チカモリ遺跡

チカモリ遺跡

 関心度@  10本の丸太が縦割りにされた断面を外側に直径10mの正円を描いて並んでいる。根部には直径45cmの穴が貫通しており、深さ3cmほどの溝が周りに彫られているなど加工が見られ、内3本には、その溝にフジつるが巻きついたままであった。「現地を見たが、どのような施設があったか、全く見当がつかない。炉の跡が無いから住居跡とは思えない。だからと言って宗教的なものか、というと、宗教色のある出土物が少なすぎる」同志社大学の森氏も「度肝を抜かれた。柱の長さは解らないが、太さは奈良・東大寺の大仏殿クラスと言える。平城京の建物の柱にしても直径は3040cm位しかない。柱根の加工を見れば、恐らく遠い処から運んできた、と推定できるが、縄文時代に、何のためにそうまでして、太い柱を必要としたのか」と驚きと疑問。

関心度A 80cm級の巨大柱根と柱穴を整理してみると、5・6千年の間に同じ場所で計8回立替たことが解った。円の大きさは直径59mと変化したが、10本という形式はしっかり守られていた。 測量によると、門扉と最奥の二本の柱の間隔はいずれも2.68mとピッタリ一致。更に、両者の中点を結んだ線と左右の対応する柱の中心を結んだ線は、全て91.25度で交わっていた。又、円の中心は門扉と最奥柱の中心線より約20cm、西によっているものの、各柱の中心点を結ぶと、直径6mの正円が描けた。このことから、「線対称や円の考え方がはっきりと現れており、木柱根を結ぶ角度や距離の確認から、当時既に角度定規が存在していた」と見る。少なくとも、縄文時代にかなりの測量技術があったことは確か。

関心度B 道具と言っても石器や木器しかなかった縄文時代、竪穴住居の柱のせいぜい直径30cmどまり。その約3倍もある大木をどうやって縦割りにし、地下に建てたか。85cmの柱根の場合、原木はざっと直径1m。石斧で立ち木の根元を四方から削る。四本のトンネルが中央でつながった後、中で火を焚いて焦がす。残った部分を削り取れば、どんな大木でも、石斧だけで倒せる。炭化部分を根元にして埋めれば、腐り止めの効果がある。丸太は縦に溝を彫り、次々とクサビを打ち込んで二つに割る。根元に開けた穴にフジつるを通し、引っ張って運ぶ。柱の太さの三倍ぐらいの大穴を掘り、柱に結わえた綱で四方にバランスを取りながら立てて埋める。という手順、多分、これらの行程一つ一つには祭祀行為が付属しており、集落全体に強い連帯感をもたせる役割を果たしたであろう。

 関心度C 技術水準の高さを示すものに礎板がある。縦割りにした巨大柱根の下に敷き詰めるようにして見つかった。低湿地に建物を安定させる工法である。チカモリ遺跡は地下水の豊富な場所にある。半分に割ったクリ材の場合、直径90cm、長さ約3mで重さは約1屯。これだけの重いものを、湿地に安定させるには、ドッシリしても、しっかりした基礎が必要となる。 これまで、礎板を取り入れた湿地に住んだのは稲作などの農耕が始まった弥生時代とされていた。代表的なのが静岡県登呂にある登呂遺跡、岡山市の雄町遺跡や百間川遺跡など。住居の柱は丸太で直径20cm級。チカモリ遺跡では、縄文時代に遡って、23倍の大きな柱を乗せていたことになる。

 森氏「巨木に礎板を使う智恵が、日本海沿岸で発生したか、大陸から来たかが検討課題」という。

 同様の礎板は真脇遺跡の巨大柱根の下からも、全く同じ形で見つかっている。掘り込まれている点もチカモリ遺跡と真脇遺跡とが共通している。出土した遺物も膨大な量で、各地層から出土する土器は前期中葉から晩期まで、縄文時代を通じてのほぼ全期間の形式を網羅している。結果、この集落は極めて長期に渡って定住された集落だった事を物語っている。

  「チカモリ遺跡」の新発見        

 深さ約30cmの水溜りの底から、丸太を縦に割ったような直径約30cmの柱根を見つけた。これが、その後、考古学会で“新発見”として話題を呼んだチカモリ遺跡の巨大な柱根の発見である。

  巨大木柱根の発見

 関係者一同を驚かせた衝撃的な発見は調査も週末に近づいた8月末、直径80cmを越える巨大な柱根が次々と10本見つかった。最大は直径85cmにも達した。縦割りのナゾすら解けていないのに、さらに今度は、常識をくつがえす巨木の出現。しかも10本の丸太は断面を外側に直径10mの正円を描いて並んでいる。根部には直径45cmの穴が貫通しており、深さ3cmほどの溝が周りに彫られているなど加工の跡が見られ、内3本には、その溝にフジつるが巻きついたままだった。定説の二倍をゆうに越える巨木の発見は考古学関係者の間に大きな驚きを呼んだ。「現地を見たが、どのような施設があったか、全く見当がつかない。炉の跡がないから住居址とは思えない。だからといって宗教的なものか、というと、宗教色のある出土物が少なすぎる」と首をひねる。同志社大学の森氏も「度胆を抜かれた。柱の長さは解らないが、太さは奈良・東大寺の大仏殿クラスといえる。平城京の建物の柱にしても直径は3040cm位しかない。柱根の加工を見れば、恐らく遠いところから運んできた、と推定できるが、縄文時代に、何のためにそうまでして、太い柱を必要としたのか」と驚きと疑問を連発した。9月末まで、見つかった柱根は計約350本。いずれもクリ材。そのうち約70%を占める約250本は縦割りにされていた。その大部分は直径1085cm10cm以下は極めて少数。大多数は2040cmだった。柱根は乾燥するとダイコンの芯に生ずるような細かいすが繊維に沿って入り、亀裂となる。そのうち横方向にも亀裂ができて、空気に触れている部分からかたまりとなって崩れ落ちていった。保存のためには、何よりも水分の補給が必要とされた。1981年(昭和568月に、小学校跡地に専用の水槽二基が完成、安住の地を得た。

