がかわれ、後期(中国では晩期という)にはアワが栽培されていた。副葬品などから、大?口文化では社会的階層や男女の生業分担ができていたと考えられる。
前3000年頃
エジプトのミイラ
古代エジプトでは、死者は死後の世界で再生復活し、永遠の生をうけると信じられていた。死体を永久保存するためのミイラ作りは、初期王朝以前からおこなわれていたとされ、国家体制がととのった紀元前2500年ごろの古王国時代にミイラ作りの技術が発達した。中王国時代以降オシリス信仰が普及していくとともに、蘇生のために必要なミイラも盛んにつくられるようになり、豪華な棺や装飾品、数々の副葬品なども墓におさめられた。
前3000年頃 - 前1000年頃
ストーンヘンジ
イギリス南部のソールズベリー平野中央部にあるストーンヘンジは、中心に3重の同心円状列石を配置した巨石記念物である。それらをかこむ土坑群や円形土塁などもあり、十数世紀の間に3次にわたって築造されている。古代イングランドにケルト人がやってくる以前にすんでいた人々が、宗教祭祀(さいし)をおこなったもので、夏至(げし)の日の日の出の方向をしめしており、古代の暦であるとする説もあるが、建造目的についてはいまだじゅうぶんな解明はなされていない。
前3000年
三内丸山遺跡に大集落
青森市南西の河岸段丘上にある三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、縄文時代前期から中期の集落遺跡だが、最盛期は中期の前3000年ころで、一説に人口500人ともいわれる縄文時代有数の大集落がいとなまれていた。これらの遺構や遺物は従来の縄文時代のイメージを大きくかえるものだった。有機質遺物が多数発見されており、植物遺伝子の調査から、この時代にすでにクリやマメの管理栽培がおこなわれていたことが確実視された。さらに新潟県糸魚川(いといがわ)産のヒスイや、北海道産の黒曜石などの発見により交易圏の広さもうらづけられた。また軟弱な地盤に直径1mものクリの木柱を6本も設置した大型の掘立柱(ほったてばしら)建物は、高度な土
前3100年頃
シュメールで楔形文字考案
メソポタミア南部のシュメールで、楔形文字(くさびがたもじ)の祖型が粘土板にきざまれた。それらはまだ曲線の多い絵文字で、一種の象形文字だった。
前4800年頃 - 前2700年頃
仰韶文化(彩陶文化)
中国の黄河流域にさかえた新石器時代前半期の農耕文化は、最初に発掘された遺跡名から仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)とよばれる。この文化の基本は紅陶にあり、モンゴロイドと思われる原中国人(プロト・チャイニーズ)がこの文化をになったとされる。遺跡は河岸の台地に多く、住居・窯(かま)・共同墓地などがある。集落には環濠をめぐらし、中央に広場をつくって、集会場らしい大型住居を中心にして住居群がたてられていた。
前3000年頃 - 前2000年頃
良渚文化
長江下流域の浙江省を中心に江蘇省や上海(シャンハイ)などで中国新石器時代の高度な技術をもった良渚文化が花ひらいた。長江デルタ地帯では新石器時代初期の稲作が確認された、前5000年以前といわれる河姆渡遺跡(かぼといせき)や前4000年ごろの草鞋山遺跡(そうあいざんいせき)などが発見されており、この良渚文化は稲作経済が一段と発達したことをものがたる。発掘された玉器(ぎょっき)や祭壇などからすぐれた工芸技術や階層の分化など社会の発展をみることができる。新石器時代の初期都市文明ともいえる、この高度な稲作社会は、前3000年ごろから約1000年間にわたって繁栄した。
前3100年頃
メソポタミアに都市文明誕生
メソポタミア最南部、ティグリス川とユーフラテス川の下流域にウルクをはじめ、ウル、ラガシュ、エルドゥなど、シュメール人による神殿や城壁をもつ都市国家があらわれた。高度な農業生産力を背景に人類最初の都市文明が誕生したのである。ウルクはもっともはやく都市化がはじまったところだった。城壁内には多くの人々がすみ、発展した灌漑(かんがい)農業をおこない、労働の組織化や分業化もすすんでいた。神殿は宗教施設であると同時に経済活動の中心でもあり、穀物の貯蔵庫や工芸品製作の場でもあった。そして広範なネットワークをもつ交易で繁栄していたのである。守護神をまつる最高位の神官をかねる王たちは、領土や交易路の確保のためにあらそい、また都市国家間で同盟をむすぶこともあった。やがて、このシュメール都市文明は各地に広がっていった。
前3000年頃
西アジアで青銅器時代始まる
古代オリエントは金属製錬技術がもっともはやく開発された地域である。とくにアナトリア(トルコ)は鉱山と森林資源にめぐまれ、前3000年を少しさかのぼったころ、銅にスズを混合させた青銅がつくられるようになる。まもなく西アジアは初期青銅器時代に入り、やがてヨーロッパやアフリカ、他のアジアへとその技術は広がっていった。
前2900年頃
ノアの洪水おこる
このころ、旧約聖書にある「ノアの洪水」がおきたと考えられる。この大洪水物語は、古代オリエントの世界最古の文学「ギルガメシュ叙事詩」11章に書かれた、賢者ウトナピシュティムがギルガメシュにかたる洪水伝説を原型にしているとされる。ギルガメシュはシュメール初期王朝期の前2700〜前2650年ごろにウルクに君臨した王である。シュメールの中心的な都市だったイラクのウルやキシュでは考古学調査により、大きな洪水の跡が発見されており、洪水は何度も発生したことがわかっている。
シュメール初期王朝始まる
メソポタミア南部のシュメール最初の支配者は前2800年ころに活躍したキシュのエタナ王で、ここに初期王朝がはじまる。しかし、彼の治世がおわるころにはウルクに対立王朝がたてられ、さらにウルやラガシュといった有力都市国家も入ってメソポタミア南部の覇権をあらそった。王朝が衰退するとシュメール人は外部からの侵略をふせぎきれなくなり、前2335年ごろにセム人の指導者サルゴンによって征服された。これによって、シュメール都市国家の時代はおわることになる。
前2737年頃
エジプトでピラミッドの建設が始まる
カイロ近郊のサッカラにのこる階段状ピラミッドは、エジプトにつくられたピラミッドの最初期のものである。古王国時代第3王朝のジェセル王の時代につくられた。高さ60m、基底部は東西140m×南北128mの規模をもつ。ピラミッドのまわりには神殿や葬祭殿が配置され、全体として長方形の周壁でかこまれたピラミッド複合体を構成している。
2500年頃
中国、絹の生産
