×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

先土器新石器文化 メソポタミアで 新石器時代始まる

完新世
メソポタミアで新石器時代始まる

       

   石器時代の最終末期である新石器時代の特徴は、食糧生産(農耕)と定住、家畜飼育、土器や磨製石器製作であり、とくに食糧生産が重要である。

  パレスティナを中心にみられる中石器時代のナトゥーフ文化では1万年ごろに集落ともいえる定住地をいとなんでおり、この地域では9000年以降、ヒツジやヤギなどの家畜化もみられる。しかし、これらはまだ採集経済のため新石器文化とはいえない。8500〜前8000年ごろ、ヨルダンのエリコやシリアでムギなど穀類の生産がはじまり、8000〜前7000年ごろに農耕文化が肥沃(ひよく)なメソポタミアに広がったと考えられている。

  人類最初の新石器時代のはじまりである。メソポタミアでの土器の出現は前7000年以降であるため、これらの文化は先土器新石器文化とよばれている。

    (14,000年前 - 12,000年前  日本列島で細石刃文化隆盛

  3万年ほど前からつづいていたナイフ形石器にかわり、北海道や西日本で細石刃(さいせきじん)とよばれる細石器がつくられるようになった。木や骨に溝をほり、そこに黒曜石などでつくった小さくするどい石刃を一列にさしこみ、大きな刃をもつ鎌(かま)や槍の穂先などにしたのである。このような高度な替え刃式の組み合わせ道具の登場は石器文化の円熟期をしめす。とくに北海道では、大陸からの影響をうけて成立した湧別技法(ゆうべつぎほう)のほか、多様な細石刃製作技法がみられる。細石刃文化は、1万3000年前ごろには日本各地に広がっていった。)

     前7500年頃

     エリコに防壁大集落

      ヨルダン川西岸にあるエリコは、はやくから穀物栽培をおこなっていたといわれる定住集落遺跡だが、前7500年ごろには2000人ほどが住む広さ約4haの大集落へと発展した。集落の周囲には高さ約4mの防壁を石できずき、高さが8.5mもある望楼をそなえていた。望楼のまわりには堀をめぐらせていたことがわかっている。西アジアの新石器時代初期の遺跡で、集落内には墓もあり、都市遺跡の始まりとされる。

メソポタミア文明

ギリシャ語で「2つの川の間」を意味するメソポタミアは、ティグリス川とユーフラテス川にかこまれた地域をさし、現在のイラクの大部分と、シリアおよびトルコの一部をふくむ。最初の農耕社会の成立は前8000年ごろまでさかのぼり、前3100年前後には、シュメール人によって世界最古の都市文明がきずかれた。

 メソポタミア Mesopotamia 

メソポタミアとはギリシャ語で「河の間」を意味し、ティグリス、ユーフラテス両河にはさまれた、現在のイラクとシリア東部の地域をさす。前4千年世紀末この地で世界最古の都市文明が誕生し、その後多くの文明が興亡をくりかえした。

トルコからながれでる全長1850kmのティグリス、全長2800kmのユーフラテス両河は、水源近くでは約400kmの間隔をおいて南東方向にながれ、ペルシャ湾の手前200kmほどで合流し、以後はシャッタルアラブ川となる。川筋や平原は毎年一定の時期に洪水になりやすく、北部や東部は丘陵地帯、西側は砂漠や乾燥した草原地帯、ステップとなっている。肥沃(ひよく)なメソポタミアの地は近隣諸民族の標的となり、流入や侵略がくりかえされた。この地域の大部分は一時期をのぞき年間を通じては雨にとぼしいが、用水路によって灌漑(かんがい)されると、肥えた土地は豊かな作物をもたらした。南部ではナツメヤシがそだち、食物、繊維、木材、飼料を供給した。両河では魚が、南部の沼地では水鳥がとれた。このようなめぐまれた自然を背景としてメソポタミア文明は誕生、発展した。

     メソポタミアの初期国家

    古代のメソポタミア南部では、土地を灌漑するために用水路網を整備することと、他民族の侵入をふせぐために城壁をもった居住区が必要だった。初期農耕をおこなう防壁集落がエリコで前7500年ごろからはじまり、前4千年紀末には都市に成長した。都市としてのもっともよい例はウルクにみられる。そこでは日干しレンガで神殿がたてられ、金属や石材の加工がおこなわれ、また行政的な必要から楔形文字が発明された。この初期の都市文明はシュメール人(→ シュメール)によってきずかれ、しだいにユーフラテス川北部へとひろがっていった。主要なシュメールの都市には、ほかにアダブ、キシュ、ニップール、ウルなどがある。

