柱の輪??信仰

真脇遺跡――柱と輪廻信仰の原点

「森の思想」より(梅原 猛著)

    真脇遺跡――柱と輪廻信仰の原点

 アイヌや沖縄の信仰を参考にしながら、古代日本、縄文以来の日本の宗教、世界観について探ってみたい。

    習俗としての日本の宗教

 日本の神道といわれるものには、例えばキリスト教の聖書にあたる経典が無いわけです。日本の仏教には、確かに経典や祖師の書いた本が色々ありますが、日本の仏教は沢山の宗派に分かれていて、それぞれ宗派によって経典が違っている。だから、キリスト教を理解するには、まず旧約、新約の聖書を読めばよい、回教を理解するには、その聖典コーランを読めばよい、というように日本の仏教の場合は行かないわけです。しかも日本の宗教というものは、概念であるよりもむしろ習俗になっている。

 そして日本の宗教の中には、仏教も神道も或いはキリスト教まで渾然一体となって入っている。これはよく言われることですが、多くの日本人は宮参りや結婚式は神道でやりまして、葬式は仏教でやっている。つまり生に関する儀式は神道でやり、死に関する儀式は仏教でというふうに使い分けている。また1225日にはクリスマスのお祝いもする。つまり、思想とか経典という形ではなくて、習俗や習慣のなかにいろんな宗教が溶け込んでいるわけですから、そういう宗教を研究する者は大変難しいです。

  日本の神道というのは、実はよくわからない。殆ど聖書らしいものは無くて、それは日本人の生活の中に巧く溶け込んでいて、習俗化している。それだけに、思想的にどういうものかということがなかなか捉えにくい。そして同時に日本の神道は、歴史的に大きな変化をしている。一つの変化は近代国家成立期における変化であり、もう一つは、七,八世紀、律令国家の成立期における変化です。つまり日本の神道は明治以降の近代国家の成立期、そして律令国家の成立期に大きく変わったのです。

  明治以降の神道は何だったのか、よく言われるように、それは国家神道だと思われます。この国家神道の基礎を成すのは、江戸後期の国学者平田という人がいますが、この平田がつくった神道が明治以降、国家の神道として採用されてきた。平田神道には、いろんな側面がありますが、もっぱら国家主義的に偏向した形で受け継がれてきたというふうに私は思っています。明治以降の日本の神道は、伊勢神宮と明治神宮と靖国神社に象徴される、そのような神道です。

 日本の神道を深く探る為には、明治の国家主義の思想を超えて、そのもとにある縄文時代以来の信仰を考えなければならない。

    律令時代の国家神道・禊ぎと祓い

 8世紀の宗教改革。日本の神道をもう一つ遡ると、律令神道に達する――日本の神道にバイブルは無いといいましたが、やや広い意味において日本の神道はバイブルを持っているのです。それは古事記、或いは祝詞(のりと)です。古事記や祝詞によって語られる神道というものも、実は古くから日本に伝わっていた信仰というよりは、律令時代につくられたものである。少なくとも律令時代に国家神道化された、そういう神道ではないかと思われます。

  古事記や祝詞に語られる神道の中心思想は何かということを一言でいいますと、其れは祓いの禊ぎです。今でも神主さんは必ず祓いというものをやる。

穢れを祓って清い心にする、というのが日本の神道の重要な思想であると考えられる。或いは穢れを祓うために禊をする。禊は、古くは海の水を使ったのですが、日本人の祖先が海から陸へあがった時に、川の水を使うようになった。海の禊の名残として、塩で清めるということをする。お相撲さんが土俵に上がったときに塩をまきます、塩というのは「清める」という作用があって、海の禊の名残である。そういう禊の祓いの神道、これが日本神道の中心思想のように思われてきた。私も長い間そのように考えてきた。古事記では確かに、この禊ぎ祓いの思想が語られている。

   縄文文化――成熟した狩猟採集文化

 縄文時代には、樹木の文化が非常に発展した。木は単なる生活道具としてだけでなく、大変神聖なものとされていたことが、縄文遺跡からうかがわれる。更に縄文の祭祀遺跡、或いは縄文土器の形や紋様を見ると、かなり高度の精神生活を送っていたことが明らかなのです。

