「日高見国」と蝦夷

 「日高見国」(ヒタカミノクニ)「蝦夷」    (梅原 猛著抜粋)     

   日高見国という呼称は、エミシの生活圏の呼称として「日本書紀」「常陸国風土記」「延喜式」などに出てくる。「日高見国というのは、岩手県から宮城県にかけての北上川流域のことを指すが、常陸国(茨城県)もそれ以前に日高見国と言われていた」

  「日高見国」というのは、「日が昇る肥沃な東の大地」を意味し、北上川中上流域、関東平野がいずれも該当する。即ち、「日の出ずる処」という意味である。なお、国というのは、「日高見国」の場合は、国王をまつる「国」ではなく、故郷、古里と言う意味での「クニ」ということの方が相応しい。先住民、縄文人は国家などというものを形成したことが無い。

  肥沃な大地のある「日高見国」は植民地を求める渡来人の国家、大和朝廷にとって、垂涎の的であった。まさに、「東の辺境に日高見国がある。土地が肥えて広い。攻撃して奪い取るべきである」と驚くべき素直さで、東国を視察した大臣、竹内宿祢が「日本書紀」の中で景行天皇に述べている。

  岩手県の岩手郡に源を発する北上川は北上盆地真ん中を突き切り、仙台平野を南下し、石巻市で太平洋に注ぐ大河である。この北上川の流れる流域は昔は日高見国といわれ、水と太陽に恵まれた肥沃な大地である。北上川は日高見川のなまったもので、今に昔の名前を残している。

  この日高見国の中心は仙台平野でしたが、大和朝廷の度重なる軍事的な侵攻によって丹澤地方(岩手県の水沢を中心とした北上盆地)に最後の拠点を残すだけになりました。この最後の拠点も802年の坂上田村麻呂によって阿弓流為(アテルイ)が降伏して、陥落してしまいます。これで、実質的な奥州の日高見国は滅びます。

  貞観6年(632)の中国の「新唐書」にも大和朝廷の使者が訪れた際、蝦夷の使者も一緒に唐を訪れたとの記載がある。これらで、奥州・陸奥には大和朝廷とは全く別個の王国の存在が確認される。

   大和朝廷の勢力範囲は3〜4世紀のころは、新潟から栃木千葉を結ぶ付近まで達していたようですが、4〜5世紀には、新潟から福島のラインへ北上し、さらに、 8世紀の多賀城時代には秋田県中部から宮城県北に至っております。さらに9世紀に入ると秋田北部から岩手県南部まで達している。

  大和朝廷は蝦夷地との国境沿いに城柵を作り、兵胆地として侵略の策をねり、領土を広げたときにはまた前進基地として城柵を作っていきました。

  そして、柵の周りに柵戸といって倭人を移住させ、抵抗する蝦夷は北方へ追い出し、捕虜となった蝦夷は夷俘として全国の収容施設へと収容していったのです。そして、後期になるとその統治を政府に帰順した蝦夷(倭人との混血)に任せるようになります。この蝦夷を朝廷側では俘囚と呼びました。

  蝦夷地に移住していった倭人は最初の頃は一般人(富農)でしたが、8世紀の後半から9世紀に入る頃には、犯罪者や浮浪人を送り出すようになります。日高見国が滅んだ後は蝦夷地は俘囚長の時代に入ります。

  安部・清原・平泉藤原の時代はこの時代のことです。江刺(えさし)郡豊田館(とよだのたち)から磐井郡平泉に居を構えた藤原清衡は、国府の威光を背景に、積極的な領国経営に乗り出す。清衡の実質的な支配地域は、現在の青森県・岩手県・秋田県のほぼ全域に渡っていました。

  絶大な資産と権力を手に入れた清衡は、大治元年(1126)中尊寺に1500人もの僧侶を集め、大規模な法会を営みました。中尊寺伽藍の落慶法要です。

  文治5年(1189)、藤原泰衡(やすひら)は約百騎を従えて源義経の住む衣川館を急襲、義経を自害に追い込みます。これで、鎌倉の源頼朝にとって平泉討伐の名目が無くなったかに見えましたが頼朝は出兵し、白川関を越えて陸奥の国になだれ込みました。藤原泰衡は討ち取られ、四代・100年に渡って続いた奥州藤原氏は遂に、滅びました。

  栄華を極めた奥州藤原氏を滅ぼし、全国統治を完成させた源頼朝は文治5年(1189)、葛西清重に陸奥国御家人を奉行し、平泉郡内検非違使(現在の裁判官と警察官を兼ね、権限は強大である)所を管轄させた。これが、鎌倉幕府が陸奥国に守護の代わるものとして置いた「奥州惣奉行」の始まりで、清重は藤原氏に代わる平泉の主として、奥州の軍事・警察権を一手に引き受ける立場となる。

  元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が新政権を樹立すると、陸奥国の体制も一新されました。まず初めに奥州に進出したのは足利尊氏(あしかがたかうじ)です。鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ最大の功労者である尊氏は鎮守府将軍に任じられ、北条氏の旧領を我が物として、勢力を拡大します。これに対して後醍醐天皇は北畠を陸奥守に任じ、尊氏の勢力を食い止めようとする。後醍醐天皇と足利尊氏の対立が決定的になります。

  大永2年(1522)、伊達種宗が陸奥国守護職に任じられました。と言う歴史の時代に「日高見国」が大きく変遷されて、織田信長から豊臣秀吉へそして、徳川家康の江戸時代から明治を経て現在に至ることになり、縄文時代の日本人の変遷が、縄文人の「蝦夷」であり、現在の我々の人類の存在に関わっているわけです。  

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