大和征服王朝・其の2久慈力著

   大和天皇制国家                    

  陸のシルクロードと海のシルクロードを経由し、中国や朝鮮半島にメソポタミア亜流国家、騎馬征服国家を築いた勢力は、弥生時代から古墳時代にかけて、金属製の武器と馬具を持って日本列島に大量に侵攻し、邪馬台国系の国家を征服し、次々と各地に小国家を造りはじめる。特に、三世紀の古墳時代より扶余(辰)、百済、新羅、高句麗、伽那などの勢力が、畿内、九州、中国地方を中心に植民地を広げ、ここにも中華亜流国家、メソポタミア亜流国家を造り上げた。その最強騎馬民族国家が大和朝廷勢力である。

  中国や朝鮮の国家は、お互いに戦争を繰り返し、敗れた勢力が亡命者として、あるいは勝った勢力が占領者として日本列島に侵攻した。彼等は「渡来人」とか「帰化人」とか言われるような生易しいものではなく、縄文世界に生きてきた先住民を次々と武力によって征服した植民地侵略者なのである。

  大和朝廷は、朝鮮半島の国家がそうであるように、小中華帝国であり、律令制度を初めとして、秦や漢や唐の影響が濃厚である。その基底にはユダヤ勢力が持ち込んだメソポタミア都市国家の制度がある。日本列島は中華帝国と朝鮮半島の小中華帝国の植民地になってしまったのであり、天皇制は大陸の植民地侵略者が、日本の先住民を支配する為の道具、御神輿であった。そして、征服地には既征服地から奴隷を移植して、征服や鉱山労働や土木工事などの権力的な事業に使役した。

    天皇家と対立した物部氏と蘇我氏も渡来系

  大和朝廷の周辺には、物部氏、蘇我氏、秦氏、藤原氏、葛城氏、大伴氏など、諸々の豪族が存在し、その氏族長の多くは自らも王を名乗った。朝廷は当初、彼等を完全に征服しつくすほどの力量を持ち合わせず、彼等との妥協、協調を通じて権力を維持するほかなかった。彼等もまた、大陸系、シルクロード系の渡来勢力であり、様々な支配技術をもった実力者であった。

  物部氏は、もともとは、朝鮮半島の新羅系の金属精錬部族であると考えられる。このいわば銅鐸部族は北九州や出雲に上陸し、王朝を造ったと、畿内にニギハヤヒを王とする物部王朝を築く。軍事と神事を司る大豪族であった。しかし、「神武東征」によって破れ、一部は東北地方に植民し、一部は大和朝廷に服従した。その後、神道を奉ずる物部氏は、何人もの天皇を出し、大臣と並ぶ執政官である大連として国政にかかわり、仏教を奉ずるもう一方の大豪族、蘇我氏と対抗関係となる。これは宗教的抗争であるだけでなく、新羅系の物部氏と百済系の蘇我氏の因縁の争いでもあった。新羅系の物部氏は、蘇我氏に敗れたあと、製鉄技術と武器、道具の製作技術を陸奥ヒタカミノクニ(日高見国)に持ち込み、大和朝廷に対抗する為にエミシ勢力に、弩(イシユミ)などの武器を提供したとされる。大和朝廷の「蝦夷征伐」の目的の一つは、物部勢力、新羅勢力の根絶という側面もあったのである。

  蘇我氏は、竹内宿祢を祖としているが、もともとは扶余、百済系であり、大臣、左大臣、大蔵卿、宮内卿などの朝廷の要職を占め、欽明天皇から皇極天皇までの七代の天皇と欽明、天智、天武などの皇后を輩出し、この時代は別名「蘇我王朝」とも呼ばれた。一族から征新羅将軍が何人も出ているが、百済系であることがうかがえる。仏教を積極的に導入し、大和朝廷の中央権力を牛耳っていたが、いわゆる「大化改新」で大臣の蘇我蝦夷と入鹿が殺され、新羅系の天智王朝に破れ、蘇我勢力は後退した。しかし、その後も百済系の天皇に取り入り、しばしば天皇や皇后の地位を占めている。