 縄文文化が東日本を中心に1万年ほど続いた後、紀元前3世紀頃にやっと弥生文化の時代が始まるのです。つまり日本では農耕が始まるのは実に遅いのです。メソポタミア地方で農耕が始まったのが、1万年前といわれ、中国で農耕が行なわれ始めたのは6千年前とされていますから、日本はメソポタミアに遅れること約8千年、中国に遅れること約4千年です。しかし日本では、中国で農耕文化が盛んに行なわれる5,6千年前から、本当の意味の縄文文化が始まったのです。縄文文化といっても独自の土器が出来るのは縄文晩期、今から6千年ほど前からであり、中国の農耕文化の開始の時期とほぼ同時であるわけです。つまり中国では新しい文明が始まったとき、日本では一時代前の文明が花を咲かせていた。そしてメソポタミアや中国において5千年前に始まった都市文明が日本に入ってくるのは、7,8世紀まで待たなければならなかったのです。何故日本では都市が出来なかったかというと、天皇が死ぬたびに宮を変えていたために、都が定まらなかったからです。

  だから日本は農耕文明、都市文明と言う点では世界的に遅れたけれども、実に高度な狩猟採集文明が花を咲かせていたということになるわけです。

  律令時代が行われる前に古墳時代があり、その前に弥生時代があり、そしてその前に縄文時代がある。縄文時代には狩猟採集文化をかなり高い文化に発展させた縄文人、つまり古モンゴロイドの土着民が、日本列島にはいたということである。そこへ今から2300年ほど前から、稲作農耕文化をもった新モンゴロイドのタイプの人達が大陸から日本にやってきて、九州、近畿地方を占領し日本の国をつくった。これは間違いのないことです。このことは古事記、日本書紀の記事にも現れている。古事記、日本書紀の神話が現す思想的意味は何かというと、天つ神の子孫が国つ神の子孫を征服すると言う話です。天つ神と国つ神の先祖は兄弟で、天つ神は、土着の国つ神のところへやってきて国つ神を征服した。それで大和朝廷、日本の国ができた。こういうことを、古事記、日本書紀の神話は語ろうとしている。

   日本人の奥底にある森の信仰

 縄文時代の狩猟採集文化の宗教のうえに農耕文化、渡来人の宗教が重なっているのです。だから我々が、日本人の基層の宗教を知ろうと思えば、縄文時代の宗教を研究しなければならないのです。そうであれば縄文時代の人間の形質と文化を最も多く受け継いでいるのは誰か。それはアイヌの人たちであり沖縄の人たちである。アイヌの人たちはつい最近まで狩猟採集の生活をしていた。沖縄でも狩猟(漁猟)が盛んで、アイヌや沖縄の文化、宗教を知る上で、非常に重要になってくる。彼等の宗教の中に日本の宗教の原型が残されているからです。

 例えば、森です。日本の神社には必ず森がある。しかしお寺には必ずしも森はない。実は弥生時代が始まるまでは、日本列島は殆ど森に覆われていた。山だけでなく平地も全部、森に覆われていた。我々は弥生時代になって森を切り

始めた。そしてそこを田畑にした。森を切って耕地面積を拡げていった。これを日本人は2300年もの間続けてきたわけですが、切ってはならないところがあった。それは神社の森です。聖なる場所には森が無くてはならない。それはどうしてか。それはやはり縄文時代からの日本人の信仰のうえである。縄文土器のあの紋様は何であったか。それは木の精は生命のシンボルです。小さな種一粒で、あのような大きな木に育つわけですから。そして木は何百年、何千年と生き続ける。そしてその木の恩恵によって人間は生活している。食べるものも木によっているし、家も舟も着物も全部、木によっている。

だから縄文人は、木でつくった縄で土器に紋様をつけることによって、木の精を、生命力を自分たちのものにしょうとしたのでしょう。しかも木は、神の依り代でもあるわけです。伊勢神宮の神事も、基本は木、柱に対する信仰です。それは延々と縄文時代にまで遡る日本人の信仰です。

    熊送りに見るアイヌの世界観 

 日本の神道は、縄文の宗教の遡るという考え方は、別に怪しむべきことではありませんが、その宗教の名残がアイヌと沖縄の宗教に見られるということについては、いささか説明が必要とします。

