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イルカの捕獲と環状木列
イルカ漁のムラ
日本海に突き出た能登半島の先端から波静かな富山湾側に回り込むと、小さな湾が幾つも続く。その一つ、真脇湾の奥の渚に近い沖積地に真脇遺跡がある。石川県鳳至(ふげし)郡能都町字真脇、JR能登線真脇駅の直ぐ傍ら、標高は10m前後、現在の海岸線からは300mほど入ったところである。縄文時代の遺跡は、小高い丘や台地の上に営まれることが多い。まれに沖積低地や砂丘の上にあっても、短期間の居住に留まっている。それなのに、土砂の流れ込みが絶えず、居住地として適地とは思われない真脇の低地に、長期にわたり人々が居住したのは、何故であろうか。表土から3mくらい掘りこんで、縄文時代前期末から中期初頭期の層に達したところで、イルカの骨が大量に出始めた。頭骸骨や50〜60cm単位で連なった脊髄骨が、まさに足の踏み場も無いくらい一面に現れたのである。捕獲したイルカを解体して肉をとった跡、不要となった部分を打ち捨てたという様相である。200頭近くが確認されたこと、その種類は、カマイルカが最も多くて4割を占め、マイルカが3割ぐらい、ほかにはバンドウイルカ類や大きなゴンドウクジラ類も見られた。さらに下層の蜆(しじみ)ケ森式期の層からも沢山のイルカの骨が出土するし、上層の中期層や後期・晩期層でも残り具合が悪くて検出数が少なくなるが、やはり出土するので、縄文人がイルカの捕獲を行なっていたは知られていたが、このように大量に検出された例はない。ところで、真脇湾ではイルカを湾内に追い込み捕獲する負い込み漁が昭和初期まで行われていた。江戸時代の文献にも、当時、真脇がイルカの漁場として知られ、「イルカ回し」と呼ぶ、負い込み漁が行なわれていたことが記されている。近くに景観の似た湾があるにもかかわらず、イルカ漁が真脇湾においてのみ盛んであったのは、真脇湾の深いことと、この沖合いで大陸棚が狭くなっている海底地形が、真脇湾にイルカを呼び込んだことになるのだろう。真脇にイルカが寄り付くことが、この湾に人々を曳き付け、長期にわたり集落を営ませたのであろう。イルカの骨に混じって、サメ・カツオ・サバ・カジキ類のような外洋性魚類の骨も出土しているのは、真脇遺跡は高度な漁猟技術をもって海に生きた漁村集落だったことを物語っている。春先から初夏に掛けて、毎年群れをつくってやってくるイルカによって潤うムラ、それが真脇だったのである。
彫刻のある大きな木柱
鳥浜貝塚の遺物が示しているように、前期には既に高度な木工技術が獲得されていたのは明らかだし、出土してはいないが、海に生きた真脇人が丸木舟を備えていたことも間違いない(櫂は発見されている)ので、クリの大木に加工がされていることはさほど驚くに値しない。しかし、石棒を作り始め、土偶が数を増やし、土器に特殊の装飾をつけるなどの多くの事例から、縄文時代の中期には、すでに人々の心意活動が次第に顕著な姿を見せ始めていたことは了解していたが、宗教とも深く関わるかと思われるトーテムポール状の大きな木柱が早くも真脇の前期には作られていたことには驚かされる。木柱の上半部に横溝を巡らせ、この間に弧線二本を縦に彫っている。弧線は楕円の彫り込みを中心にした対称形になるようである。上半部の半面は欠けているので全容がつかめ難いが、動物などを具象的に表現したものでは無さそうである。北陸の中期の彫刻石棒との類似から、女性器と推定する考えもあるが、この彫刻文様が表現しているのは何だろうか。太い下半部1mが異存状態もよく、円柱形状のままなのは、この部分が土中に立てられていたことによるのであろう。このイルカの解体廃棄所のすぐ真近に立てられていたものが、役目を終え、投げ捨てられたか、或いは出水で流れ出たかであろう。真脇がイルカの豊漁を願い、イルカの霊を鎮める為に、海に向って立てられていたのではないかと想定することもある。
