6千年の時空を超えての縄文遺跡
縄文前期の土器群
日本海に突き出た能登半島の富山湾に面した東側の海岸部のほぼ中央に位置し、約26kmに及ぶ海岸線は屈曲に富み風光明媚で、古くから漁業で栄えた町。
真脇遺跡は、能都町の東端に位置し、標高4〜9mの沖積地にあり、真脇の入り江の奥にあたり、三方が山に囲まれています(舞鶴の浦入遺跡と非常に良く似ている感じです)。
昭和57・58年に約1300uの発掘調査によって、縄文時代の前期初頭(約6000年前)までの、実に4000年間も繁栄を続けた貴重な長期定住遺跡であることが判明した。又、低湿地遺跡でもあるため、普通に残りにくい動物性・植物性の遺物が大量に遺存し、縄文文化を多面的に把握することができる。
「漁業発祥の地」
出土品が多量多彩を極めて、土器の出土量は、1500箱にのぼり、東北・中部高地・関西など他の地域からの土器も数多く出土している。動物遺体では人骨をはじめ、哺乳類・魚類・鳥類などの骨が出土し、特に数百頭にのぼるイルカ骨の出土は特異です。
発掘されたイルカの個体数の多さから、イルカ漁を主な生業としていたムラではなかったかとも考えられています。更に、想像する以上に組織的な漁業基地であり、加工工場的なムラであったという説もあり、社会的な組織が出来ていなければ、4000年以上に及ぶムラの継続は考えられません。
又、近世の真脇遺跡周辺には、イルカの追い込み漁の記録も残されています。更に、昭和初期までイルカを食料としていたことが、聞き取り調査で判明しています。こうしたことから、縄文時代の食生活様式を、今に継承している地域であり、真脇遺跡はいわば「漁業発祥の地」と言えるのではないでしょうか。
植物質のものでは、木器・編物縄類や柱根が数多く出土しています。中でも縄文晩期の巨大なクリの半割材を環状に立て並べた環状巨大も木柱列は、縄文人の精神生活とエネルギーを示すものと言えます。
このように、真脇遺跡は縄文文化の見直しを迫る貴重な遺跡として「縄文文化の宝庫」と呼ばれるようになり、平成元年1月に分布範囲約3700uが国指定史跡として認定された。又、出土品のうち1593点が町指定に、1412点が石川県指定に、更に、219点の様々な種類の遺物が国指定重要文化財となる。
真脇土器 新保土器
能登半島観光情報より、http://www.town.noto.ishikawa.jp/kankou/index.html