  私は、日本の宗教の起源を縄文時代の宗教に見た。そしてその名残をアイヌや沖縄の宗教に見るという仮説に基づいて論を進めることにします。

 アイヌの宗教について、アイヌの人たちの他界観というか世界観を知るうえで、一番分りやすい例をあげるならば、イオマンテです。イオマンテとはどういう意味かと言いますと、「イ」と言うのは「それを」、「オマンテ」というのは「送る」と言うことですから、「それを送る」と言う意味です。それでは「それ」と言うのは何か、それは熊の魂である。つまり熊の魂を送るのです。何処へ送るかというと天へ送る。その祭りが「イオマンテ」です。

 アイヌの人たちの考えでは、熊と言うものは死ぬとその霊は天にもどっていく。熊ばかりでなくて、人間も、動物も、植物も、道具までも死ぬと、全てのものの魂は天に戻って行くのです。だから、全てのものの魂は死んで天に昇り、

神になると考えているのです。こういう思想は、人類が何万年も前からもち続けてきた宗教観念であると思われます。

 そして死んで天国へいった魂は、天国からまたこの世に戻ってくる。ところが大変面白いのは、熊は天の世界では、人間と同じような家族関係を営んで人間の姿をして生活をしている。そしてこの世に来る時には熊に仮装してやってくる。何故この世にやってくるかと言うと、熊はこの世の人間に「ミアンゲ」をもってやってくる。だから熊は「ミアンゲ」をもってこの世の人間の世界へやってきた「マラプト」、客人であるという。古い日本語でも客人のことを「マラプト」と言います。このような言葉が古代日本語に残っていると言うことは、アイヌ語は古い日本語の祖語ではないかと私は考えているのです。そして「ミアンゲ」と言うのは何かと言いますと、文字通り「身をあげる」という意味です。つまり熊は美味しい身(肉)や立派な皮を持ってやってきたお客様だということです。だから私たちは熊の意志に従ってその肉を戴くわけです。そして立派な毛皮を給わる。しかし美味しい肉や毛皮を戴いたあと、魂は天に送り返さねばならない。それがアイヌの人々の熊送りに含まれる思想です。

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    ニライカナイ信仰にみる沖縄の世界観

 沖縄では、人間は死ぬとニライカナイといって海の彼方へいくと考えられています。そして、ニライカナイへは大抵の人がいける。よほど悪いことをしていない限り行けるのです。そしてニライカナイには極楽も地獄もなく、この世と同じような生活ができる。ニライカナイがプラスの世界なら、この世はマイナスの世界、この世が光の世界なら、ニライカナイは影の世界だと言う。そういう対極の世界である。よほど悪いことをした人でも、残った親類が「あの人はいろいろ悪いことをして、苦労も掛けさせられたけれど、根はいい人だからニライカナイへ連れて行ってあげてください」と言えば、ニライカナイの神さんは受け入れてくれるのです。

 それではニライカナイへ行った霊はどうなるのかと言えば、またこの世に帰ってくる。必ずかえってくるのです。その還ってくるシンボルが太陽です。太陽と言うものは、永遠に光り輝くというイメージもありますが、沖縄での太陽のイメージはそうではない。太陽は一辺死ぬ、海に落ちて死ぬのです。そして闇と闘って再び姿を現すのです。つまり太陽と言うものは「死・復活」のシンボルである。このことが私は最近分った。本州にも、同じような考え方が残っています。それは二見ケ浦から太陽が昇ってくるという信仰です。太陽は暗い闇の世界を通ってきて、二見ケ浦の門から再び昇ってくるのです。だから太陽は闇と言う死の世界をくぐってきて甦ってくるのです。

    死者の再生

 死んだ人の霊は天国へ行くのですが、すぐに天国へは行きません。しばらく山に滞在する。年忌というのがあります。3年、7年と霊はだんだんと上へ昇っていって、そして33年たつと神になってあの世へいくのです。