環状に並ぶ巨大な木柱
直径約7.5mの円上に等間隔で木柱を立て並べた遺構が、上層から検出された。晩期中葉の中屋式期のものである。調査区が限られていたので、実際に発掘したのは6本だけだが、全周では10本になるだろう。この木柱は、クリの幹を半裁したもので、弧を円の内に向けて立てている。木柱は太くて、弦長が80〜96cmもある巨大なもので、本来の高さはわからないが、残っている高さは80cmぐらいである。縄文時代に巨大なクリを半裁し、それを立てめぐらしていることは実に驚くべきことであるが、真脇のこの遺構と同じものが2年前にも石川県内で発掘されていて、それが寸分違わぬものであった。
チカモリ遺跡・立ち並ぶ巨大木柱
昭和54年、金沢市新保本町の調査で、347本の木柱が発掘された。殆どがクリ材で、断面形が円のもの45本、縦に半裁され、断面がカマボコ状のもの250本、半裁して、その内面を取り去り、断面がU字状になった樋状のもの52本などである。直径は20〜40cmクラスのものが圧倒的に多いが、中には60cm以上のものもある。本来の長さが解らないが、現在残っている長さは30〜60cm、木柱の最下部(柱根)だけが残っているのである。木柱の底部は、平坦である。磨製の石斧で切り倒したのであろうが、それを丁寧に調整している。木柱の下部に、横溝を1条掘り込んだもの、さらにこれに立て溝を3条ほど加えたもの、或いは小さな穴を開けたものもある。藤ツルが溝に巻かれたままの姿で残っているものもあり、伐採地で殆どの加工を済ませた木柱は、かなりの距離を引いて運ばれてきたのであろう。縄文時代の用材が、数千年を経た今日まで残ること自体、稀なことであるが、チカモリ遺跡ではこれだけの数と内容である。この遺跡は縄文時代後期後葉から晩期前半まで続くことが確認されているが、この木柱群は本当に縄文時代のものなのであろうかと、調査をした担当者の驚きも大きかった。
規則的な巨大な木柱列
木柱の中には、配列に規則性を読み取ることのできるものもある。直径4mくらいの円上に、10本ほどの半裁木柱を等間隔で立てたものが、12基確認できた炉は発見されていないが、住居跡であろうと推定されている。また、6〜8mと一段大きな円上に、8〜10本の半裁木柱を弧を円の中心に向けて立て並べたものが、重なり合いながら8基確認された。木柱の径は71〜88cmで、80cmのもが多く、配置は規則正しく、対称的である。A環と呼ばれる1基には、隣り合う柱2本に接して、断面がU字状の樋状の木を円形プランの外側に弧面を向き合わせて設置したところが一ヶ所ある。
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冬の集会所と食料貯蔵庫
巨木を用いられたこれらの遺構は、縄文時代でどんな機能を果たしていたのだろうか。小さな柱を環状にめぐらす遺構が12基もあって、住居跡と推定されている。この見方に従えば、巨大な木柱を環状に並べたものも、屋根を葺き、壁をもった建物ということになる。門構え状の施設は出入り口であろう。炉や床面が発見されていないのは、この遺構の上部が削られてしまっていたことによるのであろう。普通住居と推定されている遺構と環状に並ぶ大型の半裁木柱列との違いは、後者が集落の要の部分に建てられ、何度も同じ場所で立替ていることと、プランと用材が巨大であることである。