 前2335年ごろ、この地域はメソポタミア中央部からきたセム系のアッカド人に征服され、サルゴン(在位、前2335頃〜前2279頃)がアッカド王朝をひらいた。この時代にはアッカド語がシュメール語にかわって主流になった。しかし、東部の山岳民族グティ人がアッカド人の支配をおわらせ、その後しばらくしてシュメール人のウル第3王朝がメソポタミアの大半を支配した。この王朝において、シュメール人の伝統的な文化は最後の花をひらく。

 前2004年ごろ、ウルの町はイラン南西部から侵入してきたエラム人によって破壊された。ほかのシュメール都市はことなるいくつかの民族に支配され、どの都市国家もメソポタミア全体を支配するにはいたらなかった。その後バビロンのハンムラピ(在位、前1792〜前1750)が治世の晩年に国土を統一したが、まもなく小アジアにおこった新興勢力のヒッタイトに略奪され、前1595年ごろ、バビロンは陥落した。その後の4世紀間、バビロンは非セム系のカッシートの支配をうけた。いっぽう北部のアッシュールでは、カフカス方面からきたフルリ人がミタンニ王国をおこした。フルリ人はアルメニア人に近いとされ、メソポタミアに何世紀も前からすんでいたが、前1700年以降は北部メソポタミアからアナトリアにまでひろがった。

        アッシリア、カルデア帝国

   北部メソポタミアのアッシリア王国は前1350年ごろから勢力を拡大しはじめた。ミタンニをやぶり、バビロンを征服し(前1225頃)、地中海にまで領土はひろがった(前1100頃)。ところが、シリアのステップからあらわれたアラム人がアッシリアの拡大をとめ、その後2世紀にわたって、民族的に近いカルデア人とともにバビロニアを支配した。アッシリアは防衛のためにこれらの勢力とたたかって侵入をゆるさず、前910年以後ふたたび勢力は拡大した。最盛期のティグラトピレセル3世のときには、エジプトからペルシャ湾までの中東を支配する世界帝国となった(前730頃〜前650頃)。

 アッシリアは、征服した土地の住民をアッシリア本土に移住させ、あとにはほかの地域の住民をいれるなどして支配を強化した。それは結果的には帝国全土にわたって人種の融合をすすめることになった。また、たび重なる反乱に対処するため、強力な軍隊機構がつくられた。しかし、広大な国土を長い間維持しつづけることはできなかった。国内でイラン系のメディア人やバビロニアのカルデア人が勢力を拡大し、前612年にアッシリアはこれらの勢力によって内部から崩壊した。帝国の領土は2つにわけられ、山岳地方はメディア人が領有し、メソポタミアはネブカドネザル2世ひきいるカルデア人が領有した(新バビロニア)。ユダ王国を征服した前586年には、住民を強制的にバビロニアに移住させている(バビロンの捕囚)。いっぽうカルデア人は前539年までメソポタミアを支配したが、キュロス2世ひきいるペルシャがバビロンを攻略し、メディア王国もほろぼした。

        ペルシャの支配

メソポタミアとペルシャ帝国

ギリシャ語で「河の間」を意味するメソポタミアは、ティグリス川とユーフラテス川にかこまれた地域をさし、現在のシリア東部、トルコ南部、イラクの大部分がふくまれる。最古の共同体は前6000年ごろまでさかのぼる。その後いくつかの文明が繁栄したが、前6世紀に当時世界最大の領土をほこっていたペルシャ帝国の一部になった。

  

        ギリシャ・ローマ時代

    前331年、アレクサンドロス大王がペルシャを征服したあと、メソポタミアには大王の部下セレウコス1世によるギリシャ人の王朝(セレウコス朝)が誕生した。ティグリス河畔のセレウキアをはじめ12の都市がつくられ、ギリシャ文化がもたらされた。新しい交易と繁栄がはじまり、主要な運河網がつくりなおされた。前250年ごろ、パルティアがセレウコス朝からメソポタミアをうばい、ローマ帝国に対抗する勢力となった。パルティアの支配者(アルサケス朝)は国内をいくつかの自治領主による国家にわけて統治し、その中でギリシャ文化とイラン(ペルシャ)文化がまざりあった。