  直角定規の存在?

 80cm級の巨大柱根と柱穴を整理してみると、56000年の間に同じ場所で計8回建て替えたことが解った。円の大きさは直径59mと変化したが10本という形式はしっかりと守られていた。柱根は直径6mの円。南南東の外円に接するように、外湾加工(外返りをさせるための加工)した門扉と見られる長さ1mの柱2本も見つかった。測量によると、門扉と最奥の2本の柱の間隔はいずれも2.68mとピッタリ一致。さらに、両者の中点を結んだ線と左右の対応する柱の中心を結んだ線は、全て91.25度で交わっていた。又、円の中心は門扉と最奥柱の中心線より約20cm、西によっているものの、各柱の中心点を結ぶと、直径6mの正円が描けた。このことから「線対称や円の考え方がはっきりと現れており、木柱根を結ぶ角度や距離の確認から、当時既に角度定規が存在していた」と見る。少なくとも、縄文期にかなりの測量技術があったことは確かだ。考古学者関係で測量技術が確認されているのは、前方後円墳築造時代から、といわれており、大仙古墳の測量など、古代測量の研究をしている大阪府立金岡高校教諭の石部氏は「古代測量の分野は未解明の部分が多く、前方後円墳から{何処まで遡れるか}が課題となっている。測量技術史上、一歩前進の道が開かれた」と高く評価。奈良国立文化財研究所測量研究室長・木全氏も「円や直角の考え方はかなり古くからあったと考えられる。前方後円墳はその形状から、かなりの測量技術がないと出来ないわけだが、それ以前のものは測量具などの遺跡が殆ど残っておらず、測量技術史の研究はこれからの分野といえる。今後の研究成果に注目したい」と大きな期待を寄せた。


 どうやって立てた

 道具といっても石器や木器しかなかった縄文時代、竪穴住居の柱のせいぜい直径30cmどまり。その約3倍もある大木をどうやって縦割りにし、地下に立てたのか。85cmの柱根の場合、原木はざっと直径1m。石斧で立ち木の根元を四方から削る。四本のトンネルが中央部でつながった後、中で火を焚いて焦がす。残った部分を削り取れば、どんな大木でも、石斧だけで倒せる。炭化部分を根元にして埋めれば、腐り止めの効果がある。丸太は縦に溝をほり、次々とくさびを打ち込んで二つに割る。根元に開けた穴にフジつるを通し、引っ張って運ぶ。柱の太さの3倍ぐらいの大穴を掘り、柱に結わえた綱で四方にバランスを取りながら立てて埋める、という手順、多分、これらの行程一つ一つには祭祀行為が付属しており、集落全体に強い連帯感をもたせる役割を果たしたであろう。

  礎板

 彼等の技術水準の高さを示すものに礎板がある。縦割りにした巨大柱根の下に敷き詰めるようにして見つかった。低湿地に建物を安定させる工法だ。チカモリ遺跡は地下水の豊富な場所にある。半分に割ったクリ材の場合、直径90cm、長さ約3mで重さは約1d。これだけの重いものを、湿地に安定させるには、どうしても、しっかりした基礎が必要となる。これまで礎板を取り入れて湿地に住んだのは稲作など農耕が始まった弥生時代とされていた。代表的なのが静岡県登呂にある登呂遺跡、岡山市の雄町遺跡や百間川遺跡など。住居の柱は丸太で直径20cm級。チカモリ遺跡では、縄文時代に遡ったうえ、23倍の大きな柱を乗せていたことになる。弥生時代の住居に詳しい大阪大学の都出氏は、「礎板工法が縄文の技法として実証された意義は大きい、縄文時代は木片の出土少なく、木材の使い方にあまり関心がなかったが、今後は新しい視点を加えねばならないことになった」と見る。又森氏は「巨木に礎板を使う智恵が、日本海沿岸で発生したか、大陸から来たかが検討課題だ」と指摘する。更に、「当時既に中国の黄河地方には、アワを基礎にして華北の王朝が成立しており、農耕を米だけと考えるのは狭い発想だ。今まで縄文といえば土器という点にこだわりすぎていたが、巨木や礎板のような出土物は専門家の視野を広げる。縄文時代を見直す貴重なものだ」と高く評価する。同様の礎板は真脇遺跡の巨大柱根の下からも、全く同じ形で見つかっている。(加藤洋一著)

このページのトップ

石川県埋蔵文化財センター

 

このページのトップへ