「湾奥地の縄文遺跡・真脇遺跡」
粘土層を掘りぬけて
1981年(昭和56)夏、石川県能登町真脇の平地で、遺跡の試掘調査が始まった。1m四方の試し堀の穴が、350近くも開けられた。水田下の土を取り除くと、何処でもすぐに粘土が現れた。「能登町のまとまった平地はここだけであった。弥生から古墳時代の遺跡があるはず」と考えていた調査主任の山田氏は、粘土下には何もないだろうと掘り進めていった。そして、遂に、1mも続いた分厚い粘土層土層の下から、再び黒い土が顔を出したのである。その中からは、イルカの骨や縄文土器が現れた。思いもよらぬ出来事であった。真脇縄文遺跡発見の第一歩であった。
海岸縁の真脇遺跡
日本海に突き出た能登半島は、突端から富山湾に回り込むと、小さな湾が幾つも入組んで続く。その一つ、深い入江になっている真脇湾の奥の沖積低地に、遺跡がある。海抜10m前後。
初めてこの遺跡を訪れたとき、発掘現場にすぐには行き着けなかった。遺跡は周りの高台にあるものとばかり思い込んでいたからである。日当りがよく、水の便が良い高台に縄文集落は営まれたいう通常のイメージからすれば、この真脇遺跡は特殊な立地にあることになる。何故こんな低地にムラがつくられたか、不思議に思えたのである。
「円形にめぐる巨大木柱」
巨大な木柱群の発見
1982年(昭和57)いよいよ本格的な調査が始まった。厚さ1mの粘土で地下に密閉されていた縄文遺跡の、そのベールがいよいよはがされる。遺跡の範囲は東西200m、南北250mと推定されているが、調査の対象は、河川の掘削で深く掘りかえされる部分が、1300平方mである。
掘り始めると、まず上層からは縄文時代晩期の遺物が顔を出した。この層の西側の一角には、当時据えられた大きな木柱の根元だけが残っていた。半円形の線上に、同じ間隔で6本並んでいた木柱は、発掘区外の東にまで続き、直径7.5mの正円形プラン上に10本が並んでいたようである。A環と名づけたこの遺構の他に、やや古くなる小型のB環とC環が、重なり合うような形で発見された。
発掘された柱根は、いづれも弦長90cmを越える太いクリの幹を縦に半裁したもので、木柱の弧面を全てプランの中心に向けて立っている。柱は中心間隔2mぐらいで立てられているから、隣の柱との間は、僅か1.3mと狭い。南の海側の柱の横には、内面を削ってU字状にした柱もあった。発掘区外の東側にもう一本あって、対になって入り口になっていたものだろう。
磨製石斧で巨木を
縄文人の使用した木柱が残っていることは、全国的にも極めて限られた稀な事である。それが、今目の前にしっかりとした姿で出土している。大変なものが最初から出てきたと、調査委員は興奮した。
驚きは、巨大なクリ材が用いられていたことにもあった。金属器のない時代である。蛇紋岩(じゃもんがん)を磨いて作った磨製石斧で、巨木を切り倒し、半裁したのだ。柱には、力強く振るわれた石斧の刃跡が、明瞭に残っていた。
木柱の元の長さは分らないが、根元に巡らされている溝は、切り倒した樹木を山から引き出すために綱を掛けたところだから、かなりの長さがあっただろう。直径90cmのクリ材一本の重さは、3mで約1dにもなるという。僅かに残っていた柱根を発掘後に取り上げるのに、大の男が3人掛かりであったろう。
大樹を切り倒し、半裁し、加工する作業には、縄文人が丸木舟を作っていることを思えば驚くことはないのかも知れない。だが、全体の作業量は相当なものであったろう。
円形に巡る巨大柱は何か
もう一つの驚きは、1980年(昭和55)に発掘されていた金沢市新保本町チカモリ遺跡の遺構と、形も規模も全くよく似ていることであった。チカモリ遺跡でも、直径8mくらいの円上に、直径80cm大の10本の半円柱を規則正しく並べていて、断面がU字状の樋状の柱までちゃんとあったのである。新潟県寺地遺跡から出土した巨大な木柱も、比較できそうだ。
大きなクリの樹を切り倒し、半裁し、溝をほり、綱を書けて、よいしょよいしょと運び込み、ムラ人総出で押し立てる。これは一体何だったのだろうか。
死者の場か
