蝦夷―4・
日本の先住民・縄文人

    日本の先住民・縄文人

    日本や中国の公認歴史書や公認文献に現れた日本の先住民。彼らの大部分は、大陸から弥生文化の入る前より、日本列島に住んでいた縄文人と言っていいだろう。次に挙げる呼称は、植民者、征服者たちが、先住民たちを軽蔑して付けた名前が多いため、正確さに欠け、一部は重複している呼称もあるだろう。

   南方から見てみる。

 沖縄人(南西諸島、南方系)      阿麻美人(南西諸島、南方系)

 熊襲(南九州、南方系)        隼人 (南九州、インドネシア系)

 安曇(北九州、インドシナ系)                  肥人(西九州、南方系)

 国栖(四国、畿内大和から関東、土蜘蛛と同族か)

 佐伯(北陸から関東)                                 

 土蜘蛛(関東から西日本、ツングース系ウイルタか)

 八束脛(関東、土蜘蛛と同族か)              越人、高志人(裏日本、ツングース系)

 蝦夷(東日本、ツングース系)

 毛人(東日本、苗族系オロチォン族の混血か 蝦夷と一部同族か)

 粛慎(裏日本、ツングース系、エミシと重なるか)

 労民(東日本、オロチョン)                      穢多(東日本、アイヌ)

 日の本(千島列島、コロボックス)

   これらの人々は、ネグリュート系、マレー・ポリネシア系、インド・アーリアン系、ツングース系、アイヌ系と様々であり、何万年、何千年の間に棲み分け、共存したり、人種的、民族的な混交も進んだ。一万数千年の間、これらの縄文人たちは、国家や支配の無い平和な社会を保っていた。

   日本の先住民は、長い間の混血の過程で縄文人としての特徴を持つことになる。彼らは弥生人と比較すれば、背が低く、胴は短く、手足が長く、肩幅が広い。頬骨がはり、顔の幅が広く、四角張った顔をしている眉間が突出し、鼻筋が通り、目鼻立ちがくっきりしている。眉毛、ひげ、体毛が濃く、骨は太く、頑丈であるという特徴である。

日本人の原像:縄文人

縄文人の姿
日本列島では、43万年前の後期旧石器時代には人間が住み始めていたことは確実です。しかし、その時代の日本列島全体にどんな人々が住んでいたのかは、まだ良くわかっていません。わたしたちの祖先の姿をはっきりと見ることができるのは、縄文時代からです。

縄文人の顔
日本列島では、43万年前の後期旧石器時代には人間が住み始めていたことは確実です。しかし、その時代の日本列島全体にどんな人々が住んでいたのかは、まだ良くわかっていません。わたしたちの祖先の姿をはっきりと見ることができるのは、縄文時代からです。

男性

女性

(イラスト 石井 礼子)

縄文人頭骨
2700
年前
岩手県宮野貝塚
国立科学博物館蔵

縄文人復元胸像
3500
年前
若海貝塚出土人骨に基づく
国立科学博物館蔵

                                                                    

渡来系弥生人の顔

頭骨をもとに復元した渡来系弥生人の顔は、面長でのっぺりとした顔立ちです。まぶたは一重で、目は細く、くちびるも薄く、ヒゲなども少なかったと想像されます。このような顔の特徴は、大陸の人々にもみられます。
土井ヶ浜遺跡の弥生人が大陸から渡来してきた人々であったことは、ほぼまちがいないでしょう。

男性

女性

 

(イラスト 石井 礼子)

 彼らの渡来ルートは一様ではなく、縄文早期・前期には、南方系の影響が色濃いように見え、中期・後期には北方系の影響が濃いように見え、それらが混血・融合した。縄文人は、一つの人種や民族を表すものではなく、多様な人種、多様な文化の融合者といえる。