  パルティアはローマ帝国の攻撃はしりぞけたが、後226年、ササン朝ペルシャにほろぼされた。ササン朝ペルシャの領土は6世紀のホスロー1世の時代にはユーフラテス川から今日のアフガニスタンまでおよんだ。官僚体制による効果的な統治と、運河の建設や干拓などの灌漑事業によって帝国は繁栄した。しかし北部ではローマの属州シリア(東ローマ帝国の一部で、395年ビザンティン帝国となる)との間で紛争があり、砂漠地帯の国境ではアラブ民族との戦いがあった。結局アラブがササン朝ペルシャをたおし、イスラム教という新しい宗教をメソポタミアにもたらした。

      中世から現代

    7世紀のメソポタミアは、ダマスカスを首都とするウマイヤ朝のカリフ(教主)に支配された。多くの種族がこの地にうつりすみ、アラビア語がギリシャ語やペルシャ語にかわって公用語となった。その後、イスラム教徒の内紛によって、バグダッドがアッバース朝カリフのもとでイスラム帝国の中心となった。歴代カリフはトルコ人の護衛兵をやとい、しだいに勢力をえたトルコ人は、この地域に自らの王朝をうちたてた(セルジューク朝)。1258年モンゴル族がバグダッドをやきはらったあと政治的な衰退がはじまり、ベドウィンや再度のモンゴル人の攻撃によって運河網が破壊され、農地が荒廃した。

 16〜18世紀には、メソポタミアの支配をめぐりオスマン帝国とサファビー朝があらそったが、オスマン帝国の勝利におわった。第1次世界大戦中はイギリス軍が激戦のすえこの地域を占領した。その後、国際連盟によってイラクはイギリスの、シリアはフランスの委託統治となった。イラクは1932年、シリアは46年に独立した。

     エジプト、メソポタミア

     古代エジプトでは神殿は巨石をつみあげてつくられた。カルナックのアメン大神殿(前1570頃〜前1070頃)のように、何代にもわたって増改築がつづけられたものもある。ナイル河畔には多くの神殿が建造されたが、とりわけディール・アルバフリーのハトシェプスト女王葬祭殿(前1478頃)の超人的な規模は、畏怖(いふ)の念をおこさせる。周囲にほどこされた浮彫と壁画は神々と支配者たちとの特別な関係をものがたっている。

古代メソポタミアの神殿はジッグラトとよばれる階段状の建造物であった。現存最古の実例はイラクのウルにあるナンナルのジッグラトである。

ハトシェプスト女王葬祭殿

古代エジプトの埋葬用の石造寺院で、前1478年ごろ、テーベの近くのディール・アルバフリーに建造された。この寺院は、柱廊でささえられた3段のテラスからなり、周囲には女王の治世中やその後も、何年にもわたって樹木や花が植えられた。

      ギリシャ

 前7世紀以来、古代ギリシャ人は周囲に列柱をならべた長方形プラン(平面図)で、切妻屋根をかけた神殿をたてた。そのもっとも完成された形は、アテネのアクロポリスにあるパルテノン神殿(前447頃〜前432頃)にみられ、この形式はその後の美術史上に長く継承された。都市の高い丘(アクロポリス)に大理石できずかれたギリシャ神殿は、優雅な均整美によって名高い。ふつう3段の基壇をもち、その上に列柱と神像安置所の壁がもうけられる。切妻屋根の破風や軒下の小壁は浮彫や彫像でかざられる。ギリシャ建築でもちいられた円柱装飾様式(ドリス式、イオニア式、コリント式)は、その後の古典主義建築の規範となった。

      ローマ

 初期のローマ神殿(前4世紀〜後3世紀)は、ほとんど完全にギリシャ神殿の模倣である。しかしギリシャ神殿との相違は、基壇の前面にだけ階段をもうけて、正面のみを強調した構成にある。ローマのすべての都市にはこのような形式の神殿が、高い丘の上にではなく、町の中心部につくられていた。

ローマ神殿の様式を模倣してつくられた建築物は無数にあるが、とくにフランス南部ニームにある有名なメゾン・カレ(「方形の邸」の意)は多くの建造物の手本となった。その一例は、トマス・ジェファソンの設計によるリッチモンドのバージニア州議事堂である。

ギリシャ・ローマの神殿建築は、たんに歴史的な関係だけではなく、その厳格な対称性と安定した構造によって、ヨーロッパ建築にひじょうに大きな影響をあたえている。それらは何世紀にもわたって西欧文明の象徴として存在しつづけてきた。

