桜町遺跡

   「桜町遺跡の知恵と技術」(「縄文再発見」藤田 富士夫)(富山市教育委員会事務局主幹)

1997年の秋に行われた発掘調査で、100本にも及ぶ高床建物の建築部材が出土した。中でも注目されるのは貫き穴桟穴(えつりあな)、?穴(ほぞあな)など、二つの部材を組み合わせる加工技術である。柱と柱を組み合わせる「渡腮仕口」(わたりあごしぐち){木材を凹凸に削って組み合わせる技法}といった高度な技法も見られる。この技法は現在の建築でも多用されているが、これまで法隆寺の金堂(七世紀後半)に使われているのが最古とされていた。それが、桜町遺跡の発掘で一挙に3000年も遡ることになった。他に高床建物の壁の「心材」(網代編)や「葺材」(ふきざい)「床材」と見られる板材も出土している。

 これまで縄文時代の復元家屋は、木の皮が付いたままの自然木が藤蔓(ふじつる)で結わえられたものであった。しかし、桜町遺跡を見ると現代の建築に用いられている基本的な木材の組み合わせ技術が、ほとんど出揃っているといっても過言ではない。これまでの、縄文時代の建物のイメージとずいぶん異なる姿が目の前に現れた。

 桜町遺跡の建築部材は、少なくとも三棟分の高床建物の柱材のあることが分かっている。床の高さが地上から2mほどあり、普通の大きさである。他に高さ6mもある大型高床建物(神殿とみる人もいる)の柱材も見つかった。この柱材には抉り(えぐり)や列点(円形に彫り窪めた点状の彫刻を配列したもの)といった装飾も加えられている。

 縄文時代の建物は、竪穴住居だけで、高床建物は弥生時代の食料倉庫として、初めて登場するとされていた。これまでも縄文の高床建物の存在は、長方形に配置された柱穴から予測されていたが、桜町遺跡は、その部材を目の前に見せてくれ、かつ用途に応じて様々な高床建物のあったことまでも明らかにした。伐採、加工の主道具として、石斧しかなかった縄文人が、かくも微細な細工と加工技術を有していたことは、彼らの知識や能力の高さを示すものと言って良いだろう。

 桜町遺跡は谷部にあって、急激な土砂の堆積で一気に埋没したために、普通は腐ってしまうものも密閉状態となって保存されていた。水さらし場遺構からは、食料とされる大量のトチノミが出ている。川跡からは、今すぐにでも食べることが出来るような黄緑色をしたクサソテツ(コゴミゼンマイ)までが出土した。

 桜町遺跡の建築部材や加工技術、職人技、生産品に関わる出土品は、縄文時代の姿を具体的に私たちに見せてくれるところとなった。これまで私たちが理解していた縄文人観(原始人といわれる)からすれば、格段に高い知識をもった人々であったことは確実である。

  高度な建築技術・桜町遺跡(富山県小矢部市)(信濃毎日新聞)

   建築技術の存在

  「これは、渡腮(わたりあご)という加工の模型ですが、、、」。富山県小矢部市教育委員会の伊藤氏が差し出したのは、拍子木くらいの大きさの二本の木材。一方には凸型、もう一方には凹型の加工がある。加工部分を重ねてみると、二本は直角がっちりとかみ合った。「桜町遺跡から出た木材に、こういう加工がしてあったのです」縄文草創期から晩期の約一万年間にわたる富山県小矢部市の桜町遺跡。1988年の発掘調査で多数の木材や動植物の遺体が出土した。特に「貫穴」(ぬきあな)「桟穴」(えつりあな)など、近世の民家にも通じる加工を施した、高床式建物の建築材と見られる木柱が注目を集めた。「この遺跡のお陰で、弥生、古墳時代にあると思われていた日本の木造建築の基本的な組み合わせ技術が、縄文時代まで遡ると解った」。古代建築研究の権威、東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長の宮本長二郎氏は言う。「普通の竪穴住居はともかく、これだけの加工と組み立ては専門家がやっていたに違いない。当時、桜町のような拠点集落には、専門の技術者集団がいたと思う」縄文の「建築技師」。石器片手に建築作業に汗を流す縄文青年の姿が、ふと頭に浮かんでくる。

   太すぎる木柱根

 同市の小矢部ふるさと歴史館(TEL:0766678122)のガラスケースの中に、直径1m前後の黒々とした大きな木柱根が座を占めていた。縄文中期後半ものが三本、集落のはずれで見つかっている。「まだ遺跡の一部しか掘っていないので、木柱根の並び方が規則的なのかどうか分からない。木柱の上部構造は不明ですが、実用的な建築物なら、こんなに太い柱は要らないでしょう」建物で無いとするなら、やはり木柱は御柱か?宮本氏は「一本だけなら何かのシンボル的なものだろうが、数本ならば配置の状況や位置関係によっては建物かもしれない」と言う。「ただ、建物だとしても、柱の太さからして宗教的なものでしょう」JR北陸本線の石動駅から車で5分。国道8号線沿いに細長く広がる発掘現場。二つの小さな谷が合流し、東へ向かって平地が広がっている。縄文人の集落に度々洪水などの自然災害が襲っていた。その時の土砂が、普通なら残りにくい有機物を真空パック状にし、きれいで豊かな地下水をたたえた谷形が遺物を守り、現代人に様々なメッセージを残してくれた。 桜町JOMONパーク出土品展示室


市役所発信のホームページに詳しく紹介されています。http://www.city.oyabe.toyama.jp/sakura/index.htm

平成101229日、毎日新聞朝刊

富山県小矢部市の桜町遺跡で見つかった縄文時代中期末(約4.000年前)の高度な木組み工法が、
中国浙江省の長江沿いにある河姆渡遺跡から出土した約7.000年前の建物の建築技法と一致することが、同教育委員の伊藤隆三・文化課長補佐の調査で分かった。日本の建築技術のルーツを探る上で貴重な手掛りとなりそうだ。
河姆渡遺跡は、大量の稲もみや炭化米が出土した世界最古級の稲作遺跡として知られ、見つかった高床建物用の木材も中国では最も古い例とされている。
伊藤課長補佐は今年11月、同遺跡の出土品が保存されている浙江省博物館で学術調査。木材同士に凹凸を刻ん出組み合わせる「ワタリアゴ」という技法が、現地では「燕尾木隼(えんびしゅん)」と言われていた。1997年に桜町遺跡から出土した高床建物に使われているのと全く同じ技法と分かった。
更に、壁板の継ぎ目を溝状に加工する「桶部倉矧ぎ仕口」や木材に切り込みを入れて固定される
「欠き込み仕口」の技法も共通していることを確認した。
伊藤課長補佐は「両遺跡に約3.000年の年代差があるため直接の関係は論じにくいが、全く同じパターンの工法だった。高温多湿な長江下流域の気候から生まれた高床建物の技術が日本に伝わったとも考えられる」と話している。
一方これまで日本の稲作は熱帯域から伝わったとするのが有力だったが、河姆渡遺跡での発見は、
その説に対抗する「長江ルーツ説」の有力論拠の一つとなっていた。両遺跡の建築技術が一致したことで、稲作ルーツ論争にも影響を与えそうだ。


宮本長二郎・東京国立文化財研究所国際文化財保存修復協力センター長の話。

縄文の高床建物のルーツは長江流域と考えるのが自然だろう。日本の高床建物の祭祀目的と見られ、住居など実用目的だった中国とは異なる。日中の比較研究をさらに進める必要がある。

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