縄文時代は、一万三千年前から一万年以上も続いた。人類史でこれほど長く独自の文化を築いた地域はないといってよいだろう。いわゆる四大文明も、これほど安定した長期間続いたものはなかった。一番長く続いたエジプト文明でさえ、最大限に見積もっても7000年に過ぎない。

一万三千年前、日本列島にも、槍や銛やナイフに使われた細石刃が現れ、狩猟や漁労に大きな変化をもたらした。元々この細石刃の文化は、バイカル湖付近で興り、シベリアや中国や朝鮮半島を経て、日本にも伝わったと考えられている。この土器の発明と合体して、縄文時代の始まりを告げるのである

2万年ほど前、石器の小型化に力を注いできた人類は、細石刃という極めて細く薄い石器を考案します。細石刃は、組み合わせ道具の部品で、骨や角の軸に彫られた溝にカミソリの刃のように埋め込んで使うものです。人類は、この画期的な組合せ道具をたずさえ、ついには北緯72度にまで到達します。小さく薄い細石刃をはがし取る材料となるクサビ形細石刃核(細石刃を剥がす作業面がクサビ形をしている)は、シベリアを越えて、北部中国、朝鮮半島、日本列島、アメリカ大陸北部に分布します。特に、縦割りを繰り返しながら細石刃を量産する技法は「湧別技法」と呼ばれ、シベリア、日本列島に広がりました。


(a) 細石刃の生産工程(湧別・幌加沢テクノコンプレックス)
(b) 植刃尖頭器(槍先)。シベリア、チェルノ・アジョーリエ出土。

細石刃核
1
7000年前
白滝・幌加沢遺跡出土
札幌大学埋蔵文化財展示室蔵

細石刃
1
7000年前
白滝・幌加沢遺跡出土
札幌大学埋蔵文化財展示室蔵

ファースト・スポール
17000年前
白滝・幌加沢遺跡出土
札幌大学埋蔵文化財展示室蔵

セカンド・スポール
1
7000年前
白滝・幌加沢遺跡出土
札幌大学埋蔵文化財展示室蔵

接合資料
1
7000年前
白滝・幌加沢遺跡出土
札幌大学埋蔵文化財展示室蔵

細石刃核ブランク
1
7000年前
白滝・幌加沢遺跡出土
札幌大学埋蔵文化財展示室蔵

 

  

石刃の中で幅が1.2cm以下、もしくは長さが5cm以下のもの。組み合わせて、銛、槍先にする。

細石刃
1
7000年前
白滝・幌加沢遺跡出土
札幌大学埋蔵文化財展示室蔵

「日本人はるかなる旅展」 国立科学博物館

  三内丸山人が縄文文化に与えた影響

  東日本の人々は、どのような人種的な変遷を辿ったのだろうか。まず、南方系、中国系の人々が縄文時代の早い時期から東北地にも積み続け、それに続いて、北方系の人々もリマン海流から対馬海流に乗って住みつき、混血したと考えられる。

リマン海流 リマンかいりゅう Liman Current シベリア南東部沿岸を南向きにながれる海流。リマン寒流ともいう。対馬海流(暖流)の一部は、サハリン(樺太)の西岸を冷却されながら北上すると、やがてアムール川の淡水とまざり、流れの向きがかわって、大陸沿いに南下する。これがリマン海流である。流速は0.5ノットで小さい。  対馬海流 つしまかいりゅう 九州南西部で黒潮からわかれ、対馬海峡をとおる暖流。日本海の本州沿岸にそって北にながれ、サハリン(樺太)西岸沖合いに達するか、津軽海峡、宗谷海峡をとおって太平洋、オホーツク海へながれでる。このため東北地方では、太平洋岸より日本海岸のほうが気候が温暖になる。対馬暖流ともいう。)