      インド

    インドにおける主要な仏教建造物はストゥーパとチャイティヤである。ストゥーパは聖者の遺骨や遺品をおさめるためにたてられた半球状の建築物で、サーンチー第1塔(前3世紀〜後1世紀初頭)はもっとも有名な現存例である。ストゥーパの基壇の周囲には巡礼者がめぐりあるく回廊がもうけられている。いっぽうチャイティヤは、一般にカールレーの第12窟(2世紀初頭)のように石窟寺院である。歩廊からへだてられた奥に、仏舎利塔がまつられている。ストゥーパもチャイティヤも浮彫で豪華に装飾されている。

    ヒンドゥー教寺院の方形で左右対称の広大な境内には、高くそびえる本殿のまわりに多数の付属施設が配置されている。代表例はブバネシュワルのリンガラージャ寺(1000頃)である。中央にある本殿は、頂華のあるドーム状の小尖塔をもち、石造噴水塔を思わせる。この形式は北インドにひろくみられるものである。南インドでは、高塔と豪華な装飾をほどこした楼門を特徴とする。西インドの大理石造のアーブー山寺(13世紀)のようなジャイナ教寺院の方形境内には、行者のつかう小さな庵が多数ならんでいる。中心軸上には歌舞殿門、前殿、本殿が1列にならんでいる。

   仏教建築はアジア諸国にもみられる。インドネシアのジャワ島のマゲラン近郊にあるボロブドゥールは、9世紀にインドのグプタ朝様式でつくられた。階段状をなす寺院の構成は仏教の宇宙観を象徴し、最上段に位置する仏塔の周囲を小さな仏塔がとりまいている。

     ボロブドゥールの建築はカンボジアのクメール族の寺院に影響をあたえた。そのひとつ、アンコール・ワット(12世紀前半)は周囲に回廊をめぐらせた3層の段台からなる。初層には低い塔を配し、第2層にはやや高い塔、第3層の中央にもっとも高い塔を配す。外壁には浮彫が一面にきざまれている。

      中国、日本

     古代中国では宗教建築よりも世俗建築が主流であった。仏教がはじめて伝来したときに寺院として利用されたのは中国の伝統的な建築であったが、のちに仏像を安置するために壮大な仏寺がつくられた。木造建築では多数の垂直の持送りをつけた柱を複雑にくんで屋根をささえるが、その微妙な細工によって、中国や日本の建築の特徴である優美な屋根の曲線が生まれる。寺院の中心には多層の高楼として仏塔もたてられ、外にはりだした檐(のき)がうつくしいシルエットをつくりだす。円形の建築もめずらしくはなく、たとえば北京の天壇祈年殿(1420。再建1890)は円錐形の屋根をもっている。

      日本の宗教建築は中国の伝統の影響を強くうけているが、神社建築には日本古来の様式が比較的正確にのこされている。これは伊勢神宮の社殿のように、一定年度ごとにもとの形式に忠実にたてかえる風習があるからでもある。寺院には本尊をまつる金堂と、仏骨(舎利)をおさめる多層の塔がつくられた。古代建築にみられる大工や職人の技術には卓越したものがあり、かや葺(ぶ)き、こけら葺き、瓦葺きなど屋根の種類も豊富である。寺院の内部装飾は豪華ではあるが、おおむね、形態にむだのない明快さが重んじられている。

     メソポタミア神話

     メソポタミア神話 メソポタミアしんわ エジプトとともに西アジアの古代文明の揺りかごとなったメソポタミアは、ティグリス、ユーフラテス両河にはさまれた地域(ほぼ現在のイラク)である。前3000年より前、シュメール人がこの地に最初の文明を開き、高度な文明のあかしとなる独特の楔形文字を考案して粘土板にきざんだ。

     やがて、ヘブライ語やアラビア語と同じ系統の言葉を話すセム語族系のアッカド人がやってきて、シュメールの都市を征服してアッカド王朝をきずいた。数百におよぶ神々をもつ多神教のシュメール人の信仰は、楔形文字とともに、アッカド人に継承された。

      つづいて前2000年ごろには、メソポタミアの南部にバビロニア、北部にアッシリアがさかえた。とくにバビロニアでは、シュメール語で伝承されてきた小さな物語が編纂(へんさん)され、「エヌマ・エリシュ」や「ギルガメシュ叙事詩」のような、メソポタミアの神話を代表する壮大な作品がつくりあげられていった。

