木柱列の不思議 |
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「日本冒険」上(梅原 猛)
柱・一柱、二柱、日本式・神と霊の数え方
日本語にはよくわからない言葉がある。日本語は西洋と違って、“もの”を数える時、その数え方がものによって変わる。例えば、獣なら一匹二匹、鳥なら一羽二羽、船なら一艘二艘という具合である。この数え方がどれだけ中国の影響を受けたかは良く分らないが、間違いなく日本土着の数え方というものがある。それは一柱二柱という数え方、これは神様を数えるのに用いられる。
真脇遺跡――巨大木柱痕とイルカの骨
何故神や人の霊を数えるのに、一柱二柱というのであろう。この疑問に答えることは容易ではない。柱のことを考えるとき、私は真脇遺跡のことを思い出される。真脇は能登半島の先端にある。私は以前から、日本の文化を「縄魂弥才」という言葉で考えていた。それは、日本文化の根底に縄文文化、即ちこの日本列島で高度に発展した狩猟採集文化があり、そこに弥生文化即ち農耕文化が加わったと言う見方である。この狩猟採集文化と農耕文化はどこの国でも混在している。例えば、中国では、道教はこの狩猟採集文化を、儒教では農耕文化の色彩がやや濃いのである。“文化”はこのように二つの文化の姿が見られるが、特に日本に於いて狩猟採集文化の影響が農耕に認められる。日本文化は、そのような縄文=狩猟採集文化、弥生=農耕文化の混合と考えられ、宗教や習俗などの精神に関する部分に於いては縄文文化の影響が強いが、知識とか技術に関する部分においては弥生文化の影響が強いと言うのが私の考えである。もしそのように「縄魂」、つまり、宗教観において縄文文化の影響が強いすれば、縄文時代の宗教とは一体どのようなものであったかと、何年も考え続けた。既に、「弥才」の方は、登呂遺跡に於いて典型的な弥生時代の農村が見つかり、その生活が明らかになった。典型的な「縄魂」の遺跡が見つかった。それが真脇遺跡である。
昭和57年、真脇遺跡から多くの興味深いものが発見された。“ウッドサークル”である。円形に並べられた柱の群れと、おびただしいイルカの骨と、能面によく似た土面と、トーテムポールに似た木の柱である。真脇遺跡は縄文前期から縄文晩期末まで、およそ4千年間の複合遺跡である。特に巨大な柱痕の群れは人々を驚かせた。ウッドサークルというべき奇妙な柱の遺跡は、既にそれより2年前、石川県のチカモリ遺跡でも発見されていた。さらに其れより前、新潟県青海町寺地遺跡でも発見されている。この二つの遺跡でもやはり、樹木が半円形に割られ、サークル状に並べられていた。そして又これらの遺跡には、ウッドサークル状のものが何度も作り変えられていた跡があり、柱穴は無数に交錯していた。これらの木柱痕の材は、真脇、チカモリはクリの木、寺地遺跡はクリもあったが、スギが多かったという。
天の御柱――天上から地上へ、地から天へ
真脇遺跡の発見は、私は諏訪の御柱祭を思い出させた。御柱祭の最大のショウは二つであると思う。一つは、「木落とし」、一つは、「建御柱」である。「木落とし」というのは山の斜面から御柱を落とすのであるが、裸の木に人が馬乗りになり、身体を支える何も無い状態で、急斜面を下りるのである。御柱に乗る男たちはその行方も知れぬ柱に必死でつかまり、振り落とされ、又乗ってと危険を繰り返すのである。最後まで御柱に乗っているものが英雄となるが、下敷きで死者も出る。むしろ死者が出ることが祭りを盛り上げ、神はそれを喜び給うているとこの土地の人は思っているかのようである。御柱は山を越え、川を越え、おのおのの宮に運ばれる。御柱の先端を三角錐に削り、あらかじめ掘っておいた穴に御柱を建てる。御柱に幾本ものロープを巻きつけ、それを人の力で引っ張ることによって御柱は立ち上がる。この柱の建て方は最も古い建築方法で、巨大な柱は男のシンボルのようにも見える。其れが徐々に立ち、最後に見事に直立する姿に、人々は強い性の力即ちありがたい生産の力を見たに違いない。御柱祭の行なわれるこの諏訪地方は縄文文化の中心地である。縄文中期において、この地方は日本最高の文化を誇っていた。岡本太朗氏が絶賛した縄文中期の土器は主に、この諏訪地方より出土したものであった。この諏訪神社には独特の奇妙な祭りが残存する。鹿のくびを切る祭り、冬眠している蛙を殺す祭りなど、いずれも狩猟採集文化と関係があり、かつてこの地に栄えた縄文文化の名残をとどめるものであろう。
天照大神と柱の連想から、伊勢神宮の「心御柱」へと想像が飛ぶ。伊勢神宮の20年ごとの御正殿を造営する行事、式年遷宮はまずこの「心御柱」の奉建から始まる。心御柱、別名を「忌柱」(いむはしら)と呼ぶように、この柱は、見ることも触れることも、語ることも許されない聖なる御柱である。何故、伊勢神宮は心御柱を建てることから式年遷宮がはじまるか。そして何故秋に行なわれるのか。恐らくこの心御柱の儀式は、神社建築よりもっと古い神事を示しているに違いない。元々日本の神は、神社におとなしく籠もりたもうというものではなかった。従って、神社を造って一つの家に神を閉じ込めるという遭い遭おうはもともと日本には無かった。仏教が入ってきて寺院がつくられ、その荘厳な寺院建築に影響され、それに対抗するために神社建築は始まったのである。
