蝦夷―5・
「まつろわぬもの」

    エミシとは東北地方の「まつろわぬもの」の総体

   蝦夷の蝦と言う字は、カエルやヘビを表し、夷と言う字は、野蛮な民という意味で、いずれも侮辱語である。蝦夷(エミシ、エゾ、エビスなどと読む)は中国の「宋書」などの「毛人」(エミシ)の由来説、蝦夷は弓の達人であったから「ゆみし・弓師」と言う説、アイヌ語の刀を表す「エムシ」と言う説、樺太アイヌ、古代アイヌが自分たちのことを表す「エンジュ」「エンチュ」がエゾ、エミシとなったという説。

   更に時代が下り「蝦夷征伐」が行われる八世紀までは、畿内での権力争いに破れた邪馬台国勢力、出雲勢力、長髄彦一族、物部勢力、新羅勢力が、東北地方へ退却している。例えば、九州から生駒(大阪府)に移住していた物部の祖、鐃速日命(にぎはやひのみこと)と長髄彦の連合軍は、東征してきた神武天皇に破れ、物部一族は常陸や陸奥に逃れ、長髄彦一族は津軽に逃れたとされる。

   又、七世紀から八世紀にかけ、度重なる大和朝廷の権力争いで、百済勢力、藤原勢力との戦い破れた新羅勢力が中部から関東、東北へ進出している。

  大和朝廷は、東北地方の中央権力に従わない「まつろわぬもの」の総体を「蝦夷」「東夷」として恐れ、さげすみ、討伐の対象としてきた。そこには中央の権力争いで破れた人々も含まれていたが、主体になったのはエミシとよばれた縄文先住民である。

  蝦夷と一言で言っても、年代的、地理的、民族的に相違があり、単純に定義できない。

 あえて定義すれば、蝦夷と呼ばれる人々は、現在、東北地方と呼ばれる地域に重層的な混血モザイク的な混在によって成立した、中央権力に対して抵抗を繰り返してきた勢力であったといえる。

 構成要素として整理してみる。

  第一に、主として草創期から中期当たりまでの縄文文化を担った南方系の古モンゴロイド勢力。この中には三内丸山文化を担った人々が入る。蝦夷―1参照

  第二に、主として後期あたりから晩期までの縄文文化を担った北方系の新モンゴロイド勢力。(日本人  人類の進化1    3参照) この中には亀ヶ岡文化を担った人々、続縄文文化、擦文文化を担った人々を入れることも出来る。ツングース系の人々が代表的である。

 第三に、南方系の古モンゴロイドに属するアイヌの人々で、東北の北部から北海道などに居住した。(モンゴロイド参照

  第四に、メソポタミア文明を日本列島に伝えた中近東系のエプス人と言われる人々。(ツングース参照)縄文晩期社会に鉄器文化などの異質な文化を持ち込んだ。

  第五に、大和朝廷に征服された、或いは中央の権力闘争に破れた邪馬台国系、出雲系、長髄彦系、物部系、新羅系の勢力。彼らは大和朝廷の支配者に強い反感をもっており、エミシの人々によるヒタカミ防衛戦争には強い共感を持っていたはずである。彼らが直接、ヒタカミ戦争に参加したかどうかは定かではないが、武器や物資の提供などで支援した可能性が強い。

  上記の勢力は、混血や棲み分けによって、概ね平和的に共生し、縄文的文化と弥生的文化を混合させ、大和朝廷の侵略に対抗してきたのである。当時のエミシの社会は、国史で語られているような未開野蛮なものではなく、縄文的な風土の中に、弥生的な文化も浸透した社会であった。鉄の農具を利用した稲作も行われ、族長を長とする氏族連合、部族連合が出来ていた。エミシの族長の中には、大和朝廷から懐柔されて、官位を与えられ、「蝦夷征伐」に協力し、いわゆる「蝦夷塚古墳」を造営するものも現れている。

    エミシはどこから来たのか

(  原人   石器時代

日本人の原像・   道具革命  旧石器文化  最北に生きた縄文人

 決して単一の民族ではなく、南方系の人々、北方系の人々、中国系の人々、中近東系の人々、そしてそれらの複雑な混血によって成り立っているが、北方系、大陸系の血脈が強くなっている。