寺地遺跡の遺構は葬送祭祀儀礼と深い関係を有するものだといわれる。組石墓及び積石環状配石(墓)と近接していることが、推定の根拠である。遺体を葬るまで安置する喪がり斎場、葬送儀礼の場、又は風葬の場ではなかったかという。確かにチカモリでも土坑群が近接していたし、真脇遺跡でも庭園と仮名付けて呼んだ石組の遺構が近くで発掘されている。
集会所か
集落の要に建てられた集会所的な機能をもつ大きな家であり、集落の重大な出来事を協議するところで、また男たちの安息所でもあると、チカモリ遺跡の発掘を担当した人が想定している。チカモリ遺跡の中では、円形に柱を巡らす遺構には、細い柱を使っているものが多く、これらは一般の住居と考えられ、巨大な柱を用いたものは、その大型化されたものだというのである。
推理する為の材料が少ない為に、かえって色々な説がでる。
真脇遺跡やチカモリ遺跡でも、或いは、寺地遺跡でも、木柱は1mぐらいの長さで残っているだけで、上がない。だが、引っ張る為の綱賭け溝があることや、柱を入れて立てた穴の深さが、真脇遺跡の場合80cmあるから、かなりの高さの柱が立っていた事は推定できる。屋根は葺かれていたのか、壁はあったのか、何れも分らない。三遺跡ともに炉が発見されていないこと、叩き固めた床が検出されていないこと、これらは推理の重要なポイントになろう。
トーテムポール説、神社祖形説、ウッドサークル説、高床式墓所説、高床式倉庫説、高床式看視説、高床式舞台説、とにかく色々な説がある。
「層をなして順序よく」
3000年の歴史を3mに
発掘はさらに下層に向って進められた。晩期層の下からは後期層が、更に下には中期層が、砂礫や泥炭状の無為物層を挟みながら、順序良く層を作って重なっている。中期の間層(泥炭層)からは、数千年前に生を終えたはずの木の葉が、木から今落ちたばかりのような艶やかな緑の色をして出土し、一瞬の後には黒ずんでいった。四千年分の太陽の光を一瞬に浴び、あっという間に老い朽ちていったのである。発掘者のみが味わうことのできる、忘れられない体験である。結局、遺物は地下1mから4mの間の層に出土し、文化層はT区では18層になる。その時間幅は約3000年。3000年の歴史を、3mの厚さに積み上げているのである。朝日貝塚(富山県氷見市)と並ぶ、北陸では数少ない長期にわたる遺跡である。
土製の仮面
国学院大学の小林達雄が遺跡を訪れた折に、魚箱の中身を皆で見てみることにした。その中で、縄文時代後期の気屋式土器ばかりが入ったはこの中から手に取った土器片は、見慣れないものであった。土面だったのである。鼻が高く目がつり上がり、恐い顔つき。耳の近くの穴は紐を通したのだろうが、裏面が平であまり手が加えられていないので、顔に付けて動き回るには適しない。祖霊を具象化したもので、自然界の中に身を置く彼等の守護神として家屋内に、或いは集会所の柱に掛けられ、祭られていたのかもしれない。
全国的にも最古のもので、最も西の出土例になるだろうと小林がいった。
泥んこの発掘調査
溝状に設けられた発掘区の幅は10mだが、掘り進めて4m下の最下部に達したところは、その幅は僅か6mになってしまう。現地は沖積低地なので、下部に掘り進めるに従い湧き水が激しくなる。ガソリンエンジンで排水ポンプを動かしてはいるが十分に対応できず、発掘区の土の壁を崩してしまう。そのため、下部へ掘り進めるには、丸太材を杭として打ち込んで板を当て、補強せねばならず、その結果裂き細りである。
水を含んだ土は、踏みつけるとどぶどぶになってしまい、最下部の作業は苗代の中での作業みたいな状態であった。発掘作業を進めるには嫌な水だが、この地下水があったからこそ、普通の遺跡では朽ちてしまう木製のものや自然遺物が腐敗から守られてきたのであった。
「鋼矢板を打ち込み下層へ」
発掘区の周囲に長さ5mの鋼矢板が打ち込まれ、電線も引き込まれて大型排水機が昼夜を分かたず作動し、ベルトコンベアーも数台持ち込まれるなどした。
第1次の経験と低地遺跡発掘の先輩、福井県鳥浜貝塚の調査方法から学び、水を集める溝を発掘区内に掘って水を抜き、土の層の変化を見極めながら、一層づつ掘り下げる方法をとった。
四層に重なる石組炉