直径90cmの木柱は、長さ3mで1トンくらいの重さになるというし、集落総出の共同作業でなければ作れなかったものであろう。このような条件を勘案すれば、集会や儀礼の場として集落の中心的機能を果たした家屋と言うことになるであろう。半裁柱は経済観からチカモリ遺跡で大量に半裁柱が発見されるまで、縄文人が用いた柱は丸柱と思い込まれていた。各地で行なわれている住居跡の復原も丸柱で行なわれているが、再考しなければならない。半裁木柱は、樹を真二つに割り裂いた弧の部分を丹念に削り取り、平滑に仕上げている。太いものでは、この削り取りが大きく、芯の部分を取り除いた格好になっている。意識されていたかどうかは不明だが、この作業は結果的に柱のヒビ割れを防ぐことになっている。2本の半裁柱は、1本の樹の幹を縦割りすることで出来る。案外この単純な計算が半裁柱が用いられる基本点なのかもしれない。1本から2本の柱が取れるだけでなく、運搬も、そして組上げにも労力は削減されるので、同じ労働量で巨大に見えるものを作りえることになる。半裁柱を環状に並べ、それを内側から見れば、円柱として充分に見られるものだから、差しさわりはない。1本の木から2本の柱が取れれば、切り倒されるクリの木は半分に押さえることが出来る。クリ材は柱に最適だがクリは縄文人の重要な食料の一つである。二つの問題を一挙に解決するやり方であった。巨大な木柱の中には、重量で柱が沈みこませないためにか、或いは傾きを調整したものか、板材を敷いたものがある。この板材は、クリ材を縦に割って作られているから、半裁木柱の半分は、この板材用にも必要であったのである。
北陸に広がる巨木文化
チカモリ遺跡と真脇遺跡は、直線距離で約80`の隔たりがあり、自然環境も違っている。それにも関わらず、あい似た環状に巨木を立て並べた遺構が発掘されたのは、両遺跡が共通の文化基盤のなかにあったことを示している。巨大な木柱を立て、大きな構造物を作ることは、信仰と儀礼行為で強い結束を保っていた縄文社会においてこそ行なうことのできた一種の無駄である。ムラ総出で木を切り倒し、割り、整形し、綱で引き、立てる。この一連の作業は、人々に強い連帯感を抱かせる役割を果たしたのであろうし、同じ行事を行なっていた北陸の人々の仲間意識も育てたであろう。北陸におけるこの強い結束が、稲作の受け入れを一時期遅らせたとも考えられる。
真脇遺跡(加藤 洋一著)
チカモリ遺跡の調査が終って2年後、調査報告書が作られていた昭和58年、同じ石川県の能登半島先端にあたる石川県鳳至郡能都町真脇の水田で縄文晩期の地層から直径88cmとチカモリ遺跡の記録を上回る縦割りの巨大柱根が見つかり、大騒ぎ、縄文期としては最高の複合遺跡として報道され、全国の注目を集めている遺跡だ。チカモリ遺跡に比べると、祭祀用具が多量に見つかり、縄文人の生活のほか、彼等の精神生活をもしのばせるのが大きな特長である。数多い祭祀用具の中で最も注目を集めたのが縄文後期初頭の層から出土した素焼きの土製仮面。右半分が欠落しているが、人がかぶれる大きさでほおの部分には固定するための紐を通したと思われる穴がある。この大きさの仮面の出土はこれまで岩手、青森、福島など7遺跡の七面と愛知県の川地貝塚の1面に限られる。真脇の仮面は太い眉と鼻、つり上がった目、顔面に施されたイレズミと見られる模様等造形技術が巧みで、ほおに渦巻き状の模様もある。しかも何れの出土例より古く、真脇の文化の先進性を示している。
巨大な柱は何だったのか