 岩宿遺跡に代表されるような後期旧石器時代の細石刃文化は、関東以北に見られるが、これらは沿海州、バイカル湖、華北、朝鮮半島との類似点が見られる。人種的にいえば、北方系のツングース系が代表的人種といえる。文化的には南方系と北方系の融合文化である三内丸山と北方系の色彩の強い亀ヶ岡文化、津軽市)更に、北方系の続縄文文化の継承者という側面が強い。

  岩手県内では、三内丸山圏は円筒式土器の使用が特徴で、秋田県、富山県、石川県へと広がっている。ヒスイ黒曜石などの流通ルートも、この円筒式文化圏の広がりと軌を一にしている。(黒曜石

  ツングースの人々は、もともとシベリア大陸の大部分を占める広大な地域に居住していた。彼らはツングース・満州語を話し、アニミズム、トーテミズム、シャーマニズムといわれる世界に生きていた。そこには階級や国家は存在しなかった。トナカイ、シカ、クマを追い、サケ、マスを求めて、数万年前、当時、陸続きであった樺太、北海道、或いは朝鮮半島から本州へと到達したと考えられる。彼らが日本列島で縄文文化を継承した人々だと考えられる。このエミシの血統は、現在の大部分の東北人、そして部落の人々に受け継がれているだろう。

   「日高見国」(ひたかみのくに)とは何か

   「日高見国」という呼称は、エミシの生活圏の呼称として「日本書紀」「常陸国風土記」「延喜式」などに出てくる。元東京大学教授の高橋富雄氏は「日高見国というのは、岩手県から宮城県にかけての北上川流域のことを指すが、常陸国(茨城県)もそれ以前に日高見国といわれていた」と展開する。

   「日高見」というのは、「日が昇る肥沃な東の大地」を意味し、北上川中下流域、関東平野がいずれも該当する。語源も色々あるが、日の上がヒダカミに転じたという説。即ち、「日の出ずる処」と言う意味である。「国」というのは、国王を祭る国ではなく、故郷、ふるさとという意味での「クニ」と言うことのほうが相応しい。先住民、縄文人は国家などというものを形成したことがない。

   肥沃な大地のある「日高見国」は植民地を求める渡来人の国家、大和朝廷にとって、垂涎(すいえん)の的であった。まさに、「東の辺境に日高見国がある。土地が肥えて広い。攻撃しても奪い取るべきである」と驚くべき素直さで、東国を視察した大臣、竹内宿禰が「日本書紀」の中で景行天皇に述べている。

景行天皇   ヤマトタケルノミコト 記紀神話にみえる古代の英雄。「古事記」では倭建命、「日本書紀」では日本武尊としるされている。景行天皇の皇子で、本名は小碓命(おうすのみこと)。 景行天皇の命により、少年の身ながら、九州南部で抵抗していた熊襲を平定し、そのとき熊襲の首領クマソタケル(熊曽建:熊襲梟帥)から、ヤマトの勇猛な男を意味するヤマトタケルの名を献じられた。帰途、山河の神々を服従させ、出雲のイズモタケル(出雲建)を謀殺して都にもどったが、天皇はすぐに東の十二国の平定を命じる。伊勢神宮の斎宮ヤマトヒメ(倭比売:倭姫)からあたえられた草薙剣(くさなぎのつるぎ:→ 三種の神器)と火打石をたずさえて、尾張、焼津、相模の走水(はしりみず:→ 観音崎)をへて房総半島にわたり、ここからすすんで蝦夷(えみし)を討ち、帰途は足柄、甲斐、信濃をとおって尾張についた。伊吹山の神を退治にいくが、病み、三重の能煩野(のぼの)で望郷の歌をうたって死んだ。「古事記」では多くの地名起源説話や抒情的(じょじょうてき)な歌謡がしるされ、文学性豊かな物語となっている。大和朝廷の発展期の数次にわたる地方平定を、ひとりの英雄の物語としてまとめたものといわれる。)

 大和朝廷はもともとは渡来人の国であり、彼らから見れば「日高見国」とは「日の出ずる」、日本列島の先住民の生活圏であった。「日高見国」の領域は、大和朝廷の東国侵攻につれて侵略され、東進、北上していき、七世紀当たりには岩手県の北上川流域のことを指したと考えられる

「蝦夷征伐」から「奥州征伐」と続く大和朝廷と北上川流域に存在したヒタカミノクニの全面衝突は、実に八世紀から十二世紀まで続いた。

   アイヌの人々は何処から来たのか アイヌ モンゴロイド

  蝦夷の中にアイヌは含まれるが、イコールではない。蝦夷=アイヌ説は部分的真実でしかない。

  アイヌの人々については、北方民族説、コーカソイド(白人)説などが流布されてきたが、いまだに定説がない。民族学的にみれば、南方民族説のほうが正しいのではないかと考えている。

