富山県桜町遺跡
建築部内群と内容

 建築部材群

 出土した建築部材は主なものだけでも約100本を数え、縄文時代としては異例の豊富さである。部材には様々な加工が施されている。その多くは高床建物の部材と考えられるが、一部竪穴住居の部材と思われるものを含んでいる。今回の調査で確認された加工は、昭和63年の調査で発見された「貫穴」「桟穴」

「欠込」のほか、「渡腮」「相欠」「柄」「柄穴」「目途穴」がある。貫穴は高床建物の床を支える大引材を通す加工、桟穴は壁の横桟を引っ掛けるための加工、渡腮・技法である。

 これらの発見によって、今まで全く不明と言ってよかった縄文時代の高床建物の木組みの実態がかなりの程度明らかになったといえる。

 その他、高床建物の壁の「心材」(網代編)や「葺材」、「床材」と見られる板なども出土しており、これら発見された木組みの技法を駆使すれば、今まで見なかった縄文時代の建物の地上部分が見えてきたと言っても過言ではない。

 出土した建築部材の樹種はごく一部のものを除きクリである。食料としてのクリ、建築部材としてのクリ、縄文人はクリを上手に利用し生活に取り入れていたことがあらためて明らかになった。

 祭祀用の塀  塀に用いたと見られる材が3本出土・横材を通す貫穴が3ヶ所ある。貫穴の大きさは、幅15cm、深さ5cm3本のうち2本には「レ」の字形の装飾が施されていた。

 貫穴の間隔が等しいことから、並べて使用されていると見られる。祭殿と見られる高床柱にも同様の「レ」の字形の装飾が見つかっており、地上高が低いことから、実用的な建築物とは考えられず、凹凸が対象的な二種類の材を交互に並べて、囲んだ祭祀用の塀?

 平桁板

 全長1.4m幅30cm、中央付近に柱のほぞを受ける。縦30cm、横20cmのほぞ穴がある。更に、桁の渠をクロスさせるため、相欠きの加工が施される。

 丸太ではなく、板状の桁材で軽量化を図っている。大型の建物に使用されている。

 目途穴

 柱に穴を開けて縄を通すための加工。屋根の垂木を縛ったり、柱に壁などの横材を結びつけたりする。

 ほぞ

 全長1.3m、幅12cmの柱材、底部にはほぞ穴と見られる加工痕も見られ継ぎ足して利用したと考えられる。柱の中央部には、横方向のほぞ穴がある。

 柱材の頭部に作り出した突起別の材に設けた突起を差し込むためのほぞ穴と対で使用する。高床式の建物の床を支える「床大引」が固定してあったと見られる。

 草壁

 網代壁見つかった近くから、ヨシと見られる植物のを、すだれ状に隙間なく並べた、有機質の固まりが出土した。

 壁の中にヨシを挟み込むと、カヤの細い枝が室内に突き出すことを防ぎ、居住性を良くするための工夫がなされていたことを示している。

 宮本長二郎国立文化財保存修復協力センター所長による調査で、桜町遺跡から出土した建築部材の用途がほぼ特定できた。

 欠込仕口(かきこみしぐち)、はしごを固定するために使用されていたと考えられる笹繰り、板壁で使用されていたとする、樋布倉矧仕口(ひぶくらはぎしぐち)の3用途が最も注目を集めるところであり、これらの建築技術は、定説を2000年程覆す結果となりました。

 桜町遺跡から発掘された建築部材(柱)は、20cm程度、30cm程度、40cm以上の3段階に分けられていますが、20cm程度のものは、細すぎて他の用途に転用できないため、殆どが長い間に腐敗したかが考えられる。

 桜町遺跡で発見された縄文時代中期末の木組み遺構は、洪水によると思われる分厚い砂の層に埋もれていた。木組みの周辺に、木の実の水さらしに使われたと思われるザルやカゴがそのまま残されていたことなどから、これらは秋の木の実の加工作業中に突然洪水に襲われ埋没したものと推定している。

 川跡の発掘作業中に木に葉の堆積層が発見された。木の葉が出土することは桜町遺跡ではさほど珍しくはありませんが、今回出土した葉のうちの2枚が、それぞれ赤と黄色に色づいていた。この発見によって、木組みの埋没が当初の推定どおり秋であった可能性が高くなった。木の葉は空気にさらした瞬間から急速に酸化をはじめ、数分後には黒褐色に変色し土壌化してしまった。

小矢部教育委員会発行「桜町遺跡・縄文の森に吹く風を感じて」

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貫穴とは柱材と指しら材とを連結させたり、床を受ける角材を通すために貫通する穴である。桟穴は壁の横穴を架けたり、屋根を葺く際に垂木の上にその下地として並べる材を受ける加工技術である。

 

 

全長3.2m、幅20cmの半割りにされた桁材と、全長3.9m、幅20cmの丸太の梁材には2ヶ所、共に幅約1214cm深さ23cmの渡腮の加工技術が施されている。渡腮仕口とは一方の部材に凸型、他方に凹型の加工を施して桁と梁を直角に組み合わせる加工技術である。

 

 

全長1.4m幅30cmの板材である。20×30cmのほぞ穴と、相欠き仕口の加工が施されている。相欠き仕口とは、両部材の側面をコ字型に等しく加工して組み合わせる技術で、桁に梁を交差させる為のものである。今回出土した平桁は軽量化を図るために丸太を板状に加工したと推測される。




全長2.5m直径2030cmのクリの二又材である。小川の中からYの先端を上流に向け2本重なって出土した。両先端ともに欠け込みがある。中央部には平坦面が削り出されている。下方部の先端が先細りしている。裏面は加工や使用痕が見受けられない。

 

 

桁は二つの部材を接合させる時に、一方の材につくりだす突起である。他方にはこの突起を差し込むための柄穴をつくり、両者を組み合わせる加工技術である。





全長2.5m幅20cmの丸太材である。8×12cmの目途穴と、4×8cmの柄が施されている。目途穴とは柱に穴を開けて縄などを通して、屋根の垂木など別の部材を柱に結びつけいぇ固定するための加工技術である。

 

 

全長2.1m、幅30cmの半割材に、3ヶ所等間隔(28cm)に貫穴が施されている。下方部と推測される所から約60cmの部分が根腐れしている為、立てていたものと考えられる。しかし、推測される地上高が約1.5mと低い為建築部材とは考えにくい。東京国立文化財研究所の宮本長二朗氏は、聖域を囲う塀の柱の可能性を指摘した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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