縦割りにした断面を外側に向け、集落の中心に並ぶ、巨大10本。一体何だったのか。今の所、はっきりしているのは、地上部分は柱が垂直に立っているだけ。チカモリ、真脇両遺跡からも梁などの補強物は見つかっておらず、建物であったかどうかすらわからない。何故周囲の住居に比べ飛びぬけて巨大な柱を立てねばならないのか@ イギリスにある巨石を環状に並べたストーンヘンジに似た環状列木(ウッドサークル)、A 鳥居のような祭祀用建物、B 大集会場、C まじないや儀式をした舞台、D 遺体を野ざらしにして葬る高床式の建物チカモリ遺跡では5、600年の間に、同じ形式で8回も建て替えられていることから、「集落の政権交代を示すものかもしれない」と推測する。「同時に築造技術を次の世代に伝承しただろう。周りに馬蹄型に並んだ住居郡があることを見ても集会場のような施設ではなかったか」。 いずれにしても、どの説も祭祀に関わる聖なる場所だったと見る点では一致する。ただはっきりしているのは、巨木を扱った縄文人には我々現代人の想像を越えるような「力」があったことだ。巨木の伐採から建立までの作業をこなすのには何十人もの男たちが、何日もかかりきりになったはず。その間、集落全体が食べてもいかれるだけの蓄えが必要となる。強力な指導者抜きには成り立たない。
真脇遺跡
巨大なクリ材が用いられ、蛇紋岩(じゃもんがん)を磨いて作った磨製石斧で、巨木を切り倒し、半裁にしている。柱には力強く振るわれた石斧の刃跡が明瞭に残っていたらしい。根元に巡らされている溝は、切り倒した樹木を山から引き出すために綱を掛けられたところで、かなりの長さがあったのであろう。発掘された柱根は直径90cmを越える太いクリの幹を縦に半裁したもので、木柱の弧面を全て中心に向けて立っている。柱は中心間隔で2mぐらいで立てられている。隣の柱との間は、僅か1.3mと狭い。直径90cmのクリ材一本の重さは、約」1屯にもなると言う。僅かに残っていた柱根を発掘後に取り上げるのに、大の男が3人掛かりであったという。
円形に巡る巨大柱は何なのか
半円形の線上に、同じ間隔で6本並んでいた柱は、直径7.5mの正方形上に10本が並んでいたようである。昭和55年(1980)に発掘されていたチカモリ遺跡の以降と、形も規模も全くよく似ていること。チカモリ遺跡は、直径8m位の円上に、直径80cm強の10本の半円形を規則正しく並べていた。新潟県の寺池遺跡から出土した巨大木柱とも比較される。
集会所か死者の墓場か
寺池遺跡の遺構は葬送祭祀儀礼と深い関係があると言われる。組石墓及び積石環状配石(墓)と推定される。遺体を葬るまで安置する喪がり斎場、葬送儀礼の場、又は風葬の場ではなかったかという。ということで、チカモリ遺跡でも土坑群が近接したり、真脇遺跡でも石組遺構が近くで発掘されている。
真脇遺跡やチカモリ遺跡でも、或いは寺池遺跡でも、木柱は1mぐらいの長さで残っているだけで、上が無い。だが引っ張る為の綱賭け溝があることや、柱を入れて立てた穴の深さが、真脇遺跡の場合80cmあるから、かなりの高さの柱が立っていたことが推定される。
遺物は地下1mから4mの泥炭層から数千年前の遺物が発見される。北陸での数少ない長期に渡る遺跡の発見である。水を含んだ土で、最下部の作業では苗代の中での作業みたいな状態であったという。発掘作業を進めるには嫌な水だが、この地下水があったからこそ、普通の遺跡では朽ちてしまう木製や自然遺物が腐敗せずに守られて来たのであった。
石で囲った縄文時代中期の炉が発掘されていた。炉から4m離れたところに男性のシンボルを模した大型の石棒が出土した。家の中に立てられていたのであろう。石組炉を掘り下げると、下から石組炉が現れ、重なって四基も出土したのである。
三番目の炉には、有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器という特殊な形態をした土器破片が敷並べてあった。復元の結果、全国的にも最大級の大きさの有孔鍔付土器であった。土砂の流入が激しく、短期間に埋まったことが、出土した土器から推測される。考古学の研究には好条件であった。