アッカド王朝の印章

メソポタミアのアッカド王朝第5代シャルカリシャリ王の円筒印章とその陰影。図像は神話に題材をとっており、王と水・知恵の神エンキ(エア)の家来ふたりが2頭の水牛に水をのませている。楔形文字(くさびがたもじ)は「けだかく偉大なアッカド王シャルカリシャリ、書記のイブニ・シャルム、その下僕」。前23世紀。ルーブル美術館所蔵。

      シュメールにつたわる人類起源

    シュメール人たちの神話によれば、天と地ができたのちに、ティグリス、ユーフラテスの両河がつくられた。天には、天神アン、大気の神エンリル、太陽神ウトゥ、地と水の神エンキがいて、人間をつくるための会議をした。その結果、2柱のラムガ神の血から人間をつくることになった。そして神殿をたてて運河や畑をつくらせ、国を豊かにするため神々にかわって人間にさまざまな労働をさせるよう、女神アルルが計画した。

      こうして人間がつくられると、天からは穀物や学問の女神ニダバが派遣された。当初は、穀物も家畜もなかったが、エンキ神とエンリル神が家畜をつくって囲み小屋にいれ、穀物神アシュナンは、田畑に食物をふやした。こうして人間は土の家をたてて、しだいに豊かになっていった。

     前1792年頃 - 539

     バビロニア文明(メソポタミア文明)

     バビロニア文明はシュメール文明をうけつぎ、メソポタミア南部のティグリス川とユーフラテス川流域を中心にさかえた。そのため、両文明はあわせてメソポタミア文明とよばれることも多い。中心都市バビロンは前1894年ごろに都市国家として独立したが、バビロン第1王朝の首都として絶頂期をむかえるのは、強固な中央集権君主制をしいたハンムラピ王(在位前1792〜前1750)がバビロニアを統一してからである。後継王たちは、ハンムラピの遺産をまもったが、前1595年にヒッタイトの略奪にあい、第1王朝期がおわる。前16世紀半ばごろから前1155年まではカッシートの王朝に支配されたがバビロンの繁栄はつづいた。アッシリアの支配時代をへて、前7世紀後半からはじまる新バビロニア時代のネブカドネザル2世のときに文明は頂点に達し、伝説にのこる空中庭園などがつくられる。前539年、新バビロニア王国はペルシャのキュロス大王に占領され、滅亡した。しかし、文化的な影響力はその後数世紀にわたってのこった。

     メソポタミア文明

  メソポタミア文明 メソポタミアぶんめい メソポタミアにおこった世界最古の文明。四大文明のひとつで、シュメール文明(シュメール)やバビロニア文明(バビロニア)など、メソポタミアで花開いた高度な文明はあわせてメソポタミア文明とよばれる。この地域では、紀元前8000年ごろには農耕がはじまっていたが、前3100〜前3000年ごろに、青銅器や文字を使用するシュメール人の国家が成立、シュメール文明が誕生した。前2335年ごろ、アッカド王サルゴン1世がメソポタミアを統一して中央集権国家をつくり、前1763年ごろにはバビロニアのハンムラピがこの地を統一、それ以降、バビロニア文明が花開いた。メソポタミア文明では楔形文字のほか、太陰暦や太陰太陽暦、七曜制、60進法も生み、エジプト文明、インダス文明の誕生にも影響をあたえた。



         完新世

        第四紀は別名で氷河期とよばれる更新世(164万年前〜1万年前まで)と、後氷期(氷期)ともよばれる完新世(1万年前から)とにわけられる。

        70,000年前 - 8000年頃

        最終氷期

        第四紀更新世の最後の氷期である。

        第三紀 だいさんき    新生代の地質年代の区分。約6500万年前から約164万年前までの間をさす。

        第四紀 だいよんき     「だいしき」と読むこともある。新生代の地質年代区分のひとつで、第三紀のあとにつづく。約164万年前から現在までをさす。

      第四紀は別名で氷河期とよばれる更新世(164万年前〜1万年前まで)と、後氷期(氷期)ともよばれる完新世(1万年前から)とにわけられる。(日本では更新世を洪積世(こうせきせい)、完新世を沖積世(ちゅうせきせい)とよぶこともある。)

      前8000年頃

      完新世の始まり

       完新世は約1万年前にはじまり、現在にいたっている。この時期の気候は全般に温暖だが、グリーンランドと南極大陸は氷床におおわれている。完新世では温暖な時期と寒冷な時期がくりかえし交互におとずれている。

