蝦夷 古代の東北日本に居住し、大和政権・律令政府などの中央勢力にしたがわずに抵抗した人々。古代・中世は「えみし」、近世以降は「えぞ」とよみわけ、アイヌ民族にかぎらず、ひろくこの地にすむ人びとをさした。大和政権の確立期にあたる4〜5世紀には、関東地方北部〜東北地方が蝦夷と大和勢力のせめぎあう場所だったと思われる。 物部氏・大伴氏などが征討に派遣され、また周辺各地におかれた建部(たけるべ)たちの間に蝦夷征討物語のヤマトタケルノミコト伝説などが生まれた。 7世紀後半、大和政権が律令制的中央集権国家をめざすと周辺勢力への圧力も強くなり、阿倍比羅夫の遠征軍派遣や出羽国境ぞいに渟足柵(ぬたりのさく)・磐舟柵(いわふねのさく)が設置された。 8世紀になると柵戸(きのへ)とよばれる植民と城柵・建郡政策、つまり武力をつかって開拓をはじめ、律令国家の力が浸透した。 このため蝦夷の勢力圏は陸奥(むつ)国胆沢(いさわ:岩手県水沢市)以北まで後退し、780年(宝亀11)蝦夷側は伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の乱をおこして決起した。 しかし、長年にわたる戦いのすえに坂上田村麻呂に平定された。9世紀にも文屋(ふんや)綿麻呂・藤原保則らが蝦夷制圧にのりだしているが、もはやこれにさからう力はなかった。岩手・秋田以南の蝦夷が帰順し、古代後期には青森までが中央の勢力下にはいった。
蝦夷地 えぞち 蝦夷の居住地。古代に中国から華夷(かい)思想がはいってくると、日本の大和政権も、東北地方にすみ、政権にしたがわない者を蝦夷(えみし)とよんで、異民族としてあつかった。当時は関東北部と新潟県をむすぶ線より北の地をいい、蝦夷はアイヌ民族にかぎらず、ひろく東北から北にすむ人々をさした。 のちに中央政権の支配地がひろがると、蝦夷地の範囲も北へおいやられ、鎌倉末期には津軽海峡以北にせばまった。室町時代に渡島(おしま)半島南部に和人(本州系日本人)が進出すると、蝦夷地は和人居住地以北の北海道本島と樺太(サハリン)および千島列島となり、しだいに蝦夷もアイヌ民族をさすようになる。 和人の進出にともない、1457年(長禄元)コシャマインの戦でアイヌがはげしい抵抗運動をおこなうが、武田信広によって制圧された。信広は蠣崎(かきざき)氏を名のり、のち和人地の小領主も統一した。その子孫の蠣崎慶広(よしひろ)は、1590年(天正18)豊臣秀吉から蝦夷地支配を公認され、さらに99年(慶長4)には松前氏と改称し松前藩が成立する。 松前藩の領地は和人地(松前地)だけで、はじめは西は熊石、東は亀田(函館市)までの範囲だった。和人は松前藩の許可なく蝦夷地への往来と永住を禁止されたため、実質的に蝦夷地はアイヌのすむ土地となったが、いっぽうで蝦夷地に関する交易などさまざまな権益は松前藩が独占することになった。→ 蝦夷地交易 蝦夷地は、松前から海岸沿いに西にすすんで知床岬に達する西蝦夷地と、反対に東にむかって同岬に達する東蝦夷地、さらに樺太の北蝦夷地の3つにわける。また、東の襟裳(えりも)岬と西の神威(かむい)岬を境に、松前に近い地域を口(くち)蝦夷、遠い地域を奥蝦夷とよぶこともあった。 江戸後期、たび重なるロシア人の南下により海防の必要性が高まり、幕府は1799年(寛政11)に東蝦夷地、1807年(文化4)には全蝦夷地を直轄としたが、21年(文政4)にはこれをやめている。54年(安政元)日本の開国によって箱館(函館)の開港がきまると、翌年、幕府は蝦夷地をふたたび直轄地とし、箱館奉行に支配させ、蝦夷地への和人居住もみとめた。69年(明治2)明治政府は開拓使を設置し、蝦夷地を北海道とあらためる。
古墳文化の及ばぬ北の世界
中央政府を基準とした日本史の時代区分では、弥生時代に続いて、三世紀末頃から古墳時代が始まることになる。これは前方後円墳に代表される、あの巨大な古墳が大和を中心に、統一的な企画性をもって各地に造営された時代であり、この前方後円墳こそ大和政権の誕生を象徴するものである。
こうした古墳文化の新しい波は、四世紀前半には早くも東北南部にまで押し寄せており、福島県域には可也の規模と構造をもった古墳の存在が知られている。それは更に宮城県の大崎平野、山形県の山形盆地・米沢盆地辺りまで北上するが、岩手県に、五世紀後半の造営と推定されている胆沢町の角塚古墳が、古墳の濃厚な分布地帯から離れてポツンと一つあるものの、秋田県や青森県域には、前方後円墳は一つも存在しないのである。青森県域は、東北南部とは対照的に、大和政権の古墳文化の影響はきわめて薄かったといえよう。
それとは逆に、この頃から青森県をはじめ東北北部には、北海道特有の文化の影響が目立つようになる。例えば、読縄文土器と総称されている、本州に稲作文化が普及した後もなお、縄文時代同様、狩猟・漁労・採集などを主たる生業としていた北海道の文化を代表する土器が、東北地方でも見つかるのである。
こうした事態の背景としては、四〜五世紀頃から始まったとされる小氷河期における気温の低下があったらしい。いち早く弥生文化を受け入れてはいたものの、この気温の低下で県下の稲作は大きな打撃を受け、稲作の北限は岩手県南部あたりまで後退したものと思われる。(「青森県の歴史」山川出版社)
縄文から時代は下り、弥生、古墳時代へ。稲作とともにさまざまな文化、大和朝廷の政治力の影響が西から北東北にも伝わるようになる。その最たる例が故人を祭る墓標・古墳文化の波及である。ところが、大和朝廷の権力の象徴ともいえる前方後円墳は、胆沢町の角塚古墳より北に作られることはなかった。稲作など生活に関わる新しい文化は取り入れても、自分たちのアイデンティティーの根源ともいえる、葬儀に関しては古来からの伝統を守りつ続けて来たのである。 畿内的視点では西暦239年に大和朝廷が全国を統一したことになっているが、「蝦夷」「日高見国」と呼ばれた北上川流域に、本当の意味での勢力が浸透したのは9世紀になってから。蝦夷最後の首領・アテルイが坂上田村磨呂との戦いに敗れてからのことだ。以来、生活、文化の全てが一変。約一万年前から脈々と受け継がれてきた縄文時代を源とする文化が終焉を告げたのである。(財団法人 岩手県文化振興事業団埋蔵文化センター、高橋與右衛門 http://www.pref.iwate.jp/~kiwate/data/meijin/jomon/body.html)
エミシ関連地図
北上市の鬼の館にある「悪路王」のレプリカ