大和征服王朝・其の3 久慈力著

     桓武王朝(第50代、天皇、781年〜806年)(京都)    

     桓武天皇は百済亡命王族、「蝦夷征伐」を敢行。

  天皇の父親は、光仁天皇(白壁王)は百済亡命貴族、百済王文鏡であり、母も百済の武寧の血を引いている、現在の天皇である明仁も「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、「続日本紀」に記されていることに、韓国とのゆかりを感じます」と認められた。

  そもそも天皇家は渡来系豪族の、その時々の実力者が選ばれたというのが実態なので「万世一系」などというのは、作り話である。

  百済を遡っていけば、秦韓、辰、扶余の騎馬民族国家、さらには秦帝国、ペルシャ王朝のイスラエル亜流国家に突き当たる。桓武王朝も根源に遡っていけば、いくつかのルートを通じてイスラエルの王統を引き継いでいるといえるだろう。百済系は新羅系より、「イスラエル王統」に近い。ユダヤ支配勢力である秦氏、藤原氏が、同族ないしは同系である百済王統を祭り上げて、確固たる「日本イスラエル王統」を桓武王朝で作り上げたといえる。

  白村江の戦いと壬申の乱で新羅勢力に敗れ、新羅系の天武王朝(天武天皇、第40代、舒明天皇と斉明天皇、皇后・持統天皇)の支配に甘んじていた百済王族が、藤原氏と計りつつ、光仁天皇と桓武天皇の二代で、この新羅系王朝と壮絶な死闘を繰り返し、これを覆したのである。藤原良継、藤原永手、藤原百川らの藤原一族が、新羅系人脈を次々と排斥・抹殺し、光仁、桓武を押し立てて百済王朝を造ったとも言える。後ろに秦勢力もいた。

  光仁、桓武朝の大臣、大納言、中納言、参議、后妃、女御の多くは藤原一族や百済王族で占められ、長岡京、平安京の造都、「蝦夷征伐」などでは、秦氏の財政援助を仰がねばならなかった。ちなみに長岡京造営に功あったとして、高官位を受けている。

  しかし、桓武王朝でも、長岡遷都の失敗、「蝦夷征伐」の敗北などで、国家的危機に遭遇している。新羅系の反撃だけでなく、エミシの独立戦争もまた、桓武王朝という「日本イスラエル王統」に大きな打撃を与えていたのである。

  桓武王朝は、百済王朝と藤原氏によって要職を占められ、そのバックの後見人として秦氏が控えていた。

     秦氏の拠点である平安京への遷都

   奈良の平城京は、新羅系の天武王朝の皇都であり、大伴氏、佐伯氏などの豪族の力も強い。そこで、桓武天皇は、いずれも秦氏とかかわりの強い藤原種継(母親が秦氏)、藤原小黒麻呂(妻が秦氏)を中心にして、秦の地元である山城国の長岡への遷都を推進した。しかし、種継が暗殺され、飢饉や疫病が蔓延し、親族が次々と病魔に倒れ、桂川の氾濫など立地条件も悪く、完成間近かであった長岡京は、わずか10年で廃都になる。影に百済王族との死闘に敗れた新羅系からの妨害、反撃があったのだろう。

  桓武は秦氏の領地に新都の建設を始め、ヘブライ語でイエルサレム(平和な都市)の意味にあたる「平安京」と名づけた。

  平安京遷都に藤原一族が造営の責任者としてかかわり、それと姻戚関係のある秦一族が、財務官僚の職務を握り、財政の支援で深く関わっているが、これは京都が秦一族の本拠であったことと関連するだろう。長岡遷都・平安遷都、膨大な出費と労働力が必要であり、これを賄ったのが秦氏である。

 平安京の造営長官には、藤原不比等の孫にあたる藤原小黒麻呂であり、彼の妻は秦島麻呂の娘であった。

    大和朝廷は何故「蝦夷征伐」敢行したか

  その理由で、主なものは、五つで、これはメソポタミア都市国家、中華帝国による植民の伝統的な目標とほぼ同じである。

  第1の理由、「渡来人」という名の「亡命貴族」「亡命王族」のための土地、奴隷の獲得である。白村江の戦いに敗れた百済王族、貴族はすでに「帰化」している百済一族を頼って大挙して畿内に上陸、しかし、新羅系の王朝では主な官位につけず、社会的な活動の場が少ない。念願の光仁、桓武の百済王朝ができると、彼等は国家の全面的なバックアップを受けて新天地を目指した。百済系だけでなく、秦氏、新羅系、高句麗(高麗)系、伽那(任那)系の移民、植民もあった。「日高見国」の北上川流域は「水陸万項」、水田稲作に適した広大な土地が広がっていた。