  葛城氏は、高句麗系と見られ、雄略天皇を出しているが、もともとは扶余と同系である。大伴、紀、平群、巨勢などを含めた天皇周辺にいた古代豪族は殆ど全て渡来系といってもいい。

  秦氏は、海のシルクロードから殷を経由したフェニキア人勢力、陸のシルクロードから弓月王国を経由して朝鮮半島を通ってきたユダヤ商人の勢力、徐福に導かれて西日本に上陸した秦帝国勢力、ローマ帝国に弾圧されて、シルクロードを通って東に移住してきた原始キリスト教、扶余国、辰国、百済の流れで北九州に上陸した騎馬民族勢力である。

 従って、秦氏は必ずしも単一の民族ではなく、単一の宗教を信奉していたわけではなく、単一の文化を持っていたわけではない。ただ共通しているのは、シルクロードの起源である中東まで遡り、ユダヤ人の古代イスラエル王国までたどれることである。

 日本列島に植民した秦氏は、主として北九州から発して近畿を拠点とし、東へ東へと植民、殖産活動を強めていった。灌漑技術、土木技術、建築技術、冶金技術、農業技術、統治能力、貯蓄能力、交易能力、職工能力を持った秦氏は、千年以上も植民活動を繰り返してきた殖産能力でもあった。その中で大きな比重を占めていたのは養蚕、機織の技術であり、秦氏の富の源泉の一つでもあり、秦氏のハタは機織のハタからくるという説も有るほどである。秦氏の日本最大の根拠地である京都の太秦には蚕野社である木島神社がある。秦氏こそ「絹の道」、シルクロードの支配者である。

 彼等は商人として、技師として、職人として、役人として、神官として、妃嬪として、官女として、シルクロードの諸国でもそうであったように、天皇家や豪族を操り、大和朝廷そのものを動かしてきたのである。したがって、秦氏はその財力、知力、権謀術数にまかせた、あるときは百済勢力、あるときは新羅勢力、あるときは高句麗勢力をバックアップし、常に権力に近い位置を占めていたのである。対立する二つの勢力のバックにいて、どちらが勝っても権力者の勢力に付くことが出来た。これがユダヤ流儀である。

    大和朝廷の王権をめぐって新羅系と百済系が死闘

  四世紀から七世紀の間、日本列島は、朝鮮半島における諸国の覇権争奪戦、領土争奪戦によって、大きな影響を受ける。その最大の戦争は、663年の白村江の戦いである。この戦争で、日本と百済の連合軍が、唐と新羅の連合軍に敗北して、新羅は百済勢力と高句麗勢力を排除して朝鮮半島を統一する。日本は一時的に唐の占領下におかれる。百済の貴族は大挙して日本列島に亡命するが、唐と新羅勢力はこれを圧迫し、唐のバックアップを受けた新羅系が大和朝廷の実権を握った。

    倭国を「日本」に改め、「大和朝廷」

 白村江の戦いの後、新羅文武王の孫である、文武天皇は、倭国を日本と改め、秦氏の秦王国を併合して、大和地方を支配し、「大和朝廷」を名実ともに確立した。地方豪族や地方王朝の力は弱まった。飛鳥王朝、奈良王朝では、新羅系の天皇が続いた。この王朝は当然の事として遣新羅使を派遣したり、新羅使が来朝したり、新羅の王族が渡来したり、天武王朝は、新羅を介して、唐風の律令制度を積極的に導入した。

  しかし、大和朝廷の皇統は、またしても断絶した。秦氏、藤原氏のバッグアップを受けた光仁天皇(第49代、天智天皇の孫)と桓武天皇(第50代)による対新羅王朝クーデターが成功。新羅王朝が倒され、平安時代の天皇家は百済王朝になったのである。光仁天皇は、実は、百済亡命貴族の百済王文鏡であり、母方も百済王族の出身である。白村江の戦いで破れた百済貴族が、巻き返しを図り、新羅勢力を謀略と暴力によって追放、大和朝廷の権力を握ったのである。光仁天皇以降は、彼等が優遇されることになる。

  亡命貴族はたちは、東国に土地を求め、鎮守将軍や常陸守、出羽の守になって植民活動の先頭にたつことになる。

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