 沿海州からリマン海流に乗れば、東北や北陸の海域で、対馬海流とびっかり、対馬海流が北陸や東北の日本海側に運んでくれる。

 三内丸山文化が始まったあたりは、ちょうど南方系と北方系が合流する過度期に当たるため、この文化を築いた人々を南方系と見る学者と北方系と見る学者が真二つに分かれているのであるが、南方系と北方系の融合文化と見るべきであろう。

 三内丸山文化が興った5500年前は、気候が最も上昇し、落葉広葉樹林が繁茂し、陸奥湾が内陸まで進行していた時期である。現在の青森県青森市に当たるこの地域も山の幸、海の幸に恵まれた理想的な自然条件であった。

 人種的な特徴を見ても、石器、栽培作業、言語などの文化的特徴を見ても、両者の文化(南方系と北方系)が重なっていることがわかる。栽培された作物を見ても、ゴボウやソバなどは北方系、瓢箪、エゴマなどは南方系である。

貫頭衣などの衣類、高床倉庫などの建物は南方系である。

 三内丸山文化は、4000年前後を境に急激に衰退を始める。元々は南方系であった三内丸山人は、寒冷化とそれによる食料不足に耐えられず、分散、衰退していったものと思われる。

 

   亀ヶ岡人が縄文文化に与えた影響

   縄文後期・晩期には、青森県の津軽半島の亀ヶ岡が中心となり、独特の文化が栄える。呪術や祭祀に用いられたと思われる華麗な文様の土器、漆塗の三足土器、遮光式の土偶、内反りの石刃、赤色や黒色の漆塗りなどが特徴である。サケ・マス・カツオ・ブリなどの漁労、シカ・クマなどの狩猟、クリ・クルミ・ドングリなどの採集だけでなく、北方系のソバやアワやヒエなどの栽培、イノシシやシカの飼育が行われた可能性がある。青銅製刀子をまねた石刀、三足土器などは、殷文化など大陸の影響や交流をうかがわせる。それでも大陸のような階級の分化はなく、武器や戦争の痕跡もない。亀ヶ岡分化の遺跡は青森、岩手、秋田での分布が多いが、東北一帯から北関東、北陸、中部へも広がった。

   岩手県内でも、北上川流域、馬淵川流域、三陸海岸などで亀ヶ岡文化と同系の遺跡が多く見られる。年代的にも亀ヶ岡文化は、2900年前から1800年前に当たるため、エミシといわれる人々は、亀ヶ岡文化の担い手でもあったと見られる。

   同じ青森や北海道で栄えた、円筒式文化を担った人々と、亀ヶ岡文化を担った人々と、擦文文化を担った人々が、それぞれ別の人種である可能性があり、問題を複雑にしている。

擦文文化 さつもんぶんか  北海道から一部東北北部に分布する文化で、擦文土器をともなう。擦文土器は胴部に刷毛(はけ)で擦(こす)った地文があることから命名された。昭和初期から研究がすすみ、現在では続縄文文化の終末期に本州の土師器(はじき)が影響をあたえ、7世紀ごろ成立したとされる。その終末期は1213世紀ごろと考えられている。  この文化初期に、江別市や恵庭市近辺で北海道式古墳とよばれる東北地方の終末期古墳に類似した、墳形が円形または楕円(だえん)形の墳墓が出現する。蕨手(わらびで)刀、鉄斧、土師器などをともない、分布は限定されるがこの文化に特徴的な墳墓である。 住居は1辺が46mくらいの方形竪穴(たてあな)住居で、屋内に炉をおき、煙道が戸外に通じるかまど()がつくこともある。海岸や河川、湖沼をのぞむ台地上に大集落をつくっていた。石器の出土例があまり多くないのは、鉄器が本州から移入されて普及したためと思われる。また、大麦、ソバ、アワなどの種子が出土しており、狩猟や漁労とともに栽培農耕が小規模ながらおこなわれていた。 擦文文化と同時期、北海道北部にはオホーツク文化が波及しており、道東のいくつかの遺跡では両文化の融合がみられる。最近の研究では、アイヌ文化を擦文文化までさかのぼらせる説もあるが、狩猟や漁労に関する民俗風習の祖型をオホーツク文化にもとめる説も根強く、定説はない。)

