大和征服王朝・其の4 久慈力

   アテルイの戦い。               

   植民者たちは「蝦夷征伐」の先頭に立つ

  大和朝廷のエミシの生活圏に対する植民政策は、朝鮮半島からの移民が激しくなった七世紀の中頃から始まっているが、これに対するエミシの組織的抵抗は続いた。殺略され、奴隷化され、土地を奪われ、自然を荒らされるから当然である。

 日高見国は大和朝廷からは「化外」とか「外番」とかいわれ、大和国家に組み込まれ無い言わば外国のように扱われてきた。しかし、先住民からいえば、大和国家こそが、日本列島に侵入してきた「化外」「外番」であったと言える。彼等を構成した天皇家、公家、豪族、高級官僚・神官・軍人の殆ど全てが「渡来人」侵略者である。

  多賀城は、城柵の中でも別格であり、国府であるだけでなく、鎮守府でもあった。それは民政と軍政を兼ねる「武装国府」であり、朝廷の武装植民政策の最大の拠点であった。植民政策の実施の為に派遣された按察使、常陸守、征夷将軍、鎮守府将軍などは、大伴氏、藤原氏、坂上氏、紀氏など大和朝廷を構成する豪族が務め、彼等の祖先は朝鮮半島や中国大陸からの植民者でもあった。その代表が百済の亡命王族の百済王敬福、俊哲、文鏡らであった。

    朝廷に衝撃を与えたアザマロ

 「日高見国」のエミシによる朝廷軍への抵抗は、八世紀初頭から始まっているが、大和朝廷に壊滅的な打撃を与えたのは八世紀末である。

 「三十八年騒乱」といわれるほど、長い激しい戦争であった。国史はこの騒乱の原因について真実を語っていないが、それは大和朝廷の側からは土地と資源を略奪する植民地侵略戦争であった。エミシの側からは大和朝廷による侵攻・掃討・略奪・隷属製作に対する自衛抵抗戦であった。

 植民者に都合の良く描かれた、「続日本紀」「日本後記」の記事を見てみる。

 709年(養老4)、陸奥のエミシが反乱を起こし、按察使の上毛野広人を殺した。

  724年(神亀元)、海道(現在の宮城県牡鹿・桃生地方)のエミシが反乱を起こし、藤原宇合を特使大将軍として坂東から三万の兵を集め、エミシを征伐した。

  770年(宝亀元)、海道エミシ、宇漢迷公宇屈波宇(うかんめのきみうくはう)らが「同族を率いて、必ずや城柵を侵す」と言って、桃生城から「賊地」へ逃げ帰った。

  いよいよ「三十八年戦争」の幕が切って落とされる。エミシの組織的な抵抗が開始されたのである。

  776年(宝亀7)には、志波(現在の岩手県紫波郡)エミシが朝廷軍を打ち破った。

  780年(宝亀11)には、伊治(これはり)城の造営やエミシの掃討に協力した伊治(現在の宮城県栗原地方)エミシの砦麻呂(あざまろ)が、道嶋大楯(みちしまのおおだて)から「夷俘」とことごとにさげすまれたため、胆沢の吉弥候伊佐西古(きみこのいさしこ)らと共に反乱を起こし、大楯や按察使・参議の紀広純(きのひろずみ)をも殺害する。さらに多賀城に攻め入って炎上させた。陸奥、出羽の各地でこれに呼応する反乱が起きた。朝廷軍は数万人の大軍を派遣したが、ほとんど戦果をあげられずに終った。これらの反乱は朝廷に大きな衝撃を与え、光仁天皇が退位に追い込まれ、桓武天皇が即位する。

  781年(天応元)5月には、エミシ軍のゲリラ戦に悩まされた征東大使の藤原小黒麻呂は、朝廷に次のように報告している。まさに「一をもって千に当たる」勇者たちである。「私たちが相手にしている夷俘は、非常に始末の悪いものです。時には、蟻のように集まり、首領の命令一つで大暴れします。ところが、私たちが本腰を入れて攻め入ると、彼等はちりちりになって山野に隠れてしまいます。私たちの軍政があきらめて退くと、思いもよらないところに出現して、城柵に不意打ちをかけるのです」

    アテルイはヒタカミ種族の指導者

  桓武天皇の延暦年間に、胆沢(現在の岩手県胆沢地方)エミシが、10倍以上の朝廷軍を向こうに回して、互角以上に戦い、大勝利をあげた戦いは日本列島でも最大の先住民抵抗戦争であった。

