蝦夷―2・
入り混じった新人たち

     モンゴロイドとは    (久慈 力著「蝦夷・アテルイの戦い」より)

   中期旧石器時代から北上川流域に先住民が進出

   縄文人やエミシや現代人の祖先

   三万五千年前から一万年前は、後期旧石器時代といわれ、新人時代の到来となる。 (人類の進化―2石器時代)

旧人 きゅうじん Archaic Homosapiens 原人(ホモ・エレクトゥス)新人(ホモ・サピエンス)の間に位置する人類グループにあてられた和名(人類の進化の「旧人」-2参照)。以前は、「ネアンデルタール人段階の人類」を意味していたが、過去数十年間の研究の進展によって人類進化の学説が大きく変化しているため、「旧人」の定義も修正の必要にせまられている。現在の知見にてらしあわせると、旧人はアフリカのカブウェ人、北東アジアの馬?(マパ)人や大茘(ターリー)人、ヨーロッパのネアンデルタール人など、地域・年代による多様な人類集団をふくむ。

旧人の起源と各地域の旧人集団の由来に関しては、未解決の謎(なぞ)が数多くのこされている。その分類についても議論があるが、アフリカの旧人とヨーロッパの古い旧人をホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)という種にふくめ、ヨーロッパから西アジアにかけて分布した30万〜3万年前ごろの旧人(いわゆるネアンデルタール人)をホモ・ネアンデルターレンシスという種にふくめる見方があり、近年支持をあつめている。旧人は原人の時点からさらに北方へ分布範囲を広げたが、その拡大は比較的小規模にとどまった。人類の分布範囲が劇的に世界じゅうへ広がったのは、その後の新人の時代になってからである)。

   新人といわれる人々は、約三万年前からはじまる後期旧石器時代に、シベリアや中国に登場し、中国の上洞人、柳江人や沖縄で発掘された港川人、さらに静岡県の浜北人、三ヶ日人も日本列島に到来した。彼らには、現代のモンゴロイドの特徴が現れており、縄文人やエミシや現代人の直接の祖先になった可能性がある。

縄文人 じょうもんじん 縄文時代にその文化をになった人々。日本列島全体で数千体の人骨がみつかっているが、多くは中期〜晩期の貝塚・洞窟遺跡から出土している。平均身長は男性で158160cm、女性147150cmと比較的低い。一般的なイメージでは、丸顔で鼻が高く鼻筋がとおり、筋肉もよく発達している。歯も丈夫だが、奥歯は砂まじりの食物を食したり、動植物のかたい繊維質をなめしたりしたため磨耗している。しかし早期・前期の人骨にはきゃしゃなものもあり、この時期は気候不順などによる食料不足で発育の不良もあったと推測する研究者もいる。後期・晩期には貝塚などから食料資源が豊富にあったことが知られ、骨格も頑丈になっていく。 大陸との関係では後期旧石器時代の華南の柳江人との類似が指摘されている。沖縄の港川人(旧石器時代)も柳江人に近いことから、2万〜3万年前ごろに陸続きだった大陸からモンゴロイド系人種が現在の日本列島に渡来したが、その後海水面が上昇、列島に孤立して縄文人になったとの説がある。弥生時代に大陸系種族が渡来し、縄文人と大規模に混血したが、現代日本人の根幹の一端が縄文人にあることはまちがいない。  縄文中期〜弥生時代には抜歯の風習がみられる。成人となる10代後半に、口をあけたときにみえる切歯(せっし)や犬歯、小臼歯(きゅうし)のうちどれかをぬく。これは、歯をぬく苦痛にたえることで大人への一歩とする通過儀礼と考えられている。抜歯の形態で出自集団がわかるという見方もあり、西日本では東日本より形態が複雑なため、出自をより細かく区別していたと思われる)。

化石人類 かせきじんるい Fossil Hominids 骨が化石として発見されている人類(→ 人類の進化)。初期のグループとしては、約600万年前にアフリカに出現した猿人や、230万年前以降にあらわれる初期ホモ属があげられる。さらにジャワ原人や北京原人で知られるホモ・エレクトゥス(原人)の時代に人類はアフリカからユーラシア大陸へ進出した。数十万年前〜35000年前の旧人では、ネアンデルタール人が代表的な化石人類である。また、約10万年前に出現した新人は、現代人と基本的に同じ骨格の特徴をそなえている。数万年前の新人の代表的なものはクロマニョン人で、日本では静岡県で発見された浜北人(はまきたじん:約1400018000年前)や沖縄県の港川人(みなとがわじん:約18000年前)などが知られる)。

 後期旧石器時代には、バイカル湖以東のシベリアにも新人が進出しており、石刃技法の石器を使い始めている。この頃、北方のルートから日本列島にも新人が進出した可能性が強い。蒙古の支流であるブリヤードから日本人の祖先にあたる人々が分離し、当時、南も北も陸続きであった日本列島地域にも進出している。

 日本原人の存在は、捏造問題で現時点では否定されたが、日本に旧石器時代が存在しなかったということではない。岩手県でも北上川流域、三陸海岸、奥羽山系、北上山系に点在して後期旧石器時代の石刃、石斧、石核などが発掘されている。