中国の養蚕は、新石器時代にはじまったとされる。長江(揚子江)下流で発見された良渚文化(紀元前3300〜2200年)の遺跡からは絹や麻の織物が出土している。殷の時代(紀元前1600頃)には、すでに高度な技術の絹織物がつくられていた。前2世紀ごろ、養蚕技術はシルクロードの要衝ホータンへつたえられている。絹はシルクロードの重要な交易品で、その製法は秘密とされ、6世紀中ごろまでカイコ(蚕)の国外持ち出しは固く禁じられていた
前2350年頃
ピラミッド・テキスト
古代エジプト初の葬礼文書が、第5王朝最後の王ウナスの墓室壁面にきざまれた。ピラミッド・テキストとよばれるこの文書は、死者の永生と復活をたすけるため、古くからつたわってきた呪文類をあつめたものとされる。おりしも、王が「太陽の子」とよばれるようになった時代であり、来世における太陽への帰一が叙述される一方、冥界の支配者オシリスへの変容もしるされている。
ピラミッド・テキストにみられた呪文は王だけにゆるされていたものだが、中王国時代にはコフィン・テキストとよばれる棺文があらわれ、豪族や富者もこれをもちいるようになった。このころには、必要な準備さえととのえばだれでもオシリスになれるという信仰が広まっていた。新王国時代には呪文の数もふえ、「死者の書」とよばれるパピルス文書が棺におさめられるようになる。
前2300年頃 - 前1700年頃
インダス文明
古代の世界4大文明にかぞえられるこの文明に関しては、インダス川流域のハラッパーやモヘンジョ・ダロ、ドーラビーラなどの大都市遺跡を中心に大小300ほどの遺跡が発見されている。日干し煉瓦の建物からなる小規模な村落遺跡が多いが、大都市では、焼成煉瓦造りの建物が道路によって区画されており、大きな公共の建物も多い。高度な工芸技術もあり、土器や土製の玩具、彫像、青銅・金・銀など貴金属の装飾品、道具類などが発掘されている。インダス文字を陰刻した印章も多数出土している。
前2100年頃 - 前400年頃
メソポタミアで太陰太陽暦始まる
古代メソポタミアでは、シュメール王朝時代の前25世紀ごろの粘土板文書から、月の満ち欠けをもとにした太陰暦の日付が記載されているものがみつかっている。そして前22世紀には四季をきめるための太陽暦(1年を360日)と1年を354日とする太陰暦を併用した太陰太陽暦をつかいはじめ、季節とのずれを閏月(うるうづき)をもうけることで調整していた。その後、バビロニア人によって天文観測がすすむと、新月となるときと、新しい月のはじまりの日を予測できるようになった。彼らは1年を、30日を1カ月とする太陰月の12カ月からなるとした。前4世紀になると、長期間の観測と経験から19年間に7閏月をおく、より正確な太陰太陽暦が採用された。
前2070年頃 - 前1600年頃
夏王朝
中国最古の王朝。長い間、王朝の存在を決定づける考古学的証拠がみつからなかったが、近年、ホーナン省(河南省)の二里頭遺跡などの発掘で、夏王朝から殷(いん)王朝への交代が確認され、また大規模な宮殿をもつ都市遺跡(前2000〜前1900年)が近くでみつかるなど、実在は確実視されるようになった。「史記」によれば、古代伝説上の帝王、舜(しゅん)のもとで黄河の治水に功績をあげた禹(う)が、舜の死後に諸侯から推挙されて天子となったとされる。これが夏(か)王朝であり、暴君の桀(けつ)が殷の湯王(とうおう)にほろぼされるまで17代つづいたという。儒教思想においては、夏および殷、周のあわせて「三代」が中国の理想の時代とされている。
前2134年頃 - 前1784年頃
エジプト中王国時代(第11〜第12王朝)
上エジプトのテーベに本拠をおく第11王朝のメンチュヘテプ1世は、肥沃な土地を背景に強力な国家をきずきあげていった。つづくメンチュヘテプ2世は、前2047年ごろエジプト全土を再統一し、華麗な中王国時代の幕を開いた。この時期の建築、美術、宝石にみられるデザインは繊細で、エジプト文化の第2の黄金期といわれる。テーベは以後1000年間、エジプト文化の中心としてさかえた。
前2000年頃
中国に亀卜の習慣
中国の古代殷(いん)王朝で、亀卜(きぼく)とよばれる占いがおこなわれた。軍事、祭祀、狩猟などのたびに亀甲を焼き、そのひび割れの形状によって神の意思と吉凶を判断するものである。亀甲は主として河南地方の河川流域で採取し、諸氏族から王朝へおくられ、一定のお祓(はら)いの手続きをへてから占いにもちいられた。殷人がなぜ亀甲をもちいたのかはわからないが、その形が神意の媒介者と信じられたのではないかと思われている。
のちに、占いの事項や結果が、卜兆の周囲にきざまれるようになった。この辞は、卜辞または甲骨文とよばれている。
前2000年頃
「ギルガメシュ叙事詩」成立
世界最古の物語といわれる「ギルガメシュ叙事詩」が、このころまとめられた。主人公のギルガメシュは、前3千年紀前半のシュメールに実在した王だが、はやくから英雄として伝説化していた。「叙事詩」は、時代をへだてて成立したさまざまな物語をこの半神半人の英雄伝説のもとに統一したものと考えられている。今日では、前8〜7世紀のアッシュールバニパルの図書館跡から発掘された12枚の粘土板文書から、物語の概要を知ることができる。
粘土板中、11番目の文書にえがかれた洪水物語は、聖書にしるされている「ノアの洪水」の原型として知られる。
前1800年頃
アンデス文明の黎明
アンデス高地の人々は前3500年にはすでにヒョウタンやトウガラシ、カボチャといった作物の栽培をおこなっており、前2500年ごろからは綿の糸や布もつくられていた。農耕の発展とともに、前2000年ごろからトウモロコシ(現在種)栽培が一般化し、定住農耕村落の規模も大きくなってくる。薄手の土器作りが広まる前1800〜前1700年ごろが、アンデス文明形成期(先古典期)の始まりとなる。前1500年以降になると海岸部を中心に神殿をもつ大きな村落が出現するが、形成期のもっとも重要な文化は、その後のアンデス文明の母体となったチャビン文化である。この文化は前900年ごろに隆盛期をむかえる。
前1800年頃
大湯環状列石
秋田県鹿角市(かづのし)にある縄文時代後期の代表的な配石遺構である大湯環状列石は、直径約40mの野中堂(のなかどう)と約90m北西にある直径約46mの万座(まんざ)の2基が中心である。環状列石内には、形から「日時計」とよばれる中央に立石をもつ遺構がいくつかずつ配されている。配石下にある土抗(どこう)の土の分析から、これらは共同墓地だったと考えられている。
前2300年頃 - 前1700年頃
インダス文明
