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「真脇遺跡のイルカ漁」
(石川県能都町教育委員会発行)
縄文時代のイルカの捕獲法はどのようなものであったか?
これを追求するためには出土遺物や骨の出土状況を分析する必要上イルカ骨の廃棄状態を見ると、多い場合で9頭、普通は5.6頭を一度に捨てている。又この層からは多量の石鏃や石槍が出土していることや、ただ一点だけが肩甲骨に石槍の先端が突き刺さって折損している例があった。これらのことについて当時は突き獲り漁が主流ではなかったかと考えられる。しかし、この事は、網を使って群れの一部を湾内に追い込む方法を否定するものではない。仕留められたイルカは、縄文人にとってはメリットの大きい獲物だった。カマイルカの体重は平均100gmを超し可食部は殆どと言われる。これは、日本人には量が多すぎて食べきれないと言われる1ポンドステーキ(約453g)に換算すると、ざっと170食になる。従って、一度に漁で平均5頭を捕らえた場合、ムラでの消費量を遥かに超え、余剰を生む量ではなかったかとかんがえられ、脂皮から油を採り、表皮はなめし皮、など恐らく、真脇縄文人たちも、有効に利用していたに違いない。また出土した土器片についていた脂肪を分析すると、イルカの油しか付着していない土器が見つかった。つまりイルカ油専用の貯蔵瓶が存在していたのだ。
イルカや魚類に大きく依存していた真脇縄文人であるが、海と同時に山における優れた猟師でもあった。出土した動物遺体の種類に、猟犬も飼っていたと思われる。また魚や肉のみでなく、ドングリ、クリ、クルミ、トチの実なども出土しており、最近の研究によると、縄文時代の食生活に占める植物食の比率は相当高いと推測されているので、真脇では動物食に劣らず、高度な植物を食べていたことが想像できる。
巨大柱根の特殊文化圏?
真脇遺跡は縄文時代の前期(約6000年前)から晩期終末(約2300年前)までの約4000年間に渡る縄文時代の長期定住型遺跡である。巨木根柱も、チカモリ遺跡と同時期のものである事が明らかになっている。さらに同様の遺物が新潟県青海町の寺池遺跡でも出土していることから、縄文時代の北陸地方には巨木を使用する祭祀など独自の文化が存在していた事が推測できる。若しかしたら、青森三内丸山遺跡の巨大柱建築物も、この流れを汲む文化の一端かもしれない。
真脇遺跡の巨大木根の直径は99m、チカモリ遺跡のものを上回る大きさで、直径6.2m、5.3m、7.5m、の3つの真円上に、クリ材が配置されていた。出入り口は「ハ」の字形をした門扉形の板状材木が立つことや、柱の根本に溝が
掘りこまれていることなどもチカモリ遺跡と共通している。出土した遺物も膨大な量にのぼり、とくに各地層から出土する土器は前期中葉から晩期まで、縄文時代を通じてのほぼ全期間の形式を網羅している。このことからも、この集落が極めて長期にわたって定住された集落だった事を物語っている。
謎の環状巨大柱列
巨大柱を縦に半分に裂いて半円状にし、それを直径7.8mのサークル上に並べた遺構がこの真脇遺跡でも発掘された。その2年前、金沢市の西方にあるチカモリ遺跡でも同様のサークル遺跡が発掘され論議を呼んだが、再び同じ能登半島での遺構発見に人々が驚いた。チカモリ遺跡の発掘時は、柱の巨大さと300本を越すあまりにの多さに、考古学者の間でもこれが縄文期の柱だとは信じ難いという意見を述べる人もいた。恐らく後世に製作されたものが、何らかの理由により縄文期の地層に紛れ込んだのであろうと言うのだ。チカモリ遺跡を「縄文晩期」と判断したのは金沢市文化課の南氏だったが、この真脇遺跡からのサークル遺構の出土を一番喜んだのは南氏かもしれない。真脇遺跡は、科学的分析法によっても、「縄文期」の遺跡であることがはっきりした。層位の明瞭な真脇遺跡からの出土により、疑義を挟んでいた声は消えた。
巨大環状木柱列は、3つのサークルが重なって出土している。出土順番によりA環、B環、C環と名づけられたが、A環の1本の半円柱根は直径が76〜99cmという巨大なクリ材を使用している。B環,C環は30〜50cmであるが、同じクリである。チカモリ遺跡の柱根もクリ材であった。
サークルが重なっていると言う事は、次々に建て替えられたが同一の場所に建てられたことを示している。いったい何の用途に用いられた遺構なのか結論は出ていないが、定位置に建ててあるというのは何らかのヒントになるのかもかも知れない。
真脇遺跡のもう一つの目玉、トーテムポールと違って動物の彫刻がなく全て抽象的な紋様のみ。そのためこの柱の意味をめぐっても諸説がわかれ、何らかの祭祀用という説が有力らしい。
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