アステカカレンダー メキシコ

アステカ王国

最盛期のアステカ王国は、現在のメキシコ中央平原の大半を領土におさめ、グアテマラの北部にまで勢力をのばした。

     人間は運命に支配される。

  その思いが、古代の人々に数限りない神殿を建てさせ、多様な宗教と複雑な宇宙観をつくらせた。

  複雑怪奇な宇宙観を凝縮したアステカのカレンダー。

  重さ24トンの石である。

中央アメリカ、いまはメキシコに住んでいた古代アステカ人は、現在の太陽の前に四つの太陽が死んでおり、五番目の現在の太陽も終末に近づいていると考えていた。

  右上から、時計の反対まわりで、死んだ四つの太陽を表す。

  死にかけている中央の現在の太陽を力づけるには、人間の生き血が必要だと彼らは考えた。

  そして凄慘な人身御供、人間のいけにえを太陽に捧げる儀式を毎日行ったのである。(NHKエンタープライス「未来への遺産」)

アステカ王国  1427 - 1521

   トルテカ文化がほろんだ13世紀ごろ、北方からアステカ(メシカ)の人々がメキシコ中央高原、テスココ湖地方に移住してきた。彼らは1325年にテノチティトランを建設、それが現在のメキシコシティになっている。ここから発展したアステカ王国は1427年に中央高地を統一し、やがてメソアメリカ全域を支配する強国になった。このころ南米では、現在のペルーを中心にインカ帝国の全盛期であった。アステカ王国は1521年、スペインの征服者エルナン・コルテスひきいる軍隊に首都テノチティトランが攻略され滅亡した。

    アステカ王国

   14世紀、アステカ族(メシカ)は現在のメキシコシティ中心部にあったテノチティトランを首都とする王国をきずいた。最盛期には、王国の勢力は、現在のメキシコ中央平原からグアテマラ国境にまでおよんだ。

   メキシコ中央高原では、10〜11世紀にさかえたトルテカ文明がほろんだのち、異民族がテスココ湖地方に次々と侵入してきた。いちばんおくれてやってきたのがアステカの人々であり、彼らには湖の西側の沼地しかのこされていなかった。かろうじて小さな島にすみついたが、まわりの強力な部族集団に対して貢ぎ物をしなければならなかった。

この当初のみじめな状態から200年ほどの間に、アステカは強大な国家を建設していった。彼らは、ある伝説を信じていた。沼地の岩にはえているサボテンに蛇をくわえた鷲(わし)がとまると、そこに偉大な文明が生まれるという伝説である。アステカの神官は、その沼地で、まさに伝説のとおりの鷲の姿をみたと人々につげた。この話はいまでも語りつがれており、メキシコの紙幣にはサボテンと鷲と蛇がえがかれている。

   やがてアステカの人々はすぐれた軍事組織と行政機構を確立し、1325年には都テノチティトランを建設した。それが現在のメキシコシティになっている。

   アステカの人々は湖の浅瀬をうめてチナンパという人工の島をつくり、都を建設した。湖底の泥をすくいあげた畑の土壌は肥沃(ひよく)で、高い生産性が得られた。島とまわりの陸地をむすぶために橋や土手がきずかれ、都の内部には人工水路がはりめぐらされた。人の移動や荷物の運搬は水上交通によっておこなわれていた。のちにこの都をみたスペイン人は、「新大陸のベニス」とよんだ。都の中心にそびえたっていたのは多くの巨大な宗教建築である。石灰岩の切石で表面をかざった階段構造のピラミッドがたちならび、その上には神殿がつくられていた。

アステカの都は立地条件にもめぐまれ、政治や経済の組織も発達して、大いにさかえた。1519年、征服者コルテスにひきいられたスペイン人がやってきたとき、テノチティトランの市場は、毎日6万人の人でにぎわっていたという。アステカが征服した各地の領土からは数多くの品物が租税としてはこびこまれてきたし、広く中央アメリカ一帯にさまざまな交易物資がおくられていった。

アステカの都テノチティトランの神域(CG)

テノチティトランは、現在のメキシコシティにあり、14世紀にテスココ湖上の小島や浅瀬をうめて建設されたアステカ王国の首都である。中央部には政治の中心でもある400m四方ほどの神域があり、大ピラミッド(大神殿)や多くの神殿、祭壇がたちならんでいた。神殿では、神に生けにえをささげる儀式がおこなわれた。

Encarta Encyclopedia

大成建設

暦石の絵文字

    古代のメソアメリカにさかえたアステカ文化は、複数の時が重なりあって循環する複雑な暦のシステムを発達させた。このアステカの暦石は、重さが22t以上もある玄武岩製で、中央に現在と過去をあらわす太陽神が描かれている。太陽の周りを何重にもとりまく輪(一部に絵文字がついている)の区切りは、アステカの時の区切りをしめしている。