  人体的特徴をみても、寒冷地に適合したツングース系の新モンゴロイドとは異なり、骨格や歯や遺伝子の特徴から南方系の古モンゴロイドのそれが強い。文化的にも高床式の倉庫、衣類、楽器、丸木舟などをみても南方系の特徴が見て取れる。熊送りなどの北方系の文化は、大陸から朝鮮半島を経由し、東北、北海道へ進出する過程で、北方系、オホーツク系の諸民族との接触の中から学び、かつ独自に創出したものであろう。

   アイヌ民族は、スンダ大陸などの南方から中国大陸の陸路と日本海の海路を通じて、東北や北海道に上陸し、縄文エミシや縄文ツングースと共存、ないしは確執を通じて北上、北海道や樺太や千島列島に居住するようになったと考えられる。

  アイヌが蝦夷の一部として、「蝦夷征伐」に抵抗したことは考えられないことではないが、アイヌが単独で大和朝廷の侵略を打ち破ったとは考えにくい。又、アイヌが「蝦夷征伐」によって奴隷化され、全国的に俘囚として移配され、部落民になったというのも考えにくい。だが、アイヌが北東北から北海道と呼ばれる地域に居住して、縄文文化、擦文文化の重要な担い手であったことは否定しがたい。蝦夷が中世以降、エゾと読まれるようになると、この言葉は北海道のアイヌを示すものになっていく。

   続縄文文化、擦文文化とは何か 続縄文・擦文文化

  北海道や東北北部で縄文文化に続いた続縄文文化、擦文文化の担い手はどのような人々であったのか。又、北海道のオホーツク海沿岸に存在したオホーツク文化の担い手はどのような人々であったのか。いずれも北方系の影響が強く感じられる。これらの北方系文化がエミシの文化に直接つながっていく。

オホーツク文化 オホーツクぶんか 北海道のオホーツク海沿岸や千島列島にみられ、奈良〜平安時代に並行する文化。クジラ・オットセイなど海獣の狩猟や漁労を中心に生活していた。住居跡は五角形か六角形で長軸10m以上の大型のものもあり、床面積は7080m2とひろい。1つの住居に数家族が居住していたと考えられ、これは生業形態とも関係すると思われる。住居の奥にはクマやシカの頭骨がまつられ、柱にクマの彫刻があることから、アイヌの熊祭りの源流がここにあるともいわれている。 網走市のモヨロ貝塚は戦前から知られた遺跡で、住居跡や石器・金属器・骨角器などを副葬する多くの墓が発見された。これらの墓は長軸11.5mの土坑に頭を北西においた屈葬(くっそう)で、頭か胸の上に土器を埋納するものもある。この文化は、骨角器や石器にサハリン(樺太)やアムール川流域の文化と密接な関係があることが知られ、発見された人骨はアイヌ民族系統でなく、モンゴロイドで極北地方にすむアレウト族かともいわれている。)

  続縄文文化というのは、縄文晩期の最末期の、金属器を使用するが、狩猟・採集・漁労を生業とし、稲作を伴わない文化で、東北の北部と北海道に弥生時代、古墳時代と並存し、七世紀まで続いた。

  続縄文文化に続いて北海道、東北北部では、八世紀初頭、刷毛でこすった文様や鋭いヘラで彫った文様のある土器が特徴的である擦文文化が興った。生業は狩猟・漁労であるが、農具への鉄器の使用、竪穴住居による集落、アワ、ヒエなどの栽培などが特徴で、北海道と下北半島、津軽半島の海岸線に見られ、アイヌが主な担い手であったと考えられる。クマ送りなどの北方系の文化の影響も受けて、独自のアイヌ文化に変容していく。

  又、五世紀頃から北海道のオホーツク沿岸、樺太(サハリン)、千島列島(クリル島)には北方的な特徴を持つオホーツク文化が展開されている。鉄製の蕨手刀、曲手刀子、青銅製の矛、鐸などを使用し、熊送りの儀式を行っていた。担い手はアリュート人、イヌイット(エスキモー)、ニバフ(ギリヤーク)、ウルチなどの説があり、アムール川、沿海州のマツカツ、女真と呼ばれた北方ツングースが主体であろう。これらの北方系の文化は、エミシ文化と共通する部分が多い。

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