古代の世界4大文明にかぞえられるこの文明に関しては、インダス川流域のハラッパーやモヘンジョ・ダロ、ドーラビーラなどの大都市遺跡を中心に大小300ほどの遺跡が発見されている。日干し煉瓦の建物からなる小規模な村落遺跡が多いが、大都市では、焼成煉瓦造りの建物が道路によって区画されており、大きな公共の建物も多い。高度な工芸技術もあり、土器や土製の玩具、彫像、青銅・金・銀など貴金属の装飾品、道具類などが発掘されている。インダス文字を陰刻した印章も多数出土している。
前1680年頃 - 前1200年頃
ヒッタイト王国
前1680年ごろ、ラバルナ1世がアナトリア(現トルコ)の小国家群を征服してヒッタイト王国を樹立、古王国時代がはじまった。彼の後継王たちは大国への道をあゆみ、前1595年ごろにはバビロン第1王朝をほろぼした。新王国時代は前1450年ごろからはじまる。前14世紀には外国の侵略をうけ混乱、衰退していた国内をスッピルリウマ1世が収拾し、王国を強固で広大なものとした。
ヒッタイトがオリエントで強国になれたのは、鉄器と優秀な乗馬技術をもっていたからであった。アナトリアは鉱物資源が豊富ではやくから製鉄技術をもち、前1400年ごろには製鋼技術を開発、その製造と流通は国家管理されていた。彼らは鉄製武器と調教したウマにひかせた2輪戦車で敵をけちらしたのである。前1200年ごろ、東地中海の「海の民」の侵入をうけ、500年近くつづいたヒッタイト王国は崩壊した。
前1600年頃 - 前1050年頃
殷王朝
殷(いん)王朝は、前17世紀末ごろから前11世紀半ばにかけて黄河中流域を支配した。殷という名は次の周王朝がつけたもので、みずからは商と称していた。20世紀に入って、河南省安陽市で殷王朝の宮殿跡や王族の墓などが発見され(殷墟)、殷王朝の実在が証明された。出土した中国最古の甲骨文字から、殷の王は、さまざまな決定をする際にかならず占いをし、天の意思として命令をくだしていたことが判明した。また、発掘された青銅器からは、殷文化の水準の高さがうかがわれ、世界美術史の中でも高く評価されている。
前1600年頃
中国殷代に青銅器
中国では、前17世紀ごろにはじまる殷の時代にはすでに青銅器がつくられていた。殷代後期の殷墟文化期(前14世紀頃〜前11世紀頃)になると、青銅器は形も文様も技巧をこらした複雑なものになった。当時の青銅製の容器や楽器は、国家間の儀礼や祖先に対する祭祀(さいし)の際にもちいられたもので、一般の人々が日常的につかっていたわけではなかった。
前1520年頃
王家の谷の造営が始まる
エジプト、テーベの対岸、ナイル川西岸の断崖に王墓をきずき、ここをネクロポリス(死者の町)としたのは第11王朝のメンチュヘテプ2世だった。新王国時代に入って、王墓を盗掘からまもるため、断崖の背後の谷に、数多くの王墓が造営され、第18王朝のトトメス1世から第20王朝最後のラメセス11世までのほとんどの王が、この王家の谷に埋葬された。長い年月の間に大部分が盗掘されたが、王のミイラはのこされた。
前1500年頃 - 後100年頃
マヤ文明の黎明
ユカタン半島の熱帯雨林地域にも前1500年ごろには土器をもつ人々が焼畑など小規模な農耕社会をきずいていた。前900年ごろからは祭祀(さいし)の建造物もみられるようになるが、マヤ文明の特徴がかなりはっきりしてくるのは、前300年ごろにはじまる形成期(先古典期)後期からである。石碑や基壇、神殿をもつ都市があらわれ、前150年ごろのエル・ミラドールではピラミッド神殿がたちならぶ大都市へと発展する。そして2世紀には、マヤ文字やマヤ暦などを特徴とするマヤ文明が誕生するのである。
前1500年頃
三星堆遺跡、大きく発展
長江上流の四川省にある三星堆遺跡(さんせいたいいせき)は、黄河中流の竜山文化期に相当する前2500年にはすでに城壁をもつ集落へと発展していた。しかし、この遺跡がもっとも注目されたのは、土中から高度で独自なデザインのおびただしい数の青銅器や玉器(ぎょっき)、金製品などが発見されたからである。これらの製作年代は前1500〜前800年にわたっており、ほぼ殷、周王朝繁栄期にあたる。製作開始期の前1500年ごろには城壁もかなり大規模なものとなっており、このころ、三星堆の地に城壁都市として繁栄した謎の王国が存在していたことをものがたっている。
前1400年頃
甲骨文字の使用
甲骨文字は、殷(いん)代にもちいられた中国最古の文字資料で、占いにもちいた亀甲や獣骨にきざまれた。前11世紀半ばの殷の滅亡より二百数十年前には、すでに使用されていた。確認されている文字の数は約4000、うち解読されているのはおよそ1500。その内容は、ほとんど殷王にかかわる祭祀、軍事、天象、田猟、農事についての卜辞(ぼくじ)で、初期には自然祭祀の要素が強く、後期にいたって祖先祭祀の傾向が強まる。いずれも、同時代の社会や文化を理解し、解明するうえで重要な資料となっている。
前1336年頃
ツタンカーメンがアメン信仰に復す
古代エジプト第18王朝の王イクナートンは、それまでのエジプトの多神教を排し、世界に遍在する唯一の創造者である太陽神アテンへの信仰を確立した。しかし、義父イクナートンのあとをついだツタンカーメンは、アメンへの信仰を復活させ、首都をアマルナからアメンを守護神とする町テーベにもどした。ツタンカーメンは、黄金のマスクをかぶったミイラや豪華な副葬品がほぼ完全な状態でみつかったことでよく知られるようになった。
前1200年頃
原ケルト人が中部ヨーロッパに定住
前13世紀ごろ、原ケルト人(プロト・ケルト人)の青銅器文化といわれる火葬墓(ウルネンフェルト)文化が、現在のドイツやスイスにあたる中部ヨーロッパにあらわれる。移住してきた原ケルト人がこれらの地域に定住しはじめたことがわかる。原ケルト人とは、ケルト人の祖先といった意味だが、前12世紀初めごろにはフランス東部へも居住域を広げ、のちに初期鉄器時代のハルシュタット文化を開花させることとなる。
前1150年頃
ヨーロッパが鉄器時代に入る
世界で最初に鉄器時代に入ったとされる小アジアのヒッタイト帝国は、鉄の製法を秘密にしていたとされるが、前1200年ごろほろびると、その技術は急速に周辺地域に広まっていった。ヨーロッパでは、前12世紀にギリシャが鉄器時代に入り、前1000〜前700年ごろのイタリアのビラノーバ文化、前750〜前450年ごろの中・西部ヨーロッパのハルシュタット文化、前450〜前58年ごろのスイスのラ・テーヌ文化などに順次うけつがれ広まっていった。
前1050年頃 - 前256年
周王朝