            13,000年前 - 400年頃

         縄文時代

    日本列島では、旧石器時代につづいて1万3000年前ごろから土器がつくられるようになり、縄文文化がはじまった。食物の煮炊きや保存につかえる土器の使用は、当時の人々の生活を大きくかえ、生活文化の一大転換となった。縄文人たちの多くは日当たりのよい台地上の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)にすみ、主として狩猟や漁労、採集によって生活をしていた。

   最近十数年の研究の進展から、彼らの生活は狩猟や採集以外にも原始的な農耕やクリ林の管理栽培、活発な交易などをおこない、また高度な漆工芸や大型建築物など多様な生活技術を駆使して環境変化に適応していたことがわかってきた。集落もこれまで考えられていたものより、はるかに大規模で長期間にわたるものが次々にみつかっている。

   また縄文時代前期の地層からイネやムギの存在をしめすプラントオパールが検出されるなど、原始的な穀物生産の可能性をひめた証拠もみつかっており、縄文時代の生活・文化といった全体像について再評価がすすめられている。青森県の大平山元T遺跡(おおだいやまもといちいせき)から出土した土器片が、最新の科学的年代測定法で前1万4500年(1万6500年前)ごろのものとされるなど、縄文時代のはじまりもさらに古くなる可能性がある。

        8000年頃 - 7000年頃

        地中海東部海岸で交易が活発化

        人々が定住生活をはじめる新石器時代になると地域的な分業化がすすみ、産地のかぎられた貴重な天然資源と農産物などとの交易が活発化していった。とくに地中海の東海岸部にあるパレスティナは、地中海沿岸部と内陸部をむすぶ交易の中心としてさかえた。死海の塩、シナイ半島のトルコ石、石器の原材料となるアナトリア半島の黒曜石などが重要な交易品で盛んに取引された。

        8000年頃

     メソポタミアで新石器時代始まる

       石器時代の最終末期である新石器時代の特徴は、食糧生産(農耕)と定住、家畜飼育、土器や磨製石器製作であり、とくに食糧生産が重要である。パレスティナを中心にみられる中石器時代のナトゥーフ文化では前1万年ごろに集落ともいえる定住地をいとなんでおり、この地域では前9000年以降、ヒツジやヤギなどの家畜化もみられる。しかし、これらはまだ採集経済のため新石器文化とはいえない。前8500〜前8000年ごろ、ヨルダンのエリコやシリアでムギなど穀類の生産がはじまり、前8000〜前7000年ごろに農耕文化が肥沃(ひよく)なメソポタミアに広がったと考えられている。人類最初の新石器時代のはじまりである。メソポタミアでの土器の出現は前7000年以降であるため、これらの文化は先土器新石器文化とよばれている。

    新石器時代

     新石器時代は前8000年ごろにオリエントで、中米で前6000年ごろ、中国でも前6000年以前にはじまったと考えられている。このころ農耕や家畜飼育がはじまり、自給自足の食料生産経済へ移行した。また打製石器のほかに磨製石器がつかわれるようになる。メソポタミアでは前6000年には土器がつくられ、このころ、銅器が各地でつかわれはじめる。青銅は、銅とスズの合金だから、銅の冶金技術(やきんぎじゅつ)が青銅器時代へ移行するため必然的なものだったのである。

      磨製石器使用や定住しての農耕の開始、土器の出現を新石器時代の特徴とする説が強いが、これらはかならずしも同時におこっているわけではない。なお、日本では1万3000年前ごろからの縄文時代に土器がつくられはじめるが、金属器の使用や明確な農耕などは弥生時代になるまでおこなわれておらず、新石器時代とすることは困難である。

       中石器時代

      1万2000年前ごろに氷河が後退しはじめ、中石器時代がはじまる。気候が温暖になると、ヨーロッパの大部分が森林になるなど食料が豊富になった。ヨーロッパではひじょうに小さい石器(細石器)が、シベリアや日本ではこの細石器の一種である細石刃(さいせきじん)が隆盛する。この時代は新石器時代への過渡期にあたり、依然として狩猟採集生活を主としており、農耕がまだおこなわれず、磨製石器も使用されていなかった。そのため石器時代を旧石器時代と新石器時代にわけ、中石器時代をもちいない学者もいる。

    旧石器時代

     旧石器時代がもっとも長く、250万年以上前に猿人が石器をはじめて使用したときにはじまり、約1万2000年前までつづいた。この時代は狩猟採集生活をしており、はじめは自然石の端をうちかいて刃をつけたものを、やがて小型の剥片(はくへん)に加工してナイフ状にしたものなど単純な石器がつかわれていたが、人類の進化とともに、さまざまな石器が用途にあわせてつくられた。