 円筒式文化を担った人々は、文化的に見て、南方系のマレー・ポリネシア系の色が強く、

(オーストロネシア語族 オーストロネシアごぞく Austronesian Languages アウストロネシア語族ともいう。かつてマレー・ポリネシア語族と称された語族で、700以上という言語の数でも、西はマダガスカル島から東はイースター島、ハワイにおよぶ地理的広がりからみても、世界最大の語族のひとつである。)

  亀ヶ岡式文化を担った人々は、北方系、中国系の北部ツングース、中部ツングースの人々である可能性のほうが高く、ツングース族が、沿海州から樺太、北海道に渡って、オホーツク文化を持ち込んだだろう。

ツングース族(エベンキ)のシャーマン

「シャーマン」の語は呪術師(じゅじゅつし)を意味するツングース系言語の「サマン」を語源とするといわれる。写真は、頭の先から足元まで豪華な装束に身をかため、太鼓を手にポーズをとるツングース族(エベンキ)のシャーマン。1890年ごろ、シベリアのロシア人入植者の家の前で撮影されたものである。Encarta Encyclopedia

 沿海州にはウリチ、オロチ、ウデヘ民族などのツングース諸族が居住してきた。沿海州からリマン海流に乗れば、東北北部にも辿りつける。

 縄文晩期には西日本では大陸からの影響で、水田稲作への素地が作られ始めるが、弥生時代の一世紀末には、まだ、西日本では弥生人が縄文人より人口が少なく、東日本にも殆ど弥生人は進出していなかった。

   縄文文化は何故、衰退したのか

   前二十世紀頃から起きた気候の寒冷化を上げることも出来るだろう。森林の植生も変わり、食料の絶対量が減少した。

  しかし、縄文社会に致命的打撃を与えたのは、前十五世紀頃から始まった「海のシルクロード」経由のフェニキア人、ユダヤ人、ヒッタイ人などによる日本列島への侵入である。これらの影響で、小山修三氏の推定によれば、一時、25万人もいた縄文人の人口が晩期には、75000人程度まで減少している。

  この原因は、武力征服だけでなく、伝染病の影響もあったと考えられる。

   更に、前三世紀の秦帝国の滅亡前後に起こった、弥生人の日本列島への大量進出が縄文文化に大きなダメージを与えている。

   当初、弥生文化、水田稲作の進出は比較的平和裡に行われたように語られて、弥生文化と縄文文化の共存、縄文人の稲作の受け入れも行われたとされた。しかし、古墳時代に入り、騎馬民族系渡来人の大量の殖民、古墳文化人の人口の増加で、両者の摩擦が激しくなっていく。

   日本列島に国家制度と奴隷制度、権力的な稲作技術と武器・農具・馬具としての金属器をもたらした大和朝廷は、縄文文化の中に生きてきた先住民たちを征服し、各地に植民地を造っていく。

   植民地支配の最大の方式は、肉体的な抹殺と強制的な移住である。即ち、先住民たちの抵抗する者は抹殺し、奴隷になった者を強制的に全国の強制収容所に閉じ込めることである。垣内(がいと)、別所などといわれるものがそれで、部落の起源になった。

   縄文社会の中にも、後期、晩期と進むにつれて、社会的な分業が進行し、階級分化の萌芽が見られたことは事実であろう。しかし、縄文社会は内部から自滅したわけではない。縄文社会は、大陸から侵攻してきた弥生勢力、古墳勢力、権力の兜を身に付けた殖民勢力の征服戦争によって解体、衰亡していくのである。八世紀半ばには、西日本では弥生人の人口が縄文人をかなり上回り、東日本でも弥生人の人口が縄文人の半数近くにまで至っている。

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