殷(いん)の時代に西方の一大勢力となった周は、武王の時に現在の河南省にあった殷都の南、牧野(ぼくや)で殷の軍勢をうちやぶり、周王朝を開いた。武王は都を現在の西安付近の鎬(こう)におき(宗周)、次の成王が、東方を統治する必要から現在の洛陽の近くにもうひとつの都(成周)をきずいた。周時代は、王朝の樹立から前771年までを西周時代とよび、遷都の前770年以降を東周時代とよぶが、東周時代はほぼ春秋戦国時代と重なる。
前771年に、王朝の内紛に乗じて北方の犬戎(けんじゅう)が侵入し、宗周が陥落、西周時代は終わりをつげた。こののち、太子宜臼(ぎきゅう)が、成周にのがれて翌年、平王として即位、以後は東周時代となるが、王朝とは名ばかりで実際は一小国にすぎなくなり、春秋戦国時代をへて、前256年に秦(しん)にほろぼされた。
西周は、黄河中・下流城を支配したが、そのすべてが王の直轄地だったわけではなく、大部分の領土を王族や家臣にあたえて統治させた。諸侯は領土をあたえられたのと引き換えに、周王室に対しては忠誠をちかい、軍事行動にも参加した。こうしたことから、中国では、この時代を封建時代とよんでいる。
前800年頃
ギリシャでポリスが成立
平野にとぼしく複雑な海岸線をもつギリシャでは、前800年ごろに1000をこえるポリス(都市国家)が分立していた。各ポリスでは、守護神をまつるアクロポリス(城山)とアゴラ(広場)を公共空間とし、それを中心に人びとが集住した。当初は、王や貴族が軍事、政治を独占する貴族政治がおこなわれていた。ポリス間の戦争はたえずあったが、共通の言語、デルフォイの神託、オリュンピアの民族的祭典の挙行などで、みずからをヘレネスと呼ぶ同一民族としての意識を維持した。
前800年頃
ギリシャ文字の発達
ギリシャ人が、地中海東岸でつかわれていたフェニキア文字を借用し、独自の改良をくわえてギリシャ文字をつくりだした。フェニキア文字は22個の子音文字からなるが、ギリシャ人はその一部を母音の表記にもちい、前4世紀ころには24個の母音・子音文字からなる標準的なギリシャ・アルファベットを完成させた。また当初は、右から左へ書きすすめるフェニキア文字の書法にならっていたが、左右交互に往復する書法段階をへて、左から右への方向を定着させるとともに、字形も左右逆にかえた。
ギリシャ文字は地中海地域全体に広まったが、なかでもイタリアに移入されて形成されたラテン文字は、ヨーロッパでもっとも有力な文字体系となった。
前776年
第1回オリュンピア祭
古代ギリシャのオリュンピアは、ペロポネソス半島西部エリス地方のアルフェイオス河畔に位置していた。全ギリシャにゼウス信仰が広まると、ゼウス神殿所在地のオリュンピアでは4年に1度の祭典と競技がはじまった。記録上のもっとも古い開催は前776年である。競技が開催されている間は一切の戦いを中止したため、ポリス間の親和に貢献し、393年にローマ皇帝の命令で禁止されるまで、約1200年継続した。
前700年頃
東北北部で亀ヶ岡文化隆盛
縄文時代晩期、東北地方を中心に亀ヶ岡文化とよばれる高度に発達した文化がさかえた。とくに東北地方北部が一大中心地で、青森県八戸市の是川遺跡(これかわいせき)はもっとも代表的な遺跡として知られる。漆(うるし)をぬって彩色したさまざまな形の精巧な土器や豊富な木器、漆器などは、縄文時代の技術文化のひとつの到達点をしめすものである。遮光器土偶(しゃこうきどぐう)で有名な青森県木造町(きづくりまち)の亀ヶ岡遺跡は、江戸時代から土器片の出土する所として知られ、この文化の由来地となっている。
前712年頃 - 前332年
エジプト末期王朝時代(第25〜第31王朝)
この時代は、外部勢力とエジプト人の支配とがめまぐるしくいれかわり、最終的には、アレクサンドロス大王によるエジプト征服で幕を閉じる。まず、ナイル川上流(現スーダン北部)のヌビアの勢力がきずいた上エジプトの第25王朝(ナパタ王国)が、下エジプトの第24王朝をたおしてエジプトを再統一したが、アッシリア軍におされてエジプトから撤退した。第26王朝がそのアッシリア勢を駆逐してエジプト人による統一王朝をもたらしたが、アケメネス朝ペルシャが第26王朝をたおして第27王朝をたてた。ついで、第26王朝の末裔(まつえい)がペルシャの支配をうちやぶって第28王朝をたてたが、前341年に、ふたたびペルシャがエジプトを占領して第31王朝となった。前332年、アレクサンドロス大王がペルシャ勢を駆逐し、その後、大王の将軍がプトレマイオス王朝を開く。
前434年頃
釈迦の出家
現在のネパール・インド国境地域を支配していた釈迦(しゃか)族の王子シッダールタが、人生の内奥にひそむ苦の問題をきわめるため、妻と長男をのこして出家した。南へくだった彼は、2人の仙人を歴訪して禅定(ぜんじょう)をまなぶが満足できず、山林にこもって長くくるしい修行生活に入った。しかし、苦行が無益であることを知り、ボードガヤーの菩提樹(ぼだいじゅ)の下で瞑想(めいそう)にふけるなか、ついに悟りをひらき覚者(ブッダ)となった。その後、バラナシ郊外の鹿野苑(ろくやおん)で、かつて苦行をともにした5人の出家者に説法をおこない、最初の仏教教団が成立する。
前770年 - 前403年
春秋時代
西周がほろび、周が東遷して東周をたてた前770年から戦国時代にうつる前までを春秋時代とよぶ。この時代、周の権威はおち、各地の諸侯は自国の利益によって行動し、たがいに戦いをくりひろげた。黄河流域には百余りの国が乱立したが、その中で比較的大きな国は晋(のちに韓・魏・趙)・斉・秦・楚・燕・魯・衛・曹・宋・陳・蔡(さい)・鄭(てい)・呉・越であった。ただし、おちたとはいえ周王室の権威はまだのこっており、諸侯は周王に対して臣下の形式をとった。諸侯があつまって誓いをたてる会盟に際しては、周王室を異民族からまもることが重要な名目となっていた。
前712年頃 - 前332年
エジプト末期王朝時代(第25〜第31王朝)
この時代は、外部勢力とエジプト人の支配とがめまぐるしくいれかわり、最終的には、アレクサンドロス大王によるエジプト征服で幕を閉じる。まず、ナイル川上流(現スーダン北部)のヌビアの勢力がきずいた上エジプトの第25王朝(ナパタ王国)が、下エジプトの第24王朝をたおしてエジプトを再統一したが、アッシリア軍におされてエジプトから撤退した。第26王朝がそのアッシリア勢を駆逐してエジプト人による統一王朝をもたらしたが、アケメネス朝ペルシャが第26王朝をたおして第27王朝をたてた。ついで、第26王朝の末裔(まつえい)がペルシャの支配をうちやぶって第28王朝をたてたが、前341年に、ふたたびペルシャがエジプトを占領して第31王朝となった。前332年、アレクサンドロス大王がペルシャ勢を駆逐し、その後、大王の将軍がプトレマイオス王朝を開く。
前400年頃 - 後250年頃
