大和征服王朝・其の一久慈力著

  大和天皇制国家の起源(前期弥生人)         

  倭人は中国、朝鮮半島、西日本に多くの小国を作るが、中国では呉、越の国々であり、朝鮮では伽耶国、日本では出雲王国、伊都王国など、倭国、邪馬台国系の国々がそれである。倭国もまた、殷や周と同様、王侯貴族が奴隷、隷農を支配する奴隷制国家であった。倭国の中には、ユダヤ人も支配勢力として組み込まれていたであろう。

  紀元前三世紀頃に、日本は弥生時代に入る。倭人イコール弥生人と考えて、弥生人は朝鮮半島経由の北方系だから、倭人も北方系、朝鮮半島系と考えるのは早計である。弥生人と言っても様々で、倭人の人体的特徴や文化的な特徴をみれば、むしろ南方系である。前期弥生人の農耕民は、中国の江南地方がルーツのようで、弥生後期から古墳時代に朝鮮半島を経由してきた騎馬民族は、大和朝廷の支配層、渡来系豪族に北方系の要素が濃い。彼等は扶余国、辰王国経由の騎馬民族である。

 弥生文化の流れは、水田稲作と金属製農具の文化をもった倭人の流れと金属性馬具と巨大古墳の文化をもった騎馬民族の流れの二大潮流がある。

 渡来人の秦氏は、「秦の始皇帝を祖としている」と自称している。秦氏は南海シルクロードの流れで、伊勢地方に上陸し、伊勢王国を作り、その中核施設として伊勢神宮を作ったのも彼等秦氏である。北九州には「秦王国」と呼ばれる国が存在したし、京都にもまた山城、太秦を中心に「秦王国」と言ってもいいほど秦氏由来の遺跡が多い。

 ユダヤ系の秦氏が日本列島に侵攻したのは、紀元前三世紀から紀元七世紀までの1000年に大陸から日本列島に約100万人が移住していると推定されているが、このうち、秦氏は約10万人もいたと推定されている。

 秦氏の多くは大和の地に植民し、朝廷の中枢に進出し、特に朝廷の財政を握り、養蚕、機織などの技術を広めた。また、彼等は日本の神道に強い影響を与えた。伊勢神宮、宇佐八幡宮・賀茂神社、松尾大社、稲荷神社、愛宕神社、金毘羅宮などを創建にかかわっている。

 ユダヤ教と日本神道、古代イスラエル王国と大和朝廷の支配構造は驚くほど似ている。

     渡来人による日本列島への植民

  六世紀に入ると、朝鮮半島における高句麗、百済、新羅三国による骨肉の争いが熾烈を極め、破れた王族、民衆による日本列島への亡命、植民が激しくなる。植民、殖産、建国、支配のノウハウを極東に持ち込んだ、ユダヤ支配勢力の同属同士の内ゲバに近い。また、列島内でも「渡来人」の東国への移住も激しくなる。

 国史によって、六世紀から七世紀にかけての日本列島における主な植民。

@  539    欽明天皇が即位し、秦氏を日本国中に分籍する。

A      565    高句麗人が帰化し、山城に居住する。

B      577    百済より経綸、律師、禅師、仏工、寺工を献ずる。

C      608    新羅人が集団的に帰化する。

D      648    渡来の百済人を武蔵国に置く。

E      661    百済の佐平福信が唐の捕虜百余人を日本に運び、近江国に住まわせる。

F      663    白村江の戦いで百済と日本の連合軍が唐と新羅の連合軍に大 敗し、百済が滅亡する。一時       的に唐が日本を占領する。多くの百済の王族・貴族が日本へ亡命する。

G      665    百済の百姓男女四百余人を以って、近江国の神前郡に置く。

H      666    百済人の男女二千人を東国に移住させる。

I      669    百済の男女七百余人を以って、近江国の蒲生郡に移し置く。

J      687    新羅人、八四人を下野国に置く

  七世紀には、朝鮮半島では、新羅勢力が強大になり、任那を滅ぼし、唐と連合して百済、高句麗を滅ぼし、半島を統一する。このような状況のもとで、百済による亡命、移住が一層活発に行われたことになるが、百済王国も扶余騎馬王国系であり、秦系、百済王族、百済人、即ち、ユダヤ系ないしはユダヤ系支配者に率いられた集団の植民、移住であることがわかる。しかも大和朝廷の援護を受けた組織的、国家的な植民である。

 結局、大和朝廷とは、日本列島への植民地侵略者の権力であることが解る。

そしてその侵略の最大勢力は、騎馬民族国家を背景としたユダヤ支配勢力であった。

 

   「神武東征」とは騎馬民族国家による倭国の征服

 「神武東征」とは北九州に上陸した騎馬民族王朝による倭の諸王朝の征服過程を表している。即ち、朝鮮半島からやってきた辰(秦)王国と百済の勢力が、まず、九州に上陸し、倭人系の邪馬台国、即ち、日向(宮崎)の安羅国、肥後(熊本)の多羅国の連合体を平定した後、「神武天皇」と呼ばれる辰王の征服者を先頭に、東征を行い、瀬戸内海の吉備王朝(岡山)を平定し、畿内の物部王朝(ニギハヤヒ)と長髄彦一族の連合軍を破り、統合する。

 彼等こそ後期の古墳文化を作った騎馬征服民族なのであり、すでに畿内に進出していた秦勢力、秦王国と合流して、五世紀に大和朝廷は建国されたのである。この騎馬民族国家の行政、財政、交易、軍事、土木、技術を掌握していたのが、秦氏のユダヤ支配勢力と考える。

 大和朝廷はしかし、在来の王朝や豪族を完全に征服しつくすことは出来ず、葛城氏のように天皇として祭り上げ、中臣・藤原氏のように婚姻をはかり、神職につかせ、物部氏のように官職に登用し、大伴氏のように将軍として「蝦夷征伐」に当たらせ、蘇我氏の場合は、謀殺、淳滅を図った。これらの豪族勢力もまた、朝鮮半島や中国大陸からの植民勢力であった。

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