「蝦夷の戦乱」北の古代史

林ノ前遺跡

  青森県八戸市の林ノ前遺跡での戦いの跡の出現は、平安時代後期、「蝦夷の地」とされた北東北・南北海道が戦乱の社会だったことを確定的にした。何をめぐり、どのような争いがあったのか、、、、、歴史の空白に、この遺跡がもたらした新たな展望を探った。(2004年5月26日、朝日新聞・渡辺延志氏)

  北の古代史の空白に新展望

  「朝廷側が北の冨を奪う為に襲った」

  毛皮や馬、砂金、昆布など北方が生み出した冨に注目。この時期、京都の朝廷は摂関政治の時代で、蝦夷の地を担当する北方の支配者には軍事力を備えた源氏などの人物が派遣された。都の貴族にとって北方の特産物は憧れの的だった。特産品を送るようにとの無理な命令が中央からあったのであろう。「現地支配者は軍事力を背景に、手段を選ばず富の搾取に走り、緊張した社会が生まれた」と見る。(小口雅史氏・法政大学教授・考古学)

  林ノ前での戦いを、蝦夷内部の集合連合体、人口で千人程度の集団同士の激突だったと工藤雅樹氏(東北歴史博物館長・考古学)は推測する。「こうした戦乱が百数十年間続いた。源氏武士団の関わった戦いだけが、英雄物語として源氏側により後の世に伝えられ、前九年・後三年合戦として歴史に残った」と考える。

  林ノ前で発見された鏃や人骨は、どのような戦いを物語るのだろうか。人骨は10体見つかり、内7体は頭だけだった。後ろ手に縛られた人骨と3個の頭骨が一緒に見つかった住居もあった。「捕虜でしょうか、裏切り者でしょうか。捕えられて閉じ込めた上、生首を投げ込んだのでしょうか」と工藤氏は光景を想像する。「これだけ早い段階に農業があまり発達していない北の地に、強力な軍勢が存在していた。農業の発展段階を中心に見ていただけは解らない歴史だ」入間田宣夫氏(東北大学教授・中世史)と考える。2004526日朝日新聞)

    林ノ前遺跡

平成15年度調査風景(7月9日)。数段の平坦面がみられ、平安時代の竪穴住居跡や土坑が検出されました。
平成13年度の調査から現在まで、約20棟の竪穴住居跡と130基の土坑がみつかりました。
約1000年前につくられた特殊な集落と考えられています。

林ノ前遺跡は、平野を見下ろす山に築かれた典型的な防御性集落だ=02年10月、青森県埋蔵文化財調査センター撮影

平成15年度調査風景(7月9日)。数段の平坦面がみられ、平安時代の竪穴住居跡や土坑が検出されました。
平成13年度の調査から現在まで、約20棟の竪穴住居跡と130基の土坑がみつかりました。
約1000年前につくられた特殊な集落と考えられています。

大きな土坑(深さ1m50cm)。土坑の壁に横穴が堀りこまれているものもあります

     林ノ前遺跡・「蝦夷の地」に争乱

  青森県八戸市の平安時代後期の集落跡・林ノ前遺跡(10〜11世紀)から、前例のない数の鉄のやじりと縛られた人骨などが出土した。激しい戦いの跡と見られる。蝦夷(えみし)の地とされた北東北から北海道南部の集落は、近年の発掘でこの時期百数十年にわたり、平地を避けて山頂や環濠(かんごう)の中に作られていたことが判明しており、今回の発見でこの特異な集落形態は敵の襲撃に備えたものだったことが確定的になった。吉野ケ里遺跡で知られる倭国(わこく)大乱や戦国時代に匹敵する長期の争乱社会が見えてきた。   発掘は青森県埋蔵文化財調査センターが03年まで4年間行った。やじりは約200点、遺跡全域でまんべんなく見つかった。戦後回収される貴重品だったやじりの出土例としては空前の規模。人骨は10体見つかったが、埋葬されたものはなかった。両手・両足を縛られた全身骨1体と、頭骨だけが3個も見つかった住居もあった。同センターは襲撃を受け、激しい戦いの末に放棄された集落と見ている。

  盛岡市付近から北海道南部にかけて、山の上に築いたり、環濠や土塁を巡らしたりする特異な集落の発見が90年代から相次いだ。約50にのぼる。一方、通常の平地の集落はこの時期約150年も発見例が途絶える。特異な集落を「具体的な戦いの跡がない」として宗教的施設などと見る説もあったが、今回の発見は、戦乱社会の敵に備える「防御性集落」と見る説に決定的な材料となった。

  朝廷は馬や砂金などを産する東北地方を支配しようと8〜9世紀に武力進出を繰り返すが、盛岡市付近で停滞。10世紀になると、直接支配でなく朝貢を求める政策に転じる。従来の通説は、この政策転換後、秋田、岩手で前九年合戦(1051〜62)が起こるまで、この地域は平和が続いたとしてきた。防御性集落は政策転換後の10世紀後半に登場し、奥州藤原氏の支配が及ぶようになる12世紀に姿を消す。 調査終了後、県道が開通し、遺跡は周辺の一部を除いて残っていない。200455日、asahicom)〈工藤雅樹・東北歴史博物館長(考古学)の話〉

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