第一次の調査で、石で囲った縄文時代中期の炉が発掘されていた。100×82cmの長方形で、周囲には灰青色の粘土を貼った床が作られていた。家の中に立てられていたのだろう、炉から4m離れたところに男性のシンボルを模した大型の石棒が出土した。
炉を掘り下げると、下から石組炉が現れた。そしてその下にも。またその下からも。炉がなんと四基も、重なっていたのである。三番目の炉には、有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器という特殊な形態をした土器の破片が敷き並べあった。この土器を復元したところ、全国的にも最大級の大きさの有孔鍔付土器であった。内面に塗られていた赤色が、黒い土中に艶やかだった。
土器の様式から推定した四基の炉の時期は、皆同じ中期中頃である。土砂の流入が激しくて、短期間に埋まって行った事を物語っている。
遺物の序列を決める土層
住居を、そして湾を埋めていった土砂の流入は、3mにも及ぶ厚さに、規則正しく土層を積み上げた。真脇人には迷惑至極だったろうが、考古学の研究にとっては、またとない好条件が作り挙げられたのである。
色や固さなどによって区分されたそれぞれの土層からは、殆ど同時期の遺物だけが出るのだから驚きである。そこで、土層には土器様式の名前を取って気屋層とか新崎層というような名がつけられた。通常の発掘では、第二層とか第三層とか、順序を示す数字を与えて呼ぶのである。
土器様式ごとに上下の層に分かれて発掘できるのだ。縄文時代前期から晩期の終末までの資料をこの真脇一遺跡で見ることが出来るので、土器の変遷を細かく捉えることも出来るのである。
普通の遺跡の発掘では土器以外の遺物の時期を決定するのは難しいのだが、真脇遺跡では出土した層によってほぼその時期が決められるので、今後の研究に益するところが大きい。
土層は写真や図によって記録されるが、土層に薬品を塗りつけて布を張り、その布に土層そのものをつけて剥ぎ取る作業も行なわれた。資料館が出来れば、展示されて実際に見ることができよう。
「イルカ漁のムラを掘る」
イルカの骨が
表土から4m、最下層に近づくと、イルカの骨が累々と出てきた。
上層の縄文時代中期や後期の層からも出土していた。しかしここ前期層では、発掘作業をするための足をどこに踏み入れようかと途惑うほど、イルカの骨が大量に出土したのである。
ここに、「何故、真脇の低地に人々は住み続けたのか」の答えがあったのだ。ここは、真脇人たちが捕獲したイルカの解体場であり、廃棄場なのだ。真脇はイルカ漁を行なっていたムラだった。
江戸時代や明治期の記録によれば、真脇や隣の小木町では、回遊してくるイルカを三人乗りの舟100艘ばかりで湾内に追い込んで、一回に4、50頭から100頭、時には1000頭以上もの大量捕獲をしていたという。大量のイルカの骨を目の前にした私達は、この近世の記録と縄文時代の真脇を重ね合わせていた。
しかし、数百頭にも及ぶイルカの大量捕獲は、今まで私たちの持っていた縄文のイメージを覆すものでもあった。その大量の肉や油は、いったいどうしたのだろう。全てが真脇のムラだけで消費されたとは考えられない。
明治時代は、皮は油をとったりなめし皮に、肉は塩漬けにして食用にしたり、干して肥料として、肉を掻き去った筋は乾燥して綿打ち用の弦として、それぞれ販売されていたという。縄文時代にも、真脇の特産品としてイルカの肉や油が山の民のもとに届けられたのだろうか。真脇のムラは、イルカ漁を生業(なりわい)としていたのだろうか。
イルカの骨を読む・来る
発掘総数は、285頭。内251頭はマカイルカとマイルカの小型イルカであるという。イルカ一頭に一個の第一頚椎の数を丹念に数えたもので、確認できる最低の頭数といえることになる。
春から秋にかけて、イカやイワシの群れを追って、イルカが北陸の沿岸に近づく。まずカマイルカが、遅れてマイルカが姿を見せる。
浜辺に横たえられたカマイルカは、体長1.8mぐらい。50cm程度の扱い易い大きさに解体され、分配されていく。筋肉は生でも食べられるし、焼いたりあぶったりしても美味しい。天日で乾燥させれば、数ヶ月の保存も可能。