 ではあの世とはいったいどういうところか。あの世には極楽も地獄もない。ただこの世とあべこべの世界なのです。あの世の夜はこの世の昼、この世の夏はあの世の冬。だから葬式のときは何でもあべこべにしてしまう。死者の着物も左前に着せるとか。我々は死ぬと、そういうようなあべこべの世界にいて、そして又この世に帰ってくる。その帰って来るということがとても重要なのです。アイヌの人達の場合、あの世でもだいたいこの世と同じ家族単位で住んでいる。そしてこの世でいいことをした人は、あの世へ行っても早く帰って来る。例えばアイヌの人々の場合、ある婆さんが死ぬと、次のようなこといいます。

「あなたはいったん神の国に行ってお休みなさい。そして1日か2日お休みになったら、あなたはこの世で本当に清らかな生活をしていたのだから、また再びこの世におもどりなさい」と。アイヌの場合、この世の1日はあの世では1年ですから、1年か2年ということになります。だから我々は子孫が生まれたとき、生まれてきた赤ん坊を見て「これはおじいちゃんにそっくりだ、死んだおじいちゃんの生まれ変わりだ」なんて言います。

 これが日本の古い信仰なのです。そういう信仰がアイヌや沖縄には強く残っているのです。

   真脇遺跡――柱と輪廻信仰の原点

 アイヌや沖縄の信仰を参考にしながら、古代日本、縄文以来の日本の宗教、世界観について探ってみたい。

 石川県の能登半島に真脇というところがありますが、数年前にそこから大変面白い遺跡が発見された。これはウッドサークル(環状列木)とでも言うもので、縄文時代の遺跡です。その遺跡から、直径80cmから1mぐらいの柱が10本、サークル状に立てられていた跡が見つかった。そしてそれは住居遺跡、生活遺跡ではないらしい。どうもそれは宗教遺跡らしいことが明らかになった。そしてそこから多くの縄文土器、ドングリ、また能面にそっくりなお面、トーテムポールに似た棒も出てきた。それからおびただしい数のイルカの骨が出てきたのですが、その他にシカの骨などの動物の骨、人間の骨まで出てきた。そして面白いことには、このウッドサークルは何年かごとに建て替えられていたことが解りました。

 ウッドサークルの柱の穴が交錯しているのです。これは明らかに宗教遺跡ですが、その宗教はどういうものであったか。そこからイルカの骨が出てきたことから、ここは熊送りならぬ、イルカ送りの場所ではないかと思われる。この真脇は徳川時代までイルカ漁の根拠地であったわけですが、このイルカ漁は実に縄文時代にまで遡るものであったのです。

 アイヌでは熊が何故神になるかと言うと、それは最も美味しい肉を、最も大量に与えてくれるからです。この真脇では、シャチのことを「カンヌシ」と言いますが、アイヌでもシャチは「カムイ」です。何故シャチがカムイであり、カンヌシであるかというと、シャチがイルカやクジラを岸に追い込むからです。

恐らく真脇は地理的に、そういう追い込まれたイルカやクジラが獲れやすい場所であったのでしょう。ここでイルカはミアンゲを持って訪れたマラプトであり、マラプトは多くの肉や骨をミアンゲとして人間に提供して、その後は天に送られるのです。

  ウッドサークルの柱は何を意味するか。もともと柱というものは天と地をつなぐものです。日本書紀には、かつて神々も人々も柱を通じて天地を行き来しましたが、今は、天と地が遠く離れて容易に行き来が難しくなったと言う話があります。古事記に出てくる天の浮橋とかいうものも、そういう天と地を結ぶハシであります。柱を通じて霊が行ったりきたりするのです。京都に天橋立と言うところがありますが、あれは天に聳え立っていたという。そしてその橋立てを通して人間と神さまが行ったりきたりしていた。ところが、ある日神様が居眠りしていた間にドスンと橋が倒れて、今のように横になったという神話が丹後風土記に記されている。

 ハシラもハシもそういう霊が行き来するものですが、ハシは水平あるいは水平に近く立てられているのに対し、ハシラは垂直のものです。「ラ」というのはアイヌ語で「下ったもの」と言う意味です。だからこの真脇の柱も、ここから神が降りたり、或いはここからイルカの霊が天に昇ったりしたところに違いないのです。

