蝦夷―7・
エミシ文化

   先祖とつらなるエミシ文化

 エミシ文化の特徴は、例えば「蝦夷塚古墳」と呼ばれる古墳の副葬品を見れば解かるように、縄文文化、続縄文文化を基底とする、南方系文化と北方系文化の混合文化であり、三内丸山的文化、亀ヶ岡的文化などの重層文化であり、擦文文化、オホーツク文化の影響も受ける多様な文化であり、弥生文化、古墳文化さえも受容する文化である。それは硬直ではなく、柔軟であり、排除ではなく、寛容であり、単一ではなく、多様であり、階級的ではなく、平等的であり、抗争的ではなく、平和的である。このような安定的な社会であったからこそ、縄文文化、エミシ文化は、一万年以上も続いたのである。

   縄文人は、先祖とのつながりを大切にする。シャーマンとなって、自然とも神霊とも祖霊とも仲介・交流することができる。又、乳幼児、子供、成人の死者についても、この世で使った生活品、装着品とともに丁重にその霊をあの世に送った。墓を作って埋葬する場合もあれば、アイヌの場合のように、墓を作らず、墓標を立てて、あの世に送る場合もある。

   縄文人の生死観では、この世で死んでも、魂は死ぬ事はなく、あの世に行ってまた、同じように生活するのである。だから、この世で使った品々を物送りするが、メソポタミア王侯社会のように、巨大な古墳を作ったり、贅の限りを尽くした副葬品を埋葬したり、動物や人間を生け贄にしたりすることは無かった。

   縄文人やエミシは、シャーマン的な能力を持ち、トランス状態となって、自然、動物、祖霊などと交流することができた。その能力によって、予知や呪術や治療なども行った。宗教者や教祖となって、分業化、職業化、特権化することはなかった。

    蝦夷塚古墳

  雄物川町 おものがわまち 秋田県南部、平鹿郡(ひらかぐん)西部の町。町名の由来となった雄物川が町の中央を南北に貫流し、東側に横手盆地が、西側には出羽山地の山々がつらなる。1955(昭和30)沼館町(ぬまだてまち)と福地、里見の2村、明治村の一部が合併して町制施行。同年、館合村(たてあいむら)の一部を編入。面積は73.60km2。人口は11402(2003) 町域の約4割が農地という農業中心の町で、穀倉地帯として知られる。稲作につぐ生産額をあげているのが畜産で、県内有数の養豚地域でもある。近年はスイカ、リンゴ、キノコ類などをとりいれた複合経営をすすめている。また、農畜産物を原料とする酒造業や食肉加工業も盛ん。工業は、縫製、弱電、自動車部品製造などの企業が誘致され、着実に発展している。 国道107号沿いの造山(つくりやま)にある蝦夷塚古墳(えぞづかこふん)89世紀のもので、出土した勾玉(まがたま)などの玉類が県の文化財に指定されている。中心地区の沼館には中世の館跡があり、これは後三年の役の舞台となった難攻不落の沼柵(ぬまのさく)跡とされる。江戸初期には堰(せき)の開削などによって新田が開かれ、やがて雄物川舟運の隆盛とともに物資の集散地としてさかえた。とくに今宿(いましゅく)は河港としてにぎわった。

 

   土偶は北方文化の影響

   北上川中流域の縄文前期の遺蹟から小さく素朴な板状の土偶、縄文晩期の遺蹟から亀ヶ岡で見られるような大きな遮光式土偶が発掘されているが、いずれも女性をかたどり、身体の一部が欠損していることが多い。又、「捨て場」「廃棄場」と呼ばれる場所から出土することが多い。大迫(おおはざま)町の立石遺蹟からは200以上の土偶が発掘され、何れも破損されていた。又、多数の石鏃、磨製石器、土製円盤などが出土しているため、氏族連合社会の祭祀場であったと考えられる。

   土偶が作られた理由として、様々に論じられているが、何れも呪術的な儀式と関係がありそう。女性が妊娠すると、土偶を作って安産を願い、出産の苦しみの身代わりになってもらい、無事出産すると割ってしまう。出産に失敗した場合は、土偶を埋葬して、生まれ変わりや子宝に恵まれることを祈る。妊婦が子供を宿したまま死亡した場合、母体の腹を裂き、胎児がこの世に生まれ変わるものとして、改めて生まれ変わるように祈って葬る。北方の諸民族では、狩猟や安産や育児の神様であるオンゴンという木像を作り、その役目が終ると壊して地中に埋める。エミシの土偶と極めて似ている。呪術のための道具なのである。