ところで、カマイルカ一頭の重量を100`とすると、食用になる筋肉と内蔵の総量は65`は下らない。首尾よく6頭し止めたとすれば、400`近くなる。真脇のムラだけで全部が消費されるのではなく、他集落にも骨付きで分配された可能性も考えられる。
奈良国立文化財研究所から、真脇遺跡の土器を帯広畜産大学で、残存脂肪酸分析検査をしてもらわないかとの話。
報告では、縄文時代前期末の土器からはイルカの油脂とシカの獣脂、中期初頭の土器からイルカの油脂が検出されたという。中期初頭の土器は、コレステロールの残存量が高いので、イルカ油脂の貯蔵容器であった可能性が極めて高いと、考察されている。
イルカの骨がまとまって出土した前期末の層からは、土器も沢山発掘され、復元されたものも多い。これらの器表面に黒い炭化物が分厚く張り付いている事は発掘中から注意されていたが、イルカの皮を煮て油をとった結果なのかもしれない。イルカの油は燃料として、また良質だから食料としても利用されていただろう。
縄文人の生活は、全てが自給自足であったわけではない。黒曜石の石鏃が、蛇紋岩製の磨製石斧が、そしてヒスイの玉が、外部から真脇遺跡にもたらされてもいる。食生活でも、保存できる食料品などは、他のムラと交換していたに違いない。真脇で採られたイルカの油が、交易品として遠隔地にも運ばれたと考える人もいる。
トーテムポール
最後に イルカの骨や土器なども取り上げ、木製のカイや盆、或いは縄や編み物の取り上げも終った。
最後に残ったのはイルカの骨の間に横たわっていた長さ2.5m、直径45cmもある大きなクリの樹幹だ。土層を観察する為に掘った溝をまたいでいたので、橋として利用していたものである。自然木だと思い込んでいたものを、清掃し始めると、溝が掘り込まれていることが判明。
上半部に溝が三条横にはしり、一段目と二段目の間に、楕円形の彫り込みを囲むようにして弧線二本が縦に彫ってある。この弧線は反対側にもあったようであるが、この部分の裏側と上部が欠けていて、これ以上は読み取れない。
この彫刻柱は、根元1mぐらいの遺存状態がきわめて良い。恐らく、この部分が土中に埋められて、立っていたのだろう。用をおえ、倒れ流され朽ちたものであろう。数千年を経た今に、このような木製品が残り、出土したことに驚くと共に、文様の意味は読み取れないものの、そこに縄文人の祈りの心が込められていることは間違いないと思われた。
土砂が絶えず流入する真脇の低地に、人々は何故長期にわたり住んでいたのか。その理由の第一に、目の前に広がる海に生きるムラだったからだ。イルカの骨の他に、カツオ・マグロ・サバ・サメ・フグ・カサゴなど、外洋性のものも含んだ多様な魚骨の出土が、海に漕ぎ出て生きた人たちの生活を物語っている。
縄文時代の富山湾では、イルカ漁は朝日貝塚や小竹貝塚などアチコチで行なわれていたあとがあり、真脇のみの特質ではない。
真脇湾の奥深さと土砂の流入を、長期にわたり人々を留まらせた理由として加えたい。上山田貝塚や堀松貝塚、或いは小竹貝塚、或いは小竹貝塚などが、真脇遺跡ほど長期の居住地とならなかったのは、周囲の環境が大きく変わったからである。例えば、日本海側最大の貝塚と目される小竹貝塚は、生活の拠点の潟が土砂の流入で埋まったから極めて短期で捨てられた。
奥深い真脇湾は、土砂の流入があっても決定的な環境変化とはならなかった。逆に、土砂の流入の激しさは、絶えず新たな陸地を水際に作り出し、海に向ったムラを存続させた。富山湾が、真脇湾が、そして背後の低い山地形が、この色々な自然の織り成しが、真脇ムラの長期にわたる存続を許してきたのである。
真脇人は、諸々の物の祈りを続けたことであろう。守護神の土面が、家屋内や集会所の柱に懸けて祭られる。彫刻木柱には、彼等が伝えている神話が刻まれているのだろうか。或いは、イルカの豊漁を願い、海に向って立てられたのであろうか。この柱を巡って、普段は見られない衣装や飾りをつけ、唄い踊ることもあっただろう。祭りは、一年間のリズムを作リ出すのであった。
(撫 樹林のメモ帳より、入手不明)