弥生時代
縄文時代につづく弥生時代は水田稲作を中心とする農耕社会となり、稲作によって安定した食糧生産が可能となって、生産性も高まり富の蓄積と階級の分化がもたらされた。この時代は、朝鮮半島や中国大陸との交渉が活発化し、青銅器や鉄器、ガラスの輸入・製作などもはじまっている。縄文土器にくらべてうすくて機能的な弥生土器も生まれた。階級社会になったことで、ムラやクニを統率する卓越した首長層があらわれて各地で勢力争いがおき、やがてそれらが統合されて邪馬台国に代表される国ができていく。そして畿内を中心とする大和政権の時代すなわち古墳時代へと移行していくのである。
前400年頃
中国で鉄製農具使用
春秋戦国時代にチャン江(長江)中流域に権勢をほこった楚(そ)は、鉱山資源にめぐまれていたため、はやくから青銅製の農工具を使用していたが、春秋時代から戦国時代にうつる前400年ごろには、鉄製の農工具が武器とならんで製作された。以後、諸侯は、富国強兵のためにきそって鉄製農具をとりいれ、それと牛耕農法とがあいまって、生産力は急速に高まった。
前400年頃
稲作が九州北部に定着
縄文時代晩期、九州北部に中国大陸から効率的な水田稲作技術がつたわり、まもなく本格的な稲作が行われるようになった。そして前3世紀ごろになると西日本一帯で水田開発が急速にすすむ。この新しい稲作文化は前2世紀後半までに東北地方まで広まったと考えられ、弘前市の砂沢遺跡では弥生時代前期とされる本州最北端の水田跡が発掘されている。なお近年、全国各地の縄文時代の遺跡からイネの痕跡(こんせき)をしめす炭化米やプラントオパールが発見されており、陸稲などイネ科植物の渡来の時期はさらにはやまる可能性が指摘され、農耕の起源についても議論がつづいている。
前332年
エジプト、アレクサンドリアの建設
アレクサンドロス大王の遠征軍がエジプトからアケメネス朝ペルシャをおいはらい、エジプト人から解放者としてむかえられた大王は、地中海に面してアレクサンドリアの町を建設した。大王の死後、その将軍によってたてられたプトレマイオス朝は、この港市に首都をおき、沖のファロス島に134mの高さがあったといわれる灯台をきずいた(「世界七不思議」のひとつ)。また、ムセイオン(学術研究所)には図書館がつくられて、おびただしい数のパピルス文書があつめられ、ユークリッドやアルキメデスらが活躍して、アレクサンドリアは古代世界の学術、文化、科学の中心地となった。
前712年頃 - 前332年
エジプト末期王朝時代(第25〜第31王朝)
この時代は、外部勢力とエジプト人の支配とがめまぐるしくいれかわり、最終的には、アレクサンドロス大王によるエジプト征服で幕を閉じる。まず、ナイル川上流(現スーダン北部)のヌビアの勢力がきずいた上エジプトの第25王朝(ナパタ王国)が、下エジプトの第24王朝をたおしてエジプトを再統一したが、アッシリア軍におされてエジプトから撤退した。第26王朝がそのアッシリア勢を駆逐してエジプト人による統一王朝をもたらしたが、アケメネス朝ペルシャが第26王朝をたおして第27王朝をたてた。ついで、第26王朝の末裔(まつえい)がペルシャの支配をうちやぶって第28王朝をたてたが、前341年に、ふたたびペルシャがエジプトを占領して第31王朝となった。前332年、アレクサンドロス大王がペルシャ勢を駆逐し、その後、大王の将軍がプトレマイオス王朝を開く。
前420年頃 - 前323年頃
ギリシャ哲学の古典期
タレスにはじまったとされるギリシャ哲学は、前5世紀半ばから前4世紀後半に最盛期をむかえた。この時代をになったのは、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの3巨人であり、活動の拠点となったのは、壊滅への道をたどるアテネだった。プラトンはソクラテスに学び、アリストテレスはプラトンの学園でまなんだ。彼らはそれぞれの師を最後まで尊敬しつづけたが、師とはまたことなる体系をきずいた。
それまでの時代を「ソクラテス以前」というように、ソクラテスは哲学の主題を自然の問題から人間の問題へ、外的世界の説明から内的世界の探求へと劇的に転換させた。彼にとって何よりも大切なのは、よく生きること、魂をよいものにするために真の知をもとめることだった。プラトンはこの知の対象となり理想となるものをイデアとよび、現象界をこえた永遠の本質ととらえた。現実の事物はイデアの仮象であり、肉体や事物に宿る魂はイデアという模範を希求する。だがアリストテレスは、師のイデア論をくりかえし批判し、現象をこえた世界より現象を重視する思想を展開するようになった。この世ならぬところにあったイデアは、「形相」という名によって個々の現実の中にひきもどされるのである。
前1050年頃 - 前256年
周王朝
殷(いん)の時代に西方の一大勢力となった周は、武王の時に現在の河南省にあった殷都の南、牧野(ぼくや)で殷の軍勢をうちやぶり、周王朝を開いた。武王は都を現在の西安付近の鎬(こう)におき(宗周)、次の成王が、東方を統治する必要から現在の洛陽の近くにもうひとつの都(成周)をきずいた。周時代は、王朝の樹立から前771年までを西周時代とよび、遷都の前770年以降を東周時代とよぶが、東周時代はほぼ春秋戦国時代と重なる。
前771年に、王朝の内紛に乗じて北方の犬戎(けんじゅう)が侵入し、宗周が陥落、西周時代は終わりをつげた。こののち、太子宜臼(ぎきゅう)が、成周にのがれて翌年、平王として即位、以後は東周時代となるが、王朝とは名ばかりで実際は一小国にすぎなくなり、春秋戦国時代をへて、前256年に秦(しん)にほろぼされた。
前221年 - 前207年
万里の長城の補修・延長
北方騎馬民族の侵入・略奪をふせぐために、中国の歴代王朝は、万里の長城の維持につとめた。その原型は戦国時代につくられたが、当時は隣国の侵入をふせぐためにお互いの国境にきずかれたものも多く、北方民族の侵入をふせぐ目的にかぎられてはいなかった。前221年に中国を統一した秦(しん)の始皇帝は、それらの長城を補修・延長して、現在のカンスー省(甘粛省)からリャオニン省(遼寧省)におよぶものとし、今日につづく万里の長城の基礎をつくった。
前403年 - 前221年
戦国時代(中国)
中国、春秋時代の大国だった晋(しん)が3つの国(韓・魏・趙)に分裂した前403年以降、秦(しん)による中国統一までを戦国時代とよぶ。春秋時代には名目的ではあれ、周王室の権威がのこっていたが、戦国時代にはまったくうしなわれた。小国は次々と大国に併合され、かちのこった戦国の七雄(魏、趙、韓、斉、燕、楚、秦)は、より大きな野心をもって領土争奪の戦いをくりひろげた。その中で、富国強兵策に成功した秦が強国に成長し、政(せい:のちの始皇帝)の時代に次々と他国をほろぼし、前221年に中国を統一して戦国時代は終焉(しゅうえん)した。