この神社崇拝の前に何があったのか。私はそこに柱崇拝があったと思う。柱建ての儀式が神社建築のはるか前に存在していたことを、諏訪の御柱祭りや伊勢の心御柱は示している。そして真脇のウッドサークルは恐らく柱建ての神事が縄文時代にまで遡ることを教えてくれる。また真脇遺跡ばかりでなく、チカモリ遺跡や寺地遺跡において交錯する無数のウッドサークルが出てきたことは、7年に一度の御柱祭りや20年に一度の御遷宮とともにここに一つの思想が語られていることを示す。それは死・再生の思想である。すべての生きとし生けるものは必ず死す。しかし死はまたやがて生となる。死者はまた、いつかこの世に再生する。柱は恐らく、人間の霊が天へ行き、神が天から降りるところである。しかし、その柱も永久ではない。柱は必ず腐る。この柱にこの柱にクリの樹が使ってあるのも大きな意味がある。クリは最も腐り難い樹である。神の柱が腐ったら大変である。神の柱が腐らないうちに立て替えねばならぬ。こうして神の柱は何年に一回か建て直される。そしてその思想が、御柱祭にも御遷宮にも残っている。
日本の森――樹木の大いなる力
地上にはかつて至る所に森があった。そして人間は森と共に生きてきた。森と共に生きたのは人間ばかりではない。獣も、魚も、鳥も、全ての命が森の中で生きてきた。彼等は人間の友であり、人間はその命を貰った生きてきたのである。ところが、この生命の源とも言うべき森が大量に破壊される時が来る。森は焼かれ、そこに穀物が植えられた。それが文明の第一歩である。農耕による生産が発展するに従って森は破壊された。地球全体を覆っていた森は切り取られ、そこに住んでいた生物は大量に殺害されていったのである。紀元前8千年頃に起こったという農耕牧畜文明は、それまで狩猟採集文明の人間が考えられない豊かな富をもたらしたが、其れと共に実に大量の自然破壊を行なったのである。そうしてこのような自然征服即ち自然破壊を、それ以来人類は文明の進歩と考えたのである。
日本は、幸か不幸かそのような農耕文明の恩恵に浴することが遅かったのである。紀元前3世紀頃、弥生時代の到来と共にそういう文明の波が日本にも押し寄せた。弥生時代になると、それまで鬱蒼と樹に囲まれていた平地の森がいっせいに切り取られ、そこに農耕地がつくられたのであろう。恐らく紀元を挟んで、それ以前の300年、それ以後の300年、計600年間の弥生時代という時代において、農業生産のために大規模な自然破壊が行なわれたのではないかと思う。そして、古墳時代から律令時代に入り、今度は巨大な建築物を作るために、日本の山に聳え立っていた巨大な樹木たちもどんどん切り取られていったのであろう。(抜粋)
「縄文時代に物差しはあったか」(「縄文再発見」藤田 富士夫)
豊かな縄文文化・協同作業が物差しを必要とした
日本で初めて大形住居跡が発見された富山県朝日町の不動堂遺跡の第二号住居跡と青森市の近野遺跡の第八号住居跡の大形住居跡が正しい柱穴配置を持ち、その間隔が35cmを単位とする10倍数や8倍数できれいに割り切れることが報告された。これらの建築には、35cmを基本単位とする類物差しが用いられていると推測できる。
縄文の基本尺は、どのような理由で発生したのであるか。建築家の若林氏は、中国西南部や東南アジヤの村々で、大勢の村人が作業を分担し、完成へ導くために統一的な尺度を用いていることを報告している。それによれば、その尺度として、家の家長の人体尺即ち、「尋」(ひろ=両手を左右に伸ばした時の長さ)、「肘」(ちゆう=中指の先端からひじまでの長さ)、「咫」(あた=親指と中指を広げた長さ)などで作った物差しが使われる。大勢の協同作業のときに物差しは威力を発揮するらしい。つまり、縄文の物差しは協同作業をする場合の道具とした可能性があると考えられる。物差しを使って作られた建物は構造上も強くなり、特に大形住居跡が分布する東日本の多雪地でも耐える重厚な造りとなったであろうことは想像できる。少なくとも福井県(永平寺町鳴鹿手島遺跡)から北海道(千歳市美沢遺跡)までの縄文前期後葉〜晩期の遺跡で、共通して35cmの基本尺が用いられているようです。このことから、縄文社会の規範としての統一的な長さの単位であった可能性があると考えられる。類物差しの使用は、縄文人が数を数え、色々な物や現象を数量で表現する知識を持っていたことを示す。そでに単位をつけるだけで、遠く離れた相手に物の大きさや現象を正確に伝えることが出来る。家づくりを想定すれば、別々の場所で木を切ったとしても揃った長さになり、両端から大勢の人々が作り始めても、ちゃんと真ん中で組み合うことが出来る。効率的な分業も出来る。類物差しを持った縄文人は長さ・質量・時間といった計測の基本となる三つを知り、高い知能を持っていたのではないだろうか。長さの単位を熟知する縄文人を、感覚的に現代人に近い存在のように思えてくるのである。