蝦夷―3・
稲作文化が入る

      稲作文化が入った中国ルート

   長江文明・古代稲作・世界最古の稲作・稲作の起源・7粒のコメに世界が注目

 

世界最古の稲作の起源古代稲作の起源東北最古の稲作七粒のコメに世界が驚き最古の稲作儀礼

 一万五千年頃には、日本列島と大陸が切り離されたが、縄文時代にも中国と日本の交流は海路で盛んに行われた。縄文時代における三内丸山文化と中国東北部との文化的共通性が次第に明らかになってきている。

 例えば三内丸山の環状列石(ストーンサークル)、円筒式土器などが、遼寧省の牛河梁文化(「中国の古代文明」)とほぼ同時代に存在したことは、日本海を挟み、1700`の距離を越えて、共通の円筒式文化圏を形成していた可能性もあることを示している。(「三内丸山遺跡の円筒式土器スライドA   )

 更に後期の殷文化が、紀元前1000年前後に縄文後期、晩期の亀ヶ岡文化圏に影響を与えていることも分かっている。

  中国ルートで、特に重要なのは、稲作が伝わったと考えられる長江下流域の中国中部から東シナ海、九州、本州ルートである。湖南省の長江流域では、仙人洞窟遺跡などで、一万二千年前に中国最古の稲作がなされていたことが

長江流域における世界最古の稲作農業)(環日本海文化)(世界最古の稲作

河姆渡遺跡 かぼといせき 中国浙江省にある長江下流の新石器時代の遺跡。197378年の2度の調査で黄河文明と同時期に長江文明があったことが明らかとなった。いまのところ中国最古級の新石器文化である。堆積した層位にもとづいて早期(43)と晩期(21)に大別でき、早期を河姆渡文化とよぶが、晩期をふくむこともある。前5000年以前にさかのぼる第4層から円柱・方柱など高床式建物の建築材が大量に発見され、復元すると長さ23m以上、奥行き7mもの大きさになる例もあった。これらの用材は刃部磨製石器で加工されている。第4層から当時世界最古の籾(もみ)や稲穀、農具が出土し、インディカ亜種の水稲と判明、アジアの稲作文化研究にとって大きな発見となった。土器でも中国最古の彩陶が発掘されている。ブタが飼育されていたが、漁労・採集も盛んだった。)

判明している。そしてその下流の河姆渡遺跡では、7000年前の稲籾、籾殻、稲の茎と農具が大量に発見された。

 日本列島では縄文早期で三内丸山よりも1500年も前である。この河姆渡遺跡からは瓢箪やエゴマやマメ類が出土して、日本各地の縄文遺跡(鳥浜貝塚三内丸山遺跡からも出土している。しかも中国の長江流域の稲と日本の稲の遺伝子が一致しており、必ずしも水田がなくても、焼畑や低湿地でも栽培できる熱帯ジャポニカ種だということもわかっている。

 但し、日本列島で水田稲作が始められたのは、縄文晩期の2600年前で、河姆渡よりだいぶ遅い。九州や中国、近畿地方の縄文晩期の遺跡から水田遺構(「北のまほろば」「劇的なコメ)や農機具、籾が発見され、青森や岩手でも弥生前期には稲作が開始された。水田を伴わない畑作による稲の栽培の痕跡を示す遺跡は、九州や岡山の縄文早期から晩期にかけての遺跡で見つかっている。

 日本列島でも長江文明の影響で、縄文の早い時期から熱帯ジャポニカ種の栽培が行われていたと思われる。当時の陸稲(畑の稲作)の担い手は、縄文人であり、水田稲作の担い手は弥生人(倭人)であるといっていいのではないか。

水田稲作の東進・北上は弥生人の東進・北上であり、これは縄文人の生活圏を脅かすものになっていく。

 新モンゴロイドが辿った北方ルート

 三万年前の後期旧石器時代には、インドネシアやインドシナのマレー・ポリネシア系の新人たちが、ユーラシアの大陸を歩いて北へ移動し始めた。

 その原因は、気候の温暖化で、スンダーランド大陸の面積が縮小したこと、人口が増大し、より多くの食料を求めなければならなくなったことであろう。

 中国中南部の新人たちが北へ押し上げられ、シベリアでは、寒冷適応の新モンゴロイドが誕生する(モンゴロイド)。彼らは身体的に寒冷地に耐え得る体質を獲得し、氷河期でも生き残り、シベリアからさらに、ベーリング海峡を越えて、アラスカにも渡っていった。彼らは、ツングースと呼ばれ、ウイルタ(オロッコ)、オロチ、ウリチ、コリヤーク、ブリヤート、ギリヤーク、満州民族などで、新大陸に渡った人々はアメリカ先住民となる。

 新モンゴロイドは、弓矢や磨製石斧土器を製作する技術を身に付け、バイカル湖周辺から5000年前頃にシベリア、朝鮮半島、中国、日本へと移動している。日本の新人たちの後期旧石器は、シベリアや北方アジアと類似のものが多く、彼らは北方経由の新人であった可能性が強い。

 中期以降の縄文文化へ北方系の影響が強いのは、この流れを引きずっているからであろう。又、現代の日本人と遺伝子の比較を見てみると、バイカル湖周辺のブリヤート人と一番近いという結果が出ている。

 縄文文化は、最初は南方系が多く、上野原、三内丸山などへの縄文人へ人種的特徴を色濃く残した。途中から北方系との混交が進み、亀ヶ岡などの北方系の文化的色彩が色濃く残った。この過程で、独特の縄文人が形成され、独特の縄文文化が涵養されていったであろう。

 縄文文化は北方系と南方系の文化の融合・完成文化といえる。

このページのトップへ