戦国時代は、家柄と儀礼によって機能していた西周時代以来の社会システムが完全に崩壊した。実力主義にもとづく下剋上(げこくじょう)は当たり前となり、君主は、富国強兵や外交交渉に必要な人材を家柄に関係なく才人にもとめた。諸子百家はそうした背景で生まれたものだった。また、諸侯が富国強兵策につとめた結果、産業が発展し、とくに農業では鉄製農具がつかわれはじめ、牛耕農法とあいまって、生産力が急速に高まった。交換経済が発達して、各国はさまざまな貨幣を発行するようになった。
前200年頃
日本列島で青銅器使用本格化
銅とスズの合金でつくられた青銅器は弥生時代前期初めごろに朝鮮半島から北九州にもたらされ、前200年以降に朝鮮半島製武器類や銅鏡が本格的に使用されるようになる。鉄器にくらべ青銅器は利器・工具としてはおとるため、主として権力者の権威の象徴となったり、祭祀(さいし)用具にもちいられている。銅剣、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)などは弥生時代中期に国産化がすすみ、のち儀式用に大型化する。近畿地方で前期末からつくられはじめた銅鐸(どうたく)など日本独自の器種もさまざまなものが生まれた。なお青銅器の鋳型(いがた)が各地で発見され、もっとも古いものは前3世紀後半とされるヤリガンナの刃部をつくった鋳型である。
前141年 - 前87年
武帝が漢帝国を拡大
前漢の第7代皇帝武帝は、16歳で即位してから、54年間にわたって漢帝国を統治し、前漢王朝の絶頂期をきずいた。前漢王朝は匈奴(きょうど)の侵入になやまされてきたが、武帝は武力行使によって彼らをゴビ砂漠のかなたへとおいやった。さらに朝鮮半島や現在のベトナムなど周辺地域に遠征軍をおくって帝国の領土を拡大した。国内では大規模な土木工事をおこなって農業・流通機構の基盤強化につとめた。しかし、こうした積極的な政策によって朝廷の財産は底をつき、国家財政は危機的状況におちいった。輝かしい業績にいろどられた武帝の生涯ではあったが、晩年は各地の農民反乱と朝廷の内紛になやまされ、帝国崩壊の足音が聞こえはじめていた。
前136年
漢の武帝、儒教を国教化
前漢の第7代皇帝武帝が、儒学者董仲舒(とうちゅうじょ)の建議により、太学(たいがく)に五経博士をおいた。これによって儒教は、国家教学としての位置を確立した。当時すでに、「易経」「詩経」「書経」「礼記」「春秋」の五経が、直接的に先王の道をしめすものとして「論語」以上に尊ばれていたが、五経博士の制度化は、これらの経書を研究する訓詁学(くんこがく)を発達させた。また、官僚への道をあゆむには、五経の教養が必要とされるようになった。以後、清代までの大半の王朝は、儒教を国家運営の中心思想におくようになる。
前108年
朝鮮半島に楽浪郡など4郡を設置
朝鮮半島北部を支配下においた漢(前漢)は、前108年に楽浪(らくろう)、真番(しんばん)、臨屯(りんとん)、玄兎(げんと)の4郡を設置した。郡の下に県をおいて朝鮮半島を直接支配したが、高句麗など朝鮮諸族の台頭におされ、前75年には楽浪郡をのこして他は廃止された。2世紀〜3世紀初めには帯方郡(たいほうぐん)も設置されたが、313年に楽浪郡、帯方郡とも高句麗(こうくり)にほろぼされた。
前202年 - 後8年
漢(前漢)王朝
劉邦(高祖)によって開かれた漢(前漢)王朝は、長安を都としてさかえた。第6代景帝は前154年に呉楚七国の乱を鎮圧し、集権体制をととのえた。第7代武帝の時代に漢は最盛期をむかえ、シルクロードを通じた西域との交流も活発であった。しかしたびかさなる辺境への軍の派遣は国家財政の破綻(はたん)をまねき、外戚(がいせき)や宦官(かんがん)の政治介入は王朝の衰退をもたらした。
近年、前漢時代の多くの遺跡が発掘され、その時代の美術や科学技術を今につたえている。河北省の満城漢墓(まんじょうかんぼ)、湖南省の馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)などが有名である。とくに馬王堆漢墓は、前2世紀の衣服、木製品、竹簡(ちくかん)などがのこっており、世界的に貴重な歴史資料となっている。
前100年頃
大乗仏教の登場
出家者を中心とする部派仏教に対し、在家信者の立場を重視する大乗仏教運動が前1世紀ころからはじまった。運動の背景には、ストゥーパ(仏塔)を拠点とする在家信者の活発な運動や、釈迦をたたえる文学の興隆などがあった。既存仏教が自己の悟りを理想とするのに対し、大乗仏教は出家・在家を問わず、すべての者が釈迦と同じ悟りに到達できること、宇宙に遍在する諸仏によって救済されることを説いた。
かつて仏陀といえば、釈迦その人をさしたが、大乗仏教は人的仏陀より悟りの内容を重視することによって、無数の仏を想定した。同様に菩薩も、悟りをめざす修行者一般をさすようになり、有力な菩薩が仏の慈悲を代行するものとして崇拝された。大乗の思想は、部派の教義をまなんだ出家者によって、おびただしい経典群にもりこまれていく。
前91年
司馬遷「史記」
漢の武帝につかえた司馬遷は、父の仕事をうけついで、「史記」をあらわした。中国各地をまわって見聞をひろめ、迷信ではなく現実の生活を記述した。伝説上の人物である黄帝から前漢の武帝まで約2000年の歴史をあつかい、中国の正史の最初にかぞえられる。権力におもねることなく自由に叙述され、科学的であるだけでなく文学的な価値も高い。
前60年 - 前53年
カエサルらによる第1次三頭政治
ローマが共和政から帝政へとかわる過渡期に、実力をそなえたカエサル、ポンペイウス、クラッススが、権威をもつ元老院に対抗してうちたてた政治形態を三頭政治(第1次)とよぶ。前60年に結成され、前53年には崩壊して、ローマは内戦状態に突入するが、三頭政治はカエサル暗殺後のオクタウィアヌスらによる第2次とあわせ、移行期ローマの政治を象徴していた。
前331年頃 - 前30年頃
ヘレニズム時代
アレクサンドロス大王がペルシャを征服してから、ローマがプトレマイオス王国を征服するまでの約300年間をヘレニズム時代とよんでいる。時代の上限については、アレクサンドロスの東征開始(前334)や王の没年(前323)などにおく説もある。政治史的には、アレクサンドロスの後継者がつくったプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアの3王国がしのぎをけずり、それらがやがて新興国ローマに蚕食されていく過程に相当する。文化の中心は、たそがれのアテネからムセイオンと大図書館を擁するアレクサンドリアへと移動し、「旧約聖書」もこの町で共通ギリシャ語のコイネーに訳された。いわゆる「七十人訳」である。