 この戦争を指導したのが、胆沢エミシの族長、アテルイであり、モレであった。彼等は胆沢の部族連合、ヒタカミの種族連合の戦士を見事に組織し、神出鬼没のゲリラ戦によって、大和朝廷に大打撃を与えた。

 日高見国の中心部、現在の水沢市、江刺市、胆沢町、平泉町、前沢町、金ケ崎町の地域にも、八世紀には大和朝廷の支配の波がひたひたと押し寄せてきた。この地域は、もともと縄文中期には三内丸山文化圏、縄文晩期には亀ケ岡文化圏に位置し、縄文人の生活圏であり、縄文文化の根強い地域であった。

 しかし、「水陸万頃」(すいりくばんけい)の胆沢地方にも水田稲作、古墳文化、律冷体制が、縄文文化を次第に突き壊す勢いであった。族長たちの一部は官位や姓名をもらい、金や馬や宝飾品や鉄製武器、農具、馬具の取引に手を染めていた。

   

   エミシ関連の地図

  エミシの族長が埋葬されたと思われる「蝦夷塚古墳」は、古墳全体の大きさが直径10m程度、遺体を埋葬した石室は河原の石積が施され、副葬品には金環・銀環・ガラス小玉・琥珀玉・金箔ガラス玉などの装身具、刀類、などの武器・轡(くつわ)・鐙(あぶみ)・帯先金具などの馬具、鋤、鎌、鉄斧などの農具、エミシ独自のもの、移入してきたものが混在している。

     大和朝廷の事実上の敗北宣言

  「軍事の停止」を宣言し、アテルイ、モレを謀殺した大和朝廷は、「蝦夷征伐」を完了したわけではなかった。

  おびただしい胆沢エミシの血が流され、動員されたおびただしい関東先住民の血が流され、奴隷化されたエミシの心にも、奴隷化された関東先住民の心にも大きな憤怒の念が残った。エミシの戦いが終ったわけではない。一部の胆沢エミシは、志波エミシ、和賀エミシ、閉伊エミシのもとに退却し、彼等と共に朝廷軍と戦うことになる。

  811年(弘仁2)、嵯峨天皇は出羽に二万六千の朝廷軍を派遣し、檄を飛ばしたが、60人ほど殺害しただけで、朝廷軍の兵士は役にたたず、綿麻呂は「宝亀5年以来、当年に至るまで征戦は38年に及び、皆疲弊しているので、ここで連戦を終始させ、民を休養させることだ」と報告している。これはある意味では大和朝廷の事実上の敗北宣言ではないか。

     部落は「蝦夷征伐」の過程で発生した

  大和朝廷は、「蝦夷征伐」によって帰順したエミシを全国各地に強制移住させ、農耕や牧畜や兵役や鉱山の奴隷労働に当たらせた。故に「蝦夷征伐」は奴隷獲得戦争でもあったと言える。

 これが本格化したのは、桓武王朝による征夷からである。強制移住はエミシを住み慣れた大地から引き離して抵抗を弱めること、奴隷労働になじませることが目的である。

 エミシの強制移住は、八世紀初めから九世紀初めまで約100年間にも渡って行われた。どれだけのエミシが強制移住させられたかは正確な数字はわからないが、累計では万の単位にはなったのではないか。そして、その代わりに関東や中部地方から柵戸として住民がかき集められたが、その数も万の単位になったであろう。当時としてはかなりの数である。

 菊地氏によれば、垣内(がいど)とか別所、余部、院内とかいわれる地区は、エミシなどの先住民を奴隷として連れてきた部落である。エタというのは、古代のツングースク族に属する先住民の種族名からきている、部落民は先住民の直径部族である、と論じているが、おおむね正しい。

 部落民は、古代では、朝廷の奴隷たる官賤民となる者、農奴になる者、強制収容者から逃げ出して、河原に住み、田楽、猿楽、遊女、歌舞伎などの芸能に従事する者、鍛冶、仏師、漆師、鞍師などの職人になる者、遊女、乞食、足軽、人夫になる者と別れる。律令体制においては、別所や城柵からの逃亡や浮浪は許されなかったが、奴隷労働、奴隷的地位になじまない先住民は、其れを繰り返し、朝廷を悩ました。

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