  第2は、武器や農具や工具としての鉄の生産を押さえることである。鉱山資源、 製鉄技術、鉱山労働力の確保を狙ったのである。「日高見国」は日本でも有数の鉄の生産地であった。エミシは大和朝廷経由ではなく、古くから独自の、北方経由の、南海シルクロード経由の製鉄技術を習熟してい た。大和朝廷にとって、製鉄技術、砂鉄産地を支配、独占していくこと は、鋭利な武器を作って征服戦を勝ち抜くためにも、敵対する勢力の抵 抗を弱めるためにも、鉄製農具を作って稲作の生産力を高める為にも、平安京の建造物を建てる工具を作るためにも、不可欠であった。このため陸奥の鉄の産地を戦略的に征服していった。

  第3は、権力や富の象徴としての金の産地を押さえることである。八世紀に入 って、大和朝廷は陸奥の黄金に注目し始めた。北上川流域の栗原、和賀 などの砂金である。鎮守将軍を務めた大伴家持が「すめろぎの御代栄えむと東なる みちのく山に黄金花咲く」と歌を詠み、陸奥国の国司(クニノミコトモチ)、百済王敬服がみちのく産の黄金九百両を献上し、 七階級も特進している。東大寺の大仏の建造、征夷事業などで財政に窮していた奈良王朝の聖武天皇を狂喜させた。政府は貢金を調庸の中に組 み込み、献納させた。産金、冶金の業にも渡来人が進出した。砂金の 採取は山野や河川を汚染する為に、エミシ同士の抗争も耐えなかった。

  第4は、戦闘用、農耕用の馬の獲得である。馬も鉄道用、エミシの武器になっ た。エミシは馬上から、片手で使用できる蕨手刀を巧みに操り、朝廷軍と互角以上に戦った。陸奥国は「馬飼の国」ともいわれ、広く馬の放牧 がなされていた。大和朝廷による「蝦夷征伐」が本格化すれば、馬は朝 廷側、エミシ側双方とも軍馬としての重要性も出てくる。馬が抵抗する麁(アラ)蝦夷に渡れば、朝廷側にとって脅威となる。「日本後紀」には、「軍事用として馬は一番重要である。にもかかわらず安易に取引されて、価格が高騰し、混乱が続いている。強壮の馬は取引を禁止し、警護にそなえよ」という禁令が載っている。

  第5は、陸奥へ退却し、エミシと共に大和朝廷に敵対していた長髄彦勢力、物部勢力、新羅勢力の一掃である。彼等は冶金技術を持っていた。軍事 技術を持っていた。国史にはこれらの勢力と「蝦夷征伐」との関連をう かがわせるものはないが、これまでの歴史的な経緯から言って、これら           の勢力がエミシに何らかの支援を行う理由は存在する。

  以上のように、大和朝廷の植民地支配勢力のための土地、資源、財政、首都、官舎、軍備などを確保するため、「蝦夷征伐」は不可欠の要件であった。そのために朝廷内は国家をあげて「蝦夷征伐」に取り組んだが、敗北が続き、一時は国家的な危機にまで陥っているのである。

 征夷大将軍としての坂上田村麻呂も、東漢氏(ヤマトアヤ)系(漢帝国系)とされ、植民地渡来勢力の代表者である。

  桓武朝の成立は、藤原一族と秦一族の力で、百済勢力による、新羅系の天武王朝へのクーデターに他ならない、系統の断絶である。完全なる渡来系であると同時に、百済王族中心の王族であったために、焚書と国史の偽造が必要であった。それは秦帝国以来の中華帝国の伝統であり、桓武天皇の焚書と国史の偽造を頂点として、何度も何度も歴史が改ざんされてきたので、日本の公式の古代史は真実の残りかすで出来ていると言っても過言ではない。

  粉飾や改ざんが多いのは当然で、作為か、不作為か解らないが、「日本後記」では、「蝦夷征伐」について最も重要な延暦20年前後の記録が逸している。これらの国史をまともに信じることは出来ない。

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