自然科学の分野が大きく発展する一方、ポリスの崩壊を背景に、個我の確立をもとめる個人主義的傾向や世界市民主義(コスモポリタニズム)の思想が生まれた。これらの動きを代表するのが、エピクロス学派とストア学派である。ギリシャ文化とオリエント文化の混交も各地ですすみ、イシス信仰やミトラス信仰が流行するなど、宗教のシンクレティズムが顕著なものとなった。
前54年
匈奴が東西に分裂
漢の武帝に攻撃された匈奴(きょうど)は、前119年に内モンゴルから撤退した。前54年には東西に分裂し、東匈奴は漢の支配下に入り、西匈奴は漢にほろぼされた。後48年に今度は南北2つにわかれ、北匈奴は後漢の攻撃から西へとのがれた。匈奴のこの西進は、中央アジアを舞台とする民族大移動の原因をつくった。南匈奴は五胡十六国時代に前趙(ぜんちょう)などをたてたが、中国化がすすみ、民族としてのまとまりをうしなっていった。
前50年頃
倭(日本)各地に小国
中国前漢王朝の正史「漢書(かんじょ)」地理志によると、前1世紀ごろの倭(日本)は、100余りの小国(クニ)にわかれ、一部は前漢が支配する朝鮮半島の楽浪郡(らくろうぐん)に定期的に使いを出していたという。このころ、倭では農耕社会の発展によって政治的社会が形成され、各地に小国が生まれていたようすがわかる。
前51年
クレオパトラがエジプトの王に
エジプト王プトレマイオス12世のあとをついで、娘のクレオパトラ7世が弟とともに王の座についた。3年後、弟に追放されたクレオパトラはローマのカエサルの支持をえて内紛に勝利し、前47年、王に復活した。カエサルが暗殺されると、今度はアントニウスが庇護者(ひごしゃ)となったが、前31年、オクタウィアヌス(のちのローマ初代皇帝アウグストゥス)が、クレオパトラとアントニウス連合軍をアクティウムの海戦でやぶり、翌年クレオパトラは自殺した。カエサルやアントニウスとの間にもうけた子供たちも殺害され、プトレマイオス朝は断絶、エジプトはローマの属州となった。
前50年頃
高句麗の台頭
鴨緑江支流域の桓仁(かんじん)におこった高句麗(こうくり)は、前1世紀中ごろ漢の朝鮮支配のひとつ玄菟郡(げんとぐん)を攻撃し、徐々に勢力を広げていった。後204年に国内城(現、集安)を都とし、後漢のあとをついだ魏(ぎ)や燕(えん)との抗争をへて、4世紀後半から5世紀にかけての広開土王、長寿王の時代には、中国東北部から朝鮮半島北部にまたがる支配をうちたてた。その後も栄枯盛衰をくりかえしながら、668年に、唐と新羅の連合軍にほろぼされるまで存続した。
前46年
ユリウス暦(太陽暦)の採用
古代ローマの軍人・政治家のユリウス・カエサルがエジプトを征服したときに、エジプトでもちいられていた太陽暦をまなび、ローマ帝国の暦として採用した。当時採用されていたローマ暦は12太陰月355日をもとにしたもので、実際の季節と大きくずれが生じていた。そのためカエサルがエジプト(アレクサンドリア)の天文学者ソシゲネスにつくらせたのがユリウス暦で、平年を365日とし、4年ごとに366日の閏年(うるうどし)を設けることがきめられていた。
前509年 - 前31年
共和政ローマ
ローマの貴族達が、暴君と化したエトルリア人の王タルクイニウス・スペルブスを追放してローマ王政時代は幕を閉じた。共和政に入った初期は、執政官(コンスル)をはじめとする官職を貴族が独占していたが、国防の中心が平民出身の重装歩兵にうつるにしたがって平民の参政権要求は強まり、前494年の護民官の制度をはじめとして、徐々に平民の権利は拡大していった。一方、対外的には、イタリア半島全体の支配から、カルタゴとのポエニ戦争に勝利して地中海全域を制覇、小アジアなど東方にも多くの属州を獲得した。
しかし急速な領土拡大は、元老院で伝統的貴族とともに政権をになう富裕な平民(ノビレス)と、没落した中小農民(プレブス)の分離をまねき、大土地所有の進展はこれをいっそう加速した。自作農を再建しようとしたグラックス兄弟の改革は挫折し(前121)、以後、ローマは約100年にわたり名門出の閥族(ばつぞく)派と平民派の争う内乱状態におちいった。その中で平民派からカエサルが登場し、三頭政治をへてやがてローマは帝政時代をむかえる。
前27年 - 後395年
帝政ローマ
アウグストゥス以後、五賢帝の時代がおわるころまでのローマ帝国は、約200年間の「ローマの平和」とよばれる最盛期を謳歌した。領土はトラヤヌス帝のとき最大となり、帝国内にはロンディニウム(ロンドン)、ルテティア(パリ)をはじめ、多くのローマ風都市がつくられた。しかし2世紀末にはゴート族、ゲルマン諸族が定住をもとめて南下し、帝国内の政治がみだれはじめた。3世紀には各地の軍が勝手に皇帝を立ててあらそうようになった(軍人皇帝の時代)。3世紀末のディオクレティアヌス帝は、帝国を正帝2人、副帝2人に4分割して支配の安定をはかったが、地方的な独立性はますます強まり、395年のテオドシウス帝の死によって帝国は東西に分裂した。
前4年頃 - 後29年頃
イエス・キリスト
ナザレの大工ヨセフとマリアのあいだに生まれたイエスは、30歳のころ、ヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼をうけることによって、人生の転機をむかえた。当時の宗教的エリートは、律法を厳守する人のみが「神の国」に入りうると信じていたが、ヨハネは「地の民」、すなわち律法をまもらない人やまもれない人に対しても「神の国」への道をひらこうとした。イエスはこの運動をひきつぎ、やがて師とはことなる道をあゆんでいくのである。
ヨハネが荒野にいる自分のもとへ人々をあつめ、世俗からはなれた生活をもとめたのに対し、イエスはガリラヤの町や村にいる人々のもとへあゆみより、弱者の位置にたちつづけた。もはや洗礼もおこなわず、断食をすすめることさえなかった。ヨハネがやがておとずれると説いた「神の国」は、イエスによって、すでにこの世に実現されつつあると宣言された。こうした行動は、政治的・宗教的指導者の反感を大いに買うことになった。イエスが12人の弟子とともにエルサレムに入り、神殿の権威をはげしく批判したとき、ユダヤの指導者は彼をとらえ、反乱者としてローマ当局にひきわたした。当局はこれをうけいれ、十字架刑という逆賊者をあつかう方法によって処刑した。彼の宣教活動は、わずか1年あまりでおわった。