イルカ漁のムラを掘る・イルカの骨
4mの最下層からイルカの骨が出土。「何故、真脇の低地に人々がすみ続けたか」。真脇人たちが捕獲したイルカの解体場であり、廃棄場なのであった。即ち真脇はイルカ漁を行なっていたムラだったのです。江戸時代や明治時代の記録によれば、回遊してくるイルカを舟で湾内に追い込んで、かなりのイルカを捕獲していたのです。数百頭にも及ぶイルカの大量捕獲で、大量の肉や油は、一体どうしたのであろうか。全てが真脇のムラで消費されたとは考えられない。明治時代は、皮は油をとったり、なめし皮に、肉は塩漬けにして食用にしたり、干し肥料として、肉を掻き去った筋は乾燥して綿うち用の弦として、それぞれ販売されたという。縄文時代にも、真脇のムラは、イルカ漁を生業としていたのでしょうか。春から秋にかけて、イカやイワシの群れを追って、イルカが北陸の沿岸に近づく。まずカマイルカが、遅れてマイルカが姿をあらわす。浜辺に横たえられたマイルカは、体長1.8mぐらい。50cm程度の扱い易い大きさに解体され、分配されていく。筋肉は生でも食べられるし、焼いたりあぶったりしても美味しい。天日で乾燥させれば、数ヶ月の保存も可能。真脇のムラだけで全部が消費されるのでなく、他集落にも骨付きで分配された可能性も考えられる。真脇遺跡の土器を帯広畜産大学で、残存脂肪分析検査をした結果、縄文時代前期末の土器からはイルカの脂肪とシカの獣脂、中期初頭の土器からイルカの油脂が検出されたという。中期初頭の土器は、コレストロールの残存量が高いので、イルカの油脂の貯蔵容器であった可能性が極めて高いと、考察されている。イルカの骨がまとまって出土した前期末の層からは、土器が沢山発掘された。これらの器表面に黒い炭化物が分厚く張り付いていた。イルカの皮を煮て油をとった結果かもしれない。イルカの油は燃料として、又良質だから食料としても利用されていた。縄文人の生活は、全てが自給自足であったわけではない。黒曜石の石鏃が、蛇紋岩製の磨製石斧が、そしてヒスイの玉が、外部から真脇遺跡にもたらされている。食生活でも、保存できる食料品などは、他のムラと交換していたに違いない。真脇で採れたイルカの油が、交易品として遠隔地にも運ばれたと考えられる。
トーテムポール
溝が掘り込まれていることが判明。上半分に溝が三条横にはしり、一段目と二段目の間に、楕円形の彫り込みを囲むようにして弧線二本が縦に彫ってある。この弧線は反対側にもあったようであるが、この部分の裏側と上部が欠けていて、読み取れない。この彫刻柱は、根元1mぐらい遺存状態がきわめて良い。この部分が土中に埋められて、立っていたのであろう。倒れ流され朽ちたものであろう。奥深い真脇湾は、土砂の流入があっても決定的な環境変化とはならなかった。逆に、土砂の流入の激しさは、絶えず新たな陸地を水際に作り出し、海に向ったムラを存続させた。富山湾、真脇湾、背後の低い山地形が、この色々な自然の織り成しが、真脇ムラの長期にわたる存続を許してきたのである。 真脇人は、諸々の物の祈りを続けてきたことであろう。守護神の土面、家屋内や集会所の柱に掛けて祀られる。彫刻木柱には、彼等が伝えている神話が刻まれているのだろうか。或いは、イルカの豊漁を願い、海に向って立てられたのであろうか。この柱を巡って、普段は見られない衣装や飾り付けで、詠い踊ることであろう。祭りは一年間のリズムを作り出すのであった。即ち縄文人の祈りの心が込められているに間違いない。
(加藤洋一著他資料入手不明)