   北方系のチュクチ族のシャーマンは、病人が出ると板状の木偶に呪文を唱え、病人の患部から病根を乗り移らせ、木偶を破棄して身代わりさせる。これは北方の諸民族に共通しているようだ。いずれにしても、出産にまつわり、妊婦や胎児の無事を祈り、不幸があった場合、霊を慰め、生まれ変わりを祈ったものが多いことは事実であろう。

   盛岡市の萪内(いだない)遺跡の土偶仮面は、ほぼ人頭大の大型であり、縄文晩期のものとされ、シャーマンが儀式に使われる仮面を模して作られたと考えられる。

  仮面はシャーマンが祖霊や自然との交感を行うときに身に付けたものであろう。

   一戸町の蒔前遺跡から出土したような「鼻曲がり土面」は、アメリカ・インディアンのイコロイ族やアラスカのイヌイットなどでも作られている。これは、「邪霊」を表すとされ、「邪霊」を追い払う儀式のときに使われたのであろう。

 萪内遺跡からはクリ材をくりぬいた顔面のトーテンポール用のものが出土しているが、墓標として作られたもの、ムラの広場に立てられたもの、厄除けのために作られたものと様々な説がある。

   高床式建物は南方分化の影響

   エミシ社会の住居は、縄文人の伝統である竪穴住居である。シベリアなどでのように狩猟が中心の場合は、移動に便利なテント式住居であるが、日本列島のように自然の恵みの豊かさで一定の生活圏に定住する場合は竪穴住居が作られた。新石器時代以降の極東アジアの代表的なそれであった。直径5mほどの円形か楕円形か四角形の、半地下状に数十センチから1mほど地面を掘り込み、円錐形にスギやヒノキやクリの柱を建て、カヤやササや樹皮などで葺く。ここに5人から10人くらいの一家族が寝泊りする。

   縄文前期から高床式の倉庫が各地で作られている。ネズミなどの侵入を防ぐもので、ネズミ返しの仕掛けもなされているものもある。南方系の建築様式で、中国の長江、華南地域から伝わった可能性がある。岩手県では西田遺跡などで確かめられている。

   北上川の流域の「北上文化圏」(ヒタカミノクニ)では、北上川に沿った低位の段丘面に集落が建てられることが多い。川に注ぐ沢水の利用、川を利用した水運、川を上るサケの漁労、川に面した湿地を利用した栽培など、川に依拠した文化である。

   エミシ社会には交易がなかった

   縄文社会では、自給自足が原則である。しかし、特定の地域で取れないもの、特定の地域でしか取れないものについては、他の地域からの流通頼らざるをえないものもあった。それはごく限られたものであり、物々交換で間に合うものであった。交換されたものは、石器作りに使われた黒曜石、祭祀で使われたヒスイ、道具の接着剤に使われた天然のアスファルト、細工の難しい土器や土偶や装飾品、食料生活に欠かせない塩、山では取れない海産物などであろう。

  一般に縄文社会での物の流通についても、交易と言う言葉が用いられているが、縄文時代の場合、交易というものがあったかどうかは疑問である。交易というのは、言葉の定義が定まっていないが、商品交換、貨幣を介在した売買の意味とここではとらえる。とすれば縄文社会には、流通や交換はあったが、商品も商人も、貨幣も紙幣も、売買も交易も無かったのである。

  岩手県内の縄文遺跡からも遠隔地との物流を思わせるヒスイ、天然アスファルト、琥珀、黒曜石、タカラガイが出土している。縄文人は、笹や丸木舟や方舟などを操り、気候、天文、海流なども熟知した航海術を身に付けていた。我々が考えている以上に発達した交通手段をもっており、数百キロという長距離を自由に移動していた。

  大和朝廷の支配の影響が現れるとエミシ社会の物流にも変化が出てくる。例えば、族長は毛皮、昆布、砂金などで見返りの品を得るために、北方の諸族との交易を展開した。また、毛皮をえるために動物を乱獲したり、金属を得るために川を汚したりするとエミシ同士の争いも起きた。服従したエミシは、朝廷とその出先機関である鎮守府へ「調」即ち貢物、「役」即ち兵役、労役を課せられた。エミシの自給自足社会が急激に崩れ始めた。

