蝦夷―6・ 
エミシの社会

       エミシの伝統的な縄文社会とは

 岩手県内にも縄文草創期から、早期、前期、中期、後期、晩期、続縄文文明、さらには弥生、古墳時代の遺跡が数多く存在している。それらの遺跡が独立して存在している場合と、一ヶ所に重層的に存在している場合もある。

 それぞれの文化の担い手は、スンダランドなどの南方系の古モンゴロイドであったり、バイカル湖周辺やシベリアの新モンゴロイド(モンゴロイド)であったり、中国経由の人々であったり、朝鮮半島経由の人々であったりするが、はるばる中近東方面から陸のシルクロード(シルクロード)や海のシルクロードを通ってやってきた人々の影響も無視できない。

   エミシのもともとの伝統社会はどのようなものであったのか。又「蝦夷征伐」が始まる七世紀には、どのような人々が、どのような社会に暮らしていたのだろうか。

   エミシと呼ばれる人々は、基底には南方古モンゴロイドの前中期縄文人の血脈があり、そこに北方新モンゴロイドの後晩期縄文人の血脈が合流し、更に、弥生人の血脈も部分的に入り込む、重層かつモザイク的な様相を呈していたであろう。

   前中期には三内丸山文化圏に入り、後期、晩期には亀ヶ岡文化圏に入っていた。ゆえに、エミシの伝統社会は三内丸山と亀ヶ岡に見ることができる。

  ヒタカミノクニの中心地、平地が広がる北上川の中流域では、縄文前期から後期までの遺跡が点在しているが、そこに弥生文化と古墳文化も濃厚に侵攻している。山や高原や丘陵の多い北上山地、奥羽山地、三陸海岸では縄文遺跡が多く、古墳文化は殆ど浸透していない。各年代の縄文文化の基底の上に、七世紀には南下してきた続縄文文化と北上する古墳文化が錯綜していた。

  北上川流域を中心に、水田稲作が盛んになり、古墳文化の影響で、階級の分化の兆候も見え始めるが、大部分の地域では、縄文の無階級社会を維持していたと考えられる。いわゆる「蝦夷征伐」が開始される七世紀から八世紀の遺跡は、亀ヶ岡分化の影響が残り、続縄文文化、擦文文化続縄文・擦文文化などの北方系の影響が濃厚になっている。

   自然とつらなるエミシの世界観

  縄文文化は、日本列島の豊かな森林生態系に涵養された自然共生文化である。

  東北の北部地域は、ブナ、コナラ、ハンノキ、クルミ、クリなど落葉広葉樹林が優勢であった。縄文晩期には、落葉広葉樹林は、関東、中部、北陸まで広がったが、亀ヶ岡文化圏もこれとほぼ重なって南下していた。山々は木の実、山菜、鳥獣を育んでくれるだけでなく、栄養豊かな水を川や畑に供給し、作物と貝類と魚類を育んでくれる。八世紀頃には弥生文化の影響を受けて、水田が河川や湖沼の低湿地帯に作られた。

   縄文社会は、総じて食料も生活用具も豊かな社会であった。自然が豊かな恵みを与えてくれたので、獣を捕り尽くしたり、魚を捕り尽くしたり、植物を採り尽くしたりすることは殆どなかった。縄文人の末裔と考えられる東北の山の民には「きのこが三本あったら、一本は山の神のために、一本は動物のために残し、一本だけ頂く」という教えがあるが、縄文人たちもそのようにしたであろう。これは種を絶滅させないための知恵である。

 盛岡市の萪内遺跡は北上川の支流の雫石川のほとりにあり、縄文時代後期の大型土偶が出土したことで有名であるが、アユ、フナ、ウナギ、サケなどの川魚を捕る仕掛けの?(えり)や洗い場の遺構が発見されたり、周囲の山の恵みと川の恵みによって生活が支えられていたことがわかる。

 縄文人としてのエミシの自然観なり世界観を、遺物だけで想像することは簡単ではないが、彼らは、自然と共に生きた、自然の恩恵で生きた自然人であり、日々の生活が自然に対する感謝の念によって成り立っていたであろう。エミシもまた縄文人と同じく、家族、氏族、民族、人類だけでなく、人と植物、人と動物、人と大地、人と宇宙もつながっており、全ての生命、全ての植物、全ての動物を同族として見るのである。

   エミシの社会の縄文社会

  アワ、ヒエ、イネ、ソバなどの穀物栽培は、縄文時代においても可也早い段階から行われていた。三内丸山遺跡では、縄文前期にあたる泥炭層からイネ科のカラスムギが出土している。縄文人は動植物性の肉や魚に偏った食生活をしていたのではなく、山菜や木の実やイモ類の採集、雑穀類の栽培など植物性の食の割合が高かったのである。それは人骨からのコラーゲンの抽出によって確かめられている。エミシも縄文期に原始農耕を営んでいただろう。

  岩手県内では、縄文時代の農耕関連の遺跡は殆どないが、それは自然を改変しない原始農耕の痕跡は残りにくいからに過ぎないだろう。弥生時代には、北上川流域、馬淵川流域を中心に、コメ類、ムギ類、雑穀、豆類、芋類、野菜の畑作が行われている。陸稲の栽培も行われていた。鍬、鎌、鋤などの鉄製の農具も使われた。籾痕のある土器も発見されている。

  東北に水田稲作が広まり始めたのは紀元前にまで遡る。青森県の砂沢遺跡や垂柳遺跡から紀元前二、三世紀の弥生前期の水田遺跡が発見されている。農具や調理に使われたと思われる石器や土器も出土しているが、殆どが縄文系のもので、まだ、稲作文化が定着している様子はない。中国から北九州に伝わった水田稲作は、次第に東進・北上し、弥生前期から中期のかけて北上川流域にも水田稲作が広まった。弥生中期には、ヒタカミノクニの中心地である胆沢地方の水沢市・常盤遺跡からも籾痕、炭化米、木製農具などが見つかっている。ここではまだ、金属農具や磨製石器は使われていない。

{「水陸万頃(すいりくばんけい)」北上川中流域の豊かな自然環境は私たちの
      
ふるさと 誇りで 今からおよそ1200年前、未開の陸奥(みちのく)に蝦夷(えぞ)征伐にやってきた
    
大和朝廷の都人(みやこびと)は北上川中流域の川水と陸地の広々とした眺めに おどろいて、      水陸万頃(いりくばんけい)」という言葉で言い表わしました。

「万頃(ばんけい)」の「頃(けい)」とは古い中国語で「土地の広さ」をあらわす
      
単位だということです。「万」には「たくさんの」という意味がありますから、
   
「万頃」とは、広々としている、という意味になるわけです。  西には、古い火山で、夏おそくまで雪が   、美しい高山植物が咲き乱れる    焼石連峰がそびえて、その裾野(すその)には教科書でおなじみの胆沢扇地が広がります。

  胆沢平野では、「水陸万頃」(すいりくばんけい)といわれるように、肥沃な稲作地帯を形成していた。次第に鎌や鋤などの農具だけでなく、水路を掘るための斧も鉄製のものを使うようになった。北上川に近い水田脇の微高地には集落が形成されていった。弥生式の「遠賀式土器」も使用されていた。北上川から水田稲作が伝播したことを物語っている。次第に集団的な農耕が行われるようになると、それを統率する族長の権威が高まり、エミシ内部の階級分化の萌芽が膨らみはじめたようにも見える。

  弥生人の植民活動も活発になり、縄文人と弥生人、先住民と渡来人との摩擦も激しくなる。

このページのトップへ