  この真脇遺跡の柱はクリの木を半分に切って半円柱にしたものでを、10本サークル状に並べられていますが、そこには入り口のようなものがあります。それは門であり、私は鳥居の起源ではないかと思うのです。この真脇遺跡の発見以前に、金沢市の近森遺跡でもウッドサークルの遺跡が見つかっていますが、このチカモリという地名にも私は引っかかるのです。「チカ」はアイヌ語の「チァップ」即ち「鳥」ではないかと思うのです。近森は鳥の森、即ち神の森に違いない。

 そのように柱は、そこを通って神々や人間たちが行き来する神聖なものですから、その神聖なものの意識が、私は日本の神道の起源であったのではないかと思うのです。何故なら、諏訪神社の御柱の祭りは、恐らく古い祭りの名残であり、あの真脇などで行なわれていたに違いない。ウッドサークルを立てる祭りの熱狂の一端を今にとどめています。御柱の祭りの柱は、神社の周囲に立てる4本ですが、それもやはりサークルの4隅と考えられたに違いない。このサークルは何を意味するのでしょう。

 我々は神様を、ひと柱ふた柱と数えます。伊勢神宮の御遷宮の初めは「心の御柱」の建築から始まります。また諏訪神社には、7年に一度「御柱」の大祭があります。それは巨大な柱を山から切り出してきて上諏訪。下諏訪神社の周囲に立てる祭りです。その祭りの意味は、真脇遺跡を見るまでよくわからなかったのですが、真脇遺跡を見て初めてその意味が解りました。

    二つの思想――平等と再生

 日本の律令以前の縄文時代以来の信仰を考えると、大体つぎのようなことが言えるのではないかと思う。

 基本的な世界観として次の2点が考えられる。

 まず第一点は、生きとし生けるものは皆平等であり、同じ生命である、この考え方が基本です。だから熊も人間も同じ生命で、同じ魂をもっている。たまたま熊はこの世へ見あげを持ってきたに過ぎない。つまり熊は仮装してこの世に現れたのだ。木も同様に見あげをまってこの世に現れたのです。木の柱も熊の身と共に人間に送る見あげなのです。だからアイヌの人たちは木を1本切るたびに祈りを捧げる。

 アイヌ文化に於いても、縄文文化に於いても、特に木の生命は全ての生命の中心になっているようです。日本の信仰の基本も木の崇拝であり、日本の神道の基本は生命の崇拝である。そして全ての生命は平等であって、人間だけが尊いという考え方ではない。特に木の命は私たちの生活のシンボルである。そういう考え方が一つの世界観としてあると思います。

 次に、死んでも必ず再生してくるという、生死の循環の考え方です。死ぬと人間のみならず、全てのものは魂が肉体から離れてあの世へ行く。肉体はどうでも良いのです。だから、昔はそのあたりに屍をほっていた。それは屍は魂の抜け殻に過ぎないからです。そしてこの世にいる人々は、魂をきちんとあの世に送らなければならない。だから葬式が大切なのです。日本の仏教は葬式仏教だという。これは何も悪いことではない。日本人はずっと昔から、葬式は大切にやってきたわけです。それは魂をあの世へきちんと送らなければならないからです。あの世に送ると言う事はどういうことか、と言うと、また生まれてくると言うことです。あの世へ行けないと再生できない。一番困るのは、魂がこの世に執着して留まろうとすることです。魂がこの世に留まる、これが一番怖い。これは怨霊です。

 日本の宗教の根底には、こういう信仰がある、こういう考え方は、アイヌや沖縄の宗教に非常に明確に認められますが、古代日本は勿論、現代の日本人の考え方の中にも残っているのではないか。

 即ち、生きとし生けるものは全て同じ生命である。特にその生命の信仰の中心は木である。そして生命は皆死んでまた甦る。死んであの世へ行ってまた帰ってくる。そういう循環を繰り返している。それは自然の姿でもある。私はこの二つの考え方が大好きです。こういう二つの考え方は、現代の日本人の根底にも根強くあります。

 このような日本の宗教の基本原理を考えると、仏教が日本へ入ってきて、どのように変質したかということが、よく理解できるのではないかと思うのです。                                     「森の思想」(梅原 猛著より抜粋)

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