   ストーンサークルも北方文化の影響

   同じ縄文人でも埋葬の方法は様々である。墓地が住居とはっきり区別されているところ、あまり区別されないところ、遺体を土にそのまま埋葬するところ、配石の中に埋葬するところ、甕棺の中に埋葬するところ、身体を伸ばしたままで埋葬するところ、身体を折り曲げて埋葬するところ、副葬品が伴っているところ、伴っていないところ。

   縄文遺構の代表的なものとして、配石遺構がある。配石といっても、組み石、敷石、立石、列石など様々ある。土抗が伴っている場合が多い。紫波町の西田遺跡は、縄文中期の遺跡であるが、環状に集落が配置され、墓地、祭祀場、住居、倉庫が円形に並んでいる。中心部にある墓抗群には多数の土抗があり、大きさや位置に優劣は感じられない。先祖を丁重に埋葬したことがうかがえる。墓抗の円形の配置は、ストーンサークルの原型のように思われる。

   北上川中流域で最も有名なストーンサークルは、北上市の樺山遺跡である。

  これは縄文中期の遺跡で、北上川の左岸の段丘の緩やかな斜面に、35基もの配石遺構が確かめられている。配石の下に土抗がある場合は墓と推定されるが、無い場合もある。配石とは離れた所に甕棺墓が発見されている。

  樺山遺跡の上部に竪穴住居跡がある。台地の真ん中には広場があり、斜面には遺物包含層がある。この配石遺構は、三内丸山文化圏からの影響と考えられるが、それよりさらに大規模な遺構である。ストーンサークルは、北方文化の影響と見られる。それは北海道からシベリアへも広がっている。

  何故、このようなストーンサークルが作られたか。それは単なる共同墓地という感覚ではとらえきれない。先祖との交歓の場、自然の霊との交歓の場という意味もあるだろう。様々な儀式や祭りが行われた可能性もある。日時計、天文観測施設とする説もあるが、それは自然との交流を執り行う四季の祭りと関係があったためであろう。

  縄文人の埋葬文化には、メソポタミア都市国家や中国の王朝や初期の大和朝廷で行われた、大量の家畜や従者を生け贄に捧げるような階級的な文化は存在しなかった。副葬品も身の回りの生活用品や装飾品など階級分化が感じられるものは存在しなかった。

   エミシ独自の融合的な古墳文化

  弥生時代に入ると、岩手県内のエミシの土抗墓からも続縄文土器のほかに、土師器、須恵器などの弥生式土器、鉄製、青銅製の金具も見つかっている。古墳時代には、エミシ社会でも高塚式の「蝦夷塚古墳」と称される古墳が作られるようになるが、岩手県内の古墳群は、殆ど北上川流域の平野、水田地帯に集中している。川岸の段丘にある場合が多い。石室の石は河原から運ばれてきたものである。7世紀から8世紀にかけて造られた。

  古墳の主は、朝廷から位と姓を与えられた、農耕や戦闘を指揮する族長と考えられる。

   古墳といっても畿内に造られたような巨大な前方後円墳ではなく、精々直径10m程度で、単に「蝦夷塚」とも呼ばれてきた。県内での例外は胆沢町にある比較的大き目の前方後円墳、角塚古墳にみであり、これは渡来系の古墳と見られる

  「蝦夷塚古墳」の副葬品は、蕨手刀、直刀、鉄鏃、鉄製鎧、鉄製兜、鉄製脳工具、ヒスイ、メノウ、琥珀、ガラス製玉類、刀子、黒曜石石器、青銅製金具、錫製品、須恵器、土師器、和同開珎などで、続縄文文化の独自文化と古墳文化の外来文化が混在し、北方との交易、大和朝廷との関係も伺わせる。

  蕨手刀は、中部以北、特に東北、北海道でしか見られないエミシ独自の刀である。

  これを見れば、確かに族長に富が偏り、権威、権力が集中しているように見えるが、それだけで階級の分化があったといえるのだろうか。

   延暦8年の会議集の「アテルイとエミシ」によれば、「蝦夷塚」の一つの古墳群に農具を副葬するグループと武器を副葬するグループがあると指摘している。そして、農具の副葬する古墳が、武器を副葬する古墳より上回っており、農民層が主体で戦士層が客体であると分析している。はたして、農民と戦士は完全に分離されていたのか。土地や農具や武器や富を独占していたのか。特権的な支配層、非特権的な非支配層という具合に、階層ないしは階級に別れていたのか。副葬品の中の玉石類は呪術的、宗教的儀式に使われたものであろう。いずれにしてもエミシ内部での緩急分化とは言い難い。