 日本列島に上陸した新人は、トナカイなどの大型哺乳類の狩猟を得意としていた。盛岡市の四十四田遺跡、花巻市の花巻空港遺跡、湯田町の大台野遺跡、北上市の下成沢遺跡、胆沢町の上萩森遺跡など、北上川本流、支流の遺跡が多く、後期旧石器時代から北上川は先住民の絶好の生活圏を与えていたようである。二万七千年前とされる上萩森遺跡からは、ナイフ形石器、打製石斧、更に配石、柱穴遺跡が発見されている。

 9000年前から5000年前の間に、気温が2度上昇、いわゆる縄文海進が進行して、現在より5m以上も海面が上昇した。濃尾平野、関東平野、津軽平野、北上平野でも海域が拡大した。

 東日本には、落葉広葉樹林が広がり、西日本には、照葉樹林が広がった。日本列島は、世界でもまれに見る豊かな森林生態系に恵まれるようになり、一万年にもわたって、安定した独自の縄文文化が形成されていく。

 日本列島では、歴史的に見て、ユーラシア、オセアニアという広大な地域の「人類のるつぼ」といってもいいくらい、様々な人種が混交してきた。

オセアニア Oceania 南北太平洋の海域に点在する島々と、オーストラリア大陸をあわせた地域で、アジア大陸南東部の属島と南北アメリカの属島はのぞかれる。したがって、フィリピン全域とインドネシアの大部分の地域など、東南アジアの島嶼(とうしょ)はふくまれない。ニューギニア島は、西半分のインドネシア領パプア(旧、イリアンジャヤ)をふくめ、オセアニアに属する。  パプア Papua インドネシア東部の州で、ニューギニア島の西半分を占める。20021月にパプア特別自治法にもとづきイリアンジャヤ州からパプア州へ名称が変更された。旧西ニューギニア、西イリアン。北部は太平洋、西部はセラム海、南部はアラフラ海に面し、東部はパプアニューギニアと国境を接する。北西端はほぼ赤道直下にあり、北部と南部はマウケー山脈によってわけられている。同山脈中にインドネシア最高峰のジャヤ山(5030m)がそびえる。熱帯気候で、高地は気温が低い。モンスーンの季節には豪雨にみまわれる。住民の多くは農業に従事するが、地下資源が豊富で銅の採掘や石油開発がおこなわれている。面積は421981km2。人口は2337000(2003年推計)。州都は北東部の港町ジャヤプラである)。

 「日本民族=単一民族説」など成り立たない。

遠くは、中近東・西アジア・中央アジア・オセアニア・ミクロネシア・更にはギリシャ・ローマなどヨーロッパの人々も入ってきている。幾代にもわたって混血を繰り返して、「日本人」という新たな民族が形成されたのである。

 「日本人」の基底をなしているのは、モンゴロイドと言われる人々である。程度の差こそあれ、殆ど全ての「日本人」には、モンゴロイドの血が流れているといってよい。日本列島が大陸から分かれた後は、新人(原生人=「人類の進化A」たちが舟やカヌーや筏(いかだ)に乗り、様々なルートを経て様々な人種、民族が幾重にも幾重にも渡ってきている。

 縄文人と一口に言っても、南方系と北方系があり、更にそれが時代によって、分化・融合して複雑な様相になっている。 例えば、南方系縄文人といっても、インドネシアから来た人々と、インドシナから来た人々と、中国南部から来た人々、オセアニア・ミクロネシアから来た人々では、移住の年代も人種的特徴も、文化的特徴も異なるだろう。

 同じように、北方系縄文人といっても、極北から来た人々と、アムール地域から来た人々と、中国北部から来た人々では、全ての点で異なるであろう。

 南方系文化が北上していく起源として、鹿児島県における、約13000年前の縄文草創期の栫ノ原遺跡(かこいのはら)、9500年前の早期の上野原遺跡に注目すると、太平洋岸、日本海岸にそってこれらの縄文文化が北上しており、竪穴住居による大規模定住集落、集石や土抗や祭祀場、高度な土器や石器、土製の耳飾りと土偶、蒸し焼きや燻製の技術などは、数千年の年月をかけて北上し、全国各地の縄文文化へ影響を与えていったと考えられる。青森県における5500年前の三内丸山遺跡へも影響を与えただろう。

 全国の草創期から中期辺りまでの縄文文化は、南方系の色彩が濃厚である。

これは南方系の縄文文化が主として黒潮に乗って、太平洋岸、日本海岸を北上していったと考えるのが自然であろう。鹿児島の縄文人は、丸木舟を作る丸ノミ形石斧を使用していたが、それはフィリッピンやグァムなどでも発見されたそれと極めて似ている。(磨製石斧)

 彼らは航海術に優れていた。

世界各地の現代人には、肌の色、身体つき、顔つきなど、様々な見かけ上の違いが見られます(ただし集団内の個人差も相当大きい)。これらは各地へ散って行った新人(ホモ・サピエンス)が、それぞれ異なる自然環境に適応していった結果として生じたものです。
たとえば、赤道付近で暮らす人々の肌の色が濃いのは、浴び過ぎると皮膚癌の原因ともなる紫外線から身を守るために、皮膚のメラニン色素が増えたためです。しかしこれまで見てきたように、新人(ホモ・サピエンス)の歴史は非常に浅いので、現代人の各集団間の遺伝的な違いは、この見かけ上の違いから受ける印象と比べてずいぶんと小さなものでしかありません。

 

(日本人はるかな旅展・国立科学博物館)

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