原始キリスト教はイエスの死後、なすすべもなく途方にくれていた弟子たちが「復活」を幻視することによってはじまる。やがてイエスは、救済者すなわち「キリスト」の名でよばれることになる。
前202年 - 後8年
漢(前漢)王朝
劉邦(高祖)によって開かれた漢(前漢)王朝は、長安を都としてさかえた。第6代景帝は前154年に呉楚七国の乱を鎮圧し、集権体制をととのえた。第7代武帝の時代に漢は最盛期をむかえ、シルクロードを通じた西域との交流も活発であった。しかしたびかさなる辺境への軍の派遣は国家財政の破綻(はたん)をまねき、外戚(がいせき)や宦官(かんがん)の政治介入は王朝の衰退をもたらした。
近年、前漢時代の多くの遺跡が発掘され、その時代の美術や科学技術を今につたえている。河北省の満城漢墓(まんじょうかんぼ)、湖南省の馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)などが有名である。とくに馬王堆漢墓は、前2世紀の衣服、木製品、竹簡(ちくかん)などがのこっており、世界的に貴重な歴史資料となっている。
8年 - 23年
「新」王朝
中国、漢(前漢)の外戚だった王莽(おうもう)が、クーデタをおこして「新」王朝を建てたが、わずか15年でほろびた。簒奪(さんだつ)に成功し皇帝となった王莽は、周代の政治制度を理想とし、矢継ぎ早に改革を実施した。しかしそれは当時の社会状況にはあわず、各地で農民反乱が頻発して全土は大混乱となった。その中で王莽と「新」王朝は各地の豪族からなる反乱軍にせめほろぼされた。
25年 - 220年
漢(後漢)王朝
光武帝が復興した漢(後漢)は、洛陽を都とし、前漢の諸制度をほぼそのまま継承した。2代明帝、3代章帝にかけて最盛期をむかえたが、4代和帝の治世から、ふたたび外戚(がいせき)や宦官(かんがん)たちが国政に介入するようになり、清流官僚は、166年と169年の党錮の禁によって粛清された。184年の黄巾の乱による混乱をへて、220年に漢は滅亡、再び群雄割拠の時代となる。
漢代は、各地で独自に発達した文化が統合され、それまでの伝承や記録を総括する内容の書物が数多く編集された。「史記」はすでに前漢の時代に完成していたが、後漢になってからも、漢代以前の漢字の意味を解説した「説文解字(せつもんかいじ)」、最初の百科事典ともいえる「淮南子(えなんじ)」、最初の図書目録とされる「七略」などがつくられた。また、前漢の歴史を儒教主義に徹してつづった「漢書」も出版された。
50年頃
吉野ヶ里遺跡に大環濠集落
佐賀県の筑紫平野中央部で、弥生時代の日本最大級の環濠集落といわれる吉野ヶ里遺跡が最盛期をむかえた。この環濠集落は弥生時代前期の前3世紀ごろにはじまり、1世紀ごろには約40haもある大環濠集落へと発展した。復元高が約12mとされる物見櫓(ものみやぐら)や高床式倉庫の跡などが発見され、支配階層の墓と考えられる墳丘墓も発掘されている。墳丘墓内には特殊な飾りをつけた銅剣や薄絹(うすぎぬ)、細形(ほそがた)銅剣などを副葬(ふくそう)した甕棺(かめかん)がうめられていた。また、一般の甕棺群からは頭骸骨のない遺体や戦傷をうけたと思われる遺体が発見され、これは「魏志倭人伝」や「後漢書(ごかんじょ)」東夷伝に記載された、2世紀後半ごろの「倭国の乱れ(大乱)」に関係するものとみられている。
50年頃 - 100年頃
倭(日本)に漢字が伝わる
このころ中国大陸から倭(日本)に漢字がつたえられたと考えられているが、断片的なものだったのか、すでに漢字を理解しつかえる人がいたのかなど、その内容は不明である。どちらにしても、漢字伝来前の日本列島に文字はなく、漢字は倭とよばれていた日本が中国と外交交渉をするなかでもたらされたか、朝鮮半島からの渡来人がつたえたらしい。漢字が表記された最も古いものには、江戸時代に北九州の志賀島(しかのしま)で発見された紀元後57年の委奴国王印(わのなのこくおういん)がある。また奈良県天理市の東大寺山古墳出土の大刀(たち)の銘文は184年ごろのもので、古墳出土の3世紀の銅鏡にも紀年銘などが鋳込まれている。4世紀後半に百済から倭王に贈られたといわれる七支刀は、石上神宮(いそのかみじんぐう。天理市)につたわる特殊な刀だが、朝鮮半島、中国大陸と日本の通交をしめす漢字が象嵌(ぞうがん)されている。しかし、漢字の普及はかなり後のことで、役人が日常的な仕事に漢字使うようになるのは、飛鳥(あすか)、奈良時代になってからであった。
50年頃 - 700年頃
メソアメリカにテオティワカン栄える
テオティワカンは、メキシコ盆地に繁栄したメソアメリカ史上最大の都市で、最盛期の500年ころ人口は12万5000人をこえていた。テオティワカン文化はメキシコ南部のオアハカやマヤ地方、メキシコ湾岸地域にまで影響をおよぼした。中心神殿「太陽のピラミッド」はエジプトのピラミッドにも匹敵する規模をもち、交易網は南太平洋岸のグアテマラにまで広がっていた。
50年頃 - 150年頃
新約聖書の成立
「旧約聖書」との対比から「新約」(新しい契約)とよばれるようになる27の文書が、50〜150年ころに執筆された。いずれも、ヘレニズム時代の共通語であるコイネー(ギリシャ語)によって書かれている。このうち、もっとも古い文書はパウロの書簡群である。4つの福音書の中でははじめに「マルコによる福音書」が書かれ、「マタイ」と「ルカ」に記述の枠組みをあたえた。これら3つの福音書は共通する記事も多いことから共観福音書とよばれるが、最後に執筆された「ヨハネによる福音書」には独特の内容がもりこまれている。
27の文書は、同時代にあらわれたキリスト教文書の一部分にすぎない。150年ころ、グノーシス主義者のマルキオンがその中から独自の正典をつくったが、これに対する反発が正典確定の動きを推進したと考えられている。「新約聖書」が現在のかたちに決定するのは、397年のカルタゴ会議においてである。
592年 - 710年
飛鳥時代
592年の推古天皇の即位から、710年に平城京に都をうつすまで、おおむね大王(おおきみ。7世紀後半以降は天皇)の宮都が飛鳥の地にあった約117年をさす。なお645年の大化の改新や天智天皇のころ以降を白鳳時代(はくほうじだい)とよぶ文化史の呼び方もある。政治的には氏姓制度(しせいせいど)と部民(べみん)支配から律令制へとうつりかわる時期にあたり、大王(天皇)中心の国づくりがおこなわれた。文化的には中国の隋、唐王朝への遣隋使、遣唐使派遣によって大陸文化を導入し、国際的な地位の確立もはかっている。またこの時代は古墳文化から仏教文化への転換期でもあった。