   鉄の文化は縄文晩期からあった。

   外来の製鉄技術とは別に、縄文人独自の製鉄技術があったのではないかと言う説もある。それは餅鉄(べいてつ)といわれる独特の技術で、純度の高い磁性に富む鉄鉱石を野焼炉による低温還元で作り上げたという。まさに山の民、エミシの技術である。

                 蕨手刀

8世紀のころ東北,北海道の古墳等からしばしば発見されるもので,本資料は昭和の初め恵庭市で採集された。保存状態もよく擦文文化を考える上で貴重な資料である

  エミシの蕨手刀は、岩手県での出土が半数近くを占めている。岩手は製鉄の歴史が延々と続いており、蕨手刀も岩手で発祥し、東北、北海道、関東、中部へ交易された可能性が高い。

  これは大和朝廷との戦争を繰り返すなかで、騎馬戦用の武器として造られたものと考えられる。エミシが、地元で採れる砂鉄を用いて、自らの製鉄の技術によって加工したものである。

  岩手には蕨手刀だけでなく、日本刀のルーツとされる弓なりの反りをもった「幻の奥州刀」といわれる舞草刀というものも存在し、それは「大和朝廷と戦った安倍氏、平泉文化を築いた藤原氏を支えた」と述べられ、伝統的なタタラ製鉄で舞草刀の復活が試みられている。

  奈良時代にはエミシも鉄製の農具や馬具や武器を生産しているが、それが弥生文化の影響によるものと単純に考えることはできない。エミシの独自の技術を使って鉄斧や刀子や手斧やノミ、轡(くつわ)や鞍、鋤、鍬や鎌を製作したものもあると考えられる。北上市の藤沢遺跡からは、銅の精錬の炉跡とふいご、るつぼ、銅の地金が発掘された。この遺跡は奈良時代末期のものであり、エミシが独自に銅の生産と加工を行っていたと考えられる。

  岩手県には釜石製鉄所、南部鉄器に代表されるような伝統的な製鉄技術が存在し、県内の製鉄関連遺跡は、古代から近世にかけて、三陸の釜石市、山田町、宮古市、北山川流域の盛岡市、馬淵川流域の浄法寺町などで独特の木炭窯業、鍛冶炉などが発掘調査されている。岩手県においては、古代から縄文人独自の製鉄技術、黒潮によって運ばれたメソポタミアのヒッタイト製鉄技術、北方経由のタタール製鉄技術が混在してきたように感じられる。

   高度な縄文社会の漆文化

  縄文人の漆塗りの物具は、北は北海道から東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州と全国的に発掘されている。年代も縄文前期から始まって中期、後期に渡っている。漆塗りを施すことによって、腐食や湿気や酸性に強くなり、光沢が高まる。

  漆塗りを施されたものは、土器、櫛、木椀、盆、壺、腕輪、耳飾り、杓子、籠、弓と多彩である。素地になるものは木のほかに、土器、骨、角、石など多彩である。漆の種類は、赤と黒、黒地と赤、赤地と黒、ベンガラ(赤色顔料)、水銀朱などがある。漆塗りの工程は、顔料の採集から調整、塗布、乾燥、などに分かれ、繰り返し塗布が行われる複雑な作業工程からなっており、世界的に見ても、日本の技術の高さが評価されている。

  福井県鳥浜貝塚の縄文漆は、6200年前とされ、中国の殷代の漆技術より古い。東アジアで最古ではないかと見られている。漆塗りの技術は、中国から伝播したのではなく、縄文人が独自に作り上げた可能性が強い。いずれにしても、漆塗りはアジア起源のようで、シルクロードでも東西に交易されていた。

      

 青森県の遺跡からも高度な技術を施した漆器が幾つか発見されている。三内丸山遺跡からは、木椀や櫛や弓や太刀の漆塗りが見つかっている。

      

  岩手県内では、縄文後期の萪内遺跡から漆が塗られた櫛、椀、皿、鉢、飾り弓が出土している。縄文の漆塗りの技術は、延々と現代にも受け継がれ、県内